2011年08月28日


ローマの平和(歴史)

 侵略者エジプトに勝利したオクタヴィアヌスは凱旋式を催すとヤヌス神殿の扉を閉めてパックス・ロマーナ「ローマの平和」を宣言する。家の守り神である双頭神ヤヌスの神殿は戦時に開かれる決まりになっていて、数百年来開きっぱなしだったが内乱を終えて遂に平和が訪れたとアピールをした訳だ。さすがに戦争に飽きていた民衆は拍手喝采、新しい平和の到来を歓迎する声を上げた。
 こうしてアウグストゥスの尊称を得た若者は彼が掲げるローマの平和を旗印にして帝国全域の建てなおしを図る。その一つが内乱で増大した兵士たちの復員であり、属州と軍団の再編だった。カエサルの時代から一世紀も続いた内乱はようやく終結していたが、気がつけば軍団兵はローマ全土で五十万人にも達している。先の内乱ではオクタヴィアヌスとアントニウスの双方が軍団を増強して、敗者となったアントニウスの兵も多く降伏していたがローマの金庫はこれだけの大軍を養うにはとても足りず、半分どころか二十万人程度には減らしたいとアウグストゥスは考える。

 ローマの兵士は三十代から四十代には退役するのが一般的だが、彼らが辞めるに際してローマは退職金を支払わなければならなかった。幸いアウグストゥスの手元にはエジプトから手に入れた莫大な金があったから、何十年もかけた地道な努力の末ではあったが軍団兵の大幅な削減に成功する。プトレマイオス王朝崩壊後のエジプトはアウグストゥスの私領という扱いになっており、アウグストゥスはこの難地を治める責任を負った代わりにエジプト王家の財宝を手に入れていたという訳だ。現代でもアテネやカイロの情勢を見ればギリシア人やエジプト人を治める苦労がどれほどのものか容易に想像できるだろう。
 緻密で精力的な指導者であるアウグストゥスは、軍団兵の復員に合わせて属州や軍団そのものの再編にも手をつける。駐留する軍団はそれぞれの属州ではなく、不穏な国境沿いを中心に置いてそれらの統帥はそれぞれの属州が行うことにした。たとえばスペインには半島を合わせても一個軍団しかいないのに、裸でウホウホいうゲルマンの白人を見張るライン川周辺には七個や八個軍団を構えるといった具合だ。

 そしてアウグストゥスはこれらの属州を皇帝属州と元老院属州の二種類に分けてしまう。平和で経済的に豊かな属州は従来通り元老院から派遣される属州総督に統治させて、貧乏で不穏な地域はアウグストゥスが任命する司令官が治めるというものだ。皇帝属州のほとんどは国境沿いの危険な地帯であり、例えばライン川が不穏なのでドナウ川から軍団を送るといった事態を考えれば軍政は総司令官の下で統帥されることが望ましいだろう。もちろん総司令官とはインペラトールたるアウグストゥスのことだから、彼が任命する盟友アグリッパや義子ティベリウスといった将軍たちが国境に送られることになった。
 元老院はこれに反対しなかった。防衛システムの効率化は国が為すべき課題だし、内乱を終えて国境も平穏になればローマは潤うことになる。元老院議員も共和政以来の属州統治の権利を奪われた訳でもなく、どうせなら豊かで平和な地域を治める方がいいに決まっている。だが共和政の時代では、元老院議員は兵役を務めた者だけが資格を得ることができて軍団を指揮するのは執政官の役目だった。ハンニバルに大敗したカンネの戦いでは戦死した元老院議員が八十名にも及んでいたが、それは彼らが最前線で武器を手に戦っていたことを意味してもいる。キケローを例外にすれば元老院議員とは軍団と不可分の存在であったのだ。それが今では最前線の労苦と軍団兵の指揮はアウグストゥスに一任される。インペラトールの呼称だけではなく、実質的な軍事の統帥権はすべて引き渡されることになった。

 市民はどうであったか。ローマ市民の義務は原則として兵役への参加にあり、市民を代表する存在とは我が身を危険な義務に晒している軍団兵そのものである。そのため帝政では毎年一月一日、慣例として行われていた軍団兵からインペラトールへの忠誠誓約が信任投票の色彩を帯びるようになっていった。統治に不満がある軍団は宣誓を拒否することで彼らの意思を表明する訳だが、これは同時に「主権を行使できる市民」である軍団兵が彼らの統治をインペラトールに委ねたことを意味している。インペラトールの呼び名は本来、戦争に勝利した司令官を讃える歓呼だが前線にあるすべての軍団をアウグストゥスが従えるのであれば、これ以後は彼以外にインペラトールと呼ばれる者は存在しなくなる。
 こうして元老院の第一人者であり市民の忠誠宣誓を受け、平民集会を主導する護民官特権すら有する若い指導者は伯父が禿隠しに好んだ月桂冠ではなく、樫の葉で編まれた市民冠を被って人々の前に登壇する。月桂冠は敵兵を殺した将軍に与えられる栄誉だが、市民冠は友人の生命を救った者に与えられる勲章だった。戦乱は確かに終わり、ローマに平和が訪れたのだ。

 だがSPQRの実態が失われてパックスを掲げる指導者に取って代わられた、その意味に気がついていた者はいなかったろう。それはローマの第一原則が国民主権から平和主義に移行したということであり、アウグストゥスのローマが元首政ではなく帝政である理由はまさしくこれによるのだ。
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