2011年10月29日


アグリッパ(歴史)

 アウグストゥスがまだ若いガイウス・オクタヴィウスであった頃、大伯父たるカエサルに従い内乱平定に従軍していたが、首から下はものの役に立たない軟弱な甥が周到かつ緻密でどんな苦境にも激務にも耐えてみせる様子を見るに、すぐれた補佐役がいれば大事業を任せるに足ると思われていたかもしれない。あるいはカエサル自身即興が得意な天才肌の人物であるだけに、自分と似た人物ではかえってアテにならないとでも考えたのであろうか。

 カエサルの遺言状から推察するに、終身独裁官カエサル死後の体制は伯父の名を継いだオクタヴィアヌスをデキムス・ブルートゥスを中心とした「内閣」が支えるものではなかったろうかと思われる。そしてカエサルが信頼する若い将軍たちよりも更に若い甥のために、彼を直接補佐する人物が必要になることも当然だ。これは別にカエサルの独創でも慧眼でもなく当時珍しい例ではなかった。
 戦えば必ず負ける甥を助けるのであれば優れた戦士が望ましい。ローマの戦士に才走った俊英は求められず、陣営地や上下水道、公共施設を建造し、周辺の部族や住民との折衝を行い、給与から武器防具に食糧衣類の手配を整え、多民族からなる兵士たちを従える軍団長はその地位を務めるだけで軍事財政外交行政の経験を積ませることができた。であれば主人に忠実であるか、それこそ彼が選ばれた理由であったろう。

 青年の名はマルクス・アグリッパ。オクタヴィアヌスとは同年で、いち兵士からのたたき上げである。カエサル健在の頃から各地に従軍してしたし、少なくともスペイン平定に参戦していたことは間違いないがさして華やかな戦歴を残していた様子もない。カエサル暗殺後はオクタヴィアヌスが率いる軍団の実質的な指揮官となるが、将軍としては可もなく不可もなしというところであったようだ。キラ星のようなと表現したくなる、ガリア戦役を生き延びた将軍たちと比べるのも酷ではある。
 だが二十歳になる前からオクタヴィアヌスに代わって軍団を指揮することになった若者も、内乱の火種がくすぶる地中海西方を平定してアクティウムの決戦に挑む頃には十年を超える戦場経験を持つ宿将へと育っていた。今も伝えられるアクティウムの勝利はクレオパトラとアントニウスが自滅した感もあるとはいえ、少なくともアグリッパが軍団を自滅させなかったことは間違いない。三十歳そこそこでアウグストゥスの分身を務める戦場の勇者にしてアクティウムの勝者。内乱が終結したローマにおいて、マルクス・アグリッパはそのような人物だった。

 内乱後は首都でローマを再建するアウグストゥスに代わり、ローマの平和を旗印に軍団兵の復員と再編が行われる中で、主にライン川周辺の対ゲルマン最前線で長く国境の安定確保に務めることになる。総司令官たるインペラトールの呼称は主君のものだから、勝利はアウグストゥスへの感謝として祝われるが忠実なアグリッパはそれを当然だと思っていた。やがて若いティベリウスやドゥルーススが台頭してくると最前線をアウグストゥスの養子たちに任せ、首都に戻って以降も主君の腹心にして代理者としてローマ全域に渡る建築事業に従事する。アグリッパの名を冠した街道や橋や水道、神殿や町が次々と建築されていく。
 忠臣マルクス・アグリッパは最初は戦場で、更には政治や行政の舞台で、後にはアウグストゥスの娘ユリアを娶ると皇統の後継者まで残すことになる。アグリッパは能力どころか精力まで主君に捧げたと揶揄する言葉も存在したが、少なくとも当人が自分の境遇に不平を唱えることはなかったようだ。一時期、東方に派遣された折は主君と仲たがいをして遠ざけられたのだという噂もあったが、東が大国パルティアに接する要地であり生前のカエサルやアントニウスが遠征を企図した地であったことは無論である。そもそも自分の血統を残すことに異常にこだわったアウグストゥスが、平民出のアグリッパを娘婿にしている時点でどれだけ信頼していたかが窺えるというものだ。

 アグリッパの、そしてアウグストゥスの真意はどうであったろうか。世は共和政が帝政に移行してアウグストゥスはその最初の統治者となった人物であり、そして家族を重んじるローマ人にとって姻戚を結ぶことには大きな意味があった。歴史はアクティウムの勝者として指揮官アグリッパの名を残し、二千年を経た遺跡の数々には今なおアグリッパの名が刻まれている。だが人に揶揄されたユリアとの婚姻こそアウグストゥスが最大の感謝を込めて親友に与えた好意であり、アグリッパが最大の感謝で受け入れた栄誉であったかもしれないのだ。王政ローマの時代に遡るユリウス家を、ただ一人カエサルの後継者として受け継いだアウグストゥスの直系は娘のユリアしかいない。

 年来の親友にアウグストゥスは言ったであろう。これで俺たちは家族だと。
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