2011年05月07日


アクティウム(歴史)

 ローマをエジプトに割譲するとした「野獣」アントニウスの振る舞いが暴挙であったことは間違いないが、彼には彼なりの成算がなかった訳ではない。その自信を支える根幹はアントニウスの軍事力とクレオパトラの財力だったろうが、彼らは政治的にオクタヴィアヌスの弱点を突くことも忘れてはいなかった。すでに有名無実化していた第二次三頭政治の解消を呼びかけたのである。

 元老院議員とローマ市民が主権者であるローマにおいて、第二次三頭政治はカエサル暗殺後の混乱を鎮める大義名分で設けられた一時的な体制である。ブルータスが倒れて共和政はすでに崩壊していたが、元老院は往時の記憶を忘れてはおらず独裁を嫌っている事情も変わっていない。ことに三頭政治の一角であったレピドゥスが失脚して以降、アントニウスはエジプトやギリシア、オリエントに赴いてローマを不在にしていたから首都ローマは事実上オクタヴィアヌスによって統治されていた。これはこれでオクタヴィアヌスが首都の優位を利用できる一方で、元老院議員としては独裁権力者オクタヴィアヌスと毎日顔を突き合わせていることになる。腰が低い若者は粗暴なアントニウスほど嫌われてはいなかったろうが、彼だってキケローら元老院議員を虐殺した張本人なのだ。
 アントニウスの構想はエジプト王家、というよりも妻と子供たちにローマの東半分を支配させて自分は後見人になるというものである。三頭政治を解消しても実質的な支配権は手元に残るが、オクタヴィアヌスは三頭政治がなければ若輩の元老院議員の一人に過ぎなくなるだろう。

 苦境に陥ったオクタヴィアヌスはヴェスタ神殿に預けられていたアントニウスの遺言状を公開するという策に出る。フェアでないのは承知の上、というよりオクタヴィアヌスはもともと目的のために手段を選ぶような人物ではない。遺言状が本物であるかどうかも不明だが、そこにはアントニウスの遺産をすべてクレオパトラの子に与えると書かれていたのである。アントニウスの遺産とはもちろんローマの東半分だ。
 こうしてオクタヴィアヌスはアントニウスとの政争をエジプト相手の防衛戦争にすり替えることに成功する。元老院を招集して三頭政治の解消を決議すると同時にアントニウスによるエジプトへの領土割譲は論じるまでもないと一蹴、自身は翌年の執政官に就任して「侵略者」クレオパトラへの宣戦布告を打ち上げた。ローマ全域に非常事態を宣言して討伐軍の総司令官に自分を任じると市民全員に戦時特別税を要求する。オクタヴィアヌスの目論見は軍費を集めることではなく、事態を深刻なものに思わせることで人々に危機感と使命感を植え付けることと、何より三頭政治の替わりとなる総司令官の権限を得ることである。任期一年で軍の指揮権も同僚と二分しなければならない執政官ではアントニウスに対抗し難いとは単なる正論だった。

 宣戦布告に応えたエジプトではアントニウス率いる軍勢がエジプトを出立、女王クレオパトラも絢爛豪華な旗艦アントニアを駆って自ら参戦しする。対するオクタヴィアヌスも事実上の指揮官となる盟友アグリッパを従えて出航、両者はイオニア海に船を進めるとギリシア沿岸に上陸するが、先んじて港を確保したのは同地に地盤を持つアントニウスだった。双方の戦力は陸上では互角だが海上ではエジプト軍が圧倒的に優位であり、巨大な五段層櫂船が当たり前のエジプト船団に比べてローマの船は軽快だが小型の三段層がせいぜいである。

 決戦を前にしてアントニウスの陣営では激論が戦わされていた。ローマ伝統の陸戦を進言する部下に対して、アントニウスは海戦による決着を主張する。海上戦力の一部はエジプトから借り受けていたこともあり、彼は陣営でもクレオパトラに懐柔されたのだという意見もあるがアントニウスにすればカエサル時代の内戦でイオニア海渡航に苦労を強いられた経験があり、ギリシアで制海権を確保することがどれほど重要かを理解していただけであろう。海域を抑えれば好きなときにイタリアに軍勢を送り込めるようになるのだ。
 一方オクタヴィアヌスの陣営では戦えば必ず負ける司令官に代わり、実際の指揮を採るのは今や練達の指揮官となったアグリッパである。兵員の数でも軍船の大きさでもエジプト軍が優位、だが一隻ごとの軍船には充分な人数を用意できなかったアントニウスは小型船をすべて放棄して大型軍船のみで圧倒する構えを見せており、アグリッパは機動力で対抗すべく敵船に投げ込む油とたいまつを多量に用意させる。

 こうして紀元前31年9月2日、歴史に名高いアクティウムの海戦が幕を開ける。激戦の主役となったのはアントニウスが率いるエジプト軍右翼とアグリッパ率いるローマ軍左翼で、互いの最強部隊が相手を制圧して包囲しようという構えである。エジプト船からは巨大な投石器から放たれる石塊が、ローマ船からは燃え盛る火が投げられるが船同士をぶつけあう戦いにならなかったのはアグリッパに幸いしただろう。アントニウスにすれば装甲は厚いが機動性に劣る大型船を縦横に操る自信がなかったのかもしれない。
 両者の攻防は激しさを増す一方で、互いに戦場を迂回して包囲を狙っていたせいもあって少しずつ本隊から離れていく。ところがここで思わぬ事態が勃発、アントニウスの右翼に取り残される形となったエジプト軍の本隊が突如反転すると戦場を離脱してしまったのだ。ローマに反逆する立場にあったエジプト軍ではそれまでも離脱や脱走者が出ていたが、結局のところアントニウスは一翼を任される指揮官ではあっても全軍を率いる総司令官ではなかったのかもしれない。

 本隊が失われては勝負にならぬ。アントニウスは後衛に控えていたクレオパトラに脱出の指示を伝えると、自分も彼女を追うようにして戦場を離脱するしかなかった。海上では未だ激戦が続いていたが、総崩れとなったエジプト軍は一部が北風に乗って逃げたものの港に逃げ込んだほとんどの船と、陸地に残された軍勢はそのまま包囲されて両手を上げてしまう。絶望したアントニウスは女王には同行せず一人アフリカへ引きこもってしまった。アントニウスの軍事力とクレオパトラの財力でローマに拮抗する、その一方が失われたアントニウスはもはや敗北を悟るしかなかったろう。
 史上有名なアクティウムの海戦、内乱の一世紀の最後を飾る決戦は残念なことに過去の英雄たちが繰り広げた戦いに並ぶことはなく、後世アグリッパの火と呼ばれる新兵器の伝説が語られる程度に過ぎない。敗軍の司令官は全軍を統率することができず本隊が逃げ出してしまったという有り様だが、勝利したオクタヴィアヌスも激戦に混乱する中で自分たちが勝ったことをすぐに知ることはできなかった程度である。その後、帝政ローマの平和が確立すると軍団や将軍が智勇を競う戦いは影を潜めることになり、いわば戦史家や小説家が注目する最後の戦いがこのアクティウムであった訳だが、それを最も残念に思ったのははたして誰であったろうか。
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