2011年11月27日


マエケナス(歴史)

 アウグストゥスの治世を語る上でもう一人、アグリッパと同様に欠かすことのできない人物がガイウス・マエケナスである。騎士階級の出自と言われており、敏腕な財政家だが元老院に議席を持ったことはただの一度もない金持ちの有力商人だった。アグリッパに比べれば歴史上に残されている記録に甚だ欠けているが、政治家の名前と比べて財閥の長の名前が目につかなくても無理はないということだろう。
 マエケナスの名は歴史とは別の場所に残されている。現在でも「メセナ」と呼ばれている、企業が芸術や文化活動を支援する活動はフランス語でmecenatと書きマエケナスが語源となっているが、ローマの平和が訪れてアウグストゥスの意を受けた彼は多くの詩人や芸術家を招くと家や土地を与えて彼らの創作活動を助けていた。そのためアウグストゥスの治世はラテン文学の黄金期とも呼ばれていて「アエネイス」を遺したウェルギリウスや大著「歴史」を書いたリヴィウスらはこの時代の人物である。共和政を賛美してカエサルの独裁を手厳しく糾弾するリヴィウスの筆致に対しても、アウグストゥスは干渉するどころかローマ古来の美徳を伝えていると評価し励ますほどだった。共和政復帰宣言の事情があったとしても、内乱に続く急速な繁栄と平和の中でモラルと道徳心の低下に憤慨していたアウグストゥスが質実剛健なローマを好んでいた事情もある。

 だがマエケナスやアウグストゥスの後援を受けたラテン文学黄金期の成果は、高い評価を受けている一方でそれにふさわしい傑作に恵まれたとまでは言い難い。「アエネイス」や「歴史」は名著だがラテン文学の傑作といえばカエサルやキケロー、タキトゥスの著述が上げられることが多くそれらは芸術活動ではなく裁判や政治活動、歴史著作として生まれている。リヴィウスの作中にある大仰な演説がキケローの作中にある大仰な演説に比べると迫力で劣ることおびただしいのは実用主義のローマ人らしいかもしれない。
 国家が芸術や文化活動を支援したこと自体は誤っていない。問題はアウグストゥスがそれらをモラルを改善するための道具として用いようとしたことにあったろう。古きよきローマの素朴や忠誠、質実、献身を題材にした作品を書きなさい。強要されたか否かは別にして、マエケナスの後援を受けた詩人や芸術家はパトロンの背後にいるアウグストゥスの声に耳を傾けない訳にはいかなかったが、それが彼らの創作意欲をかきたてるとは限らなかった。平和と繁栄のローマは軽妙な風刺や寸劇を好んだともいわれているし、ウェルギリウスは未完となった「アエネイス」が自身では気に入らなかったらしく、死に臨んで草稿をすべて焼き捨てるように言い残したがアウグストゥスが遺言の執行を妨げたおかげで遺されている。

 とはいえ歴史的な傑作に恵まれなかったからといってラテン文学の黄金期が色あせる訳ではない。統治者であり政治家であるアウグストゥスがラテン文学の完成度にまで責任を持つ必要はいささかもなく、内乱を終息させて安定の時代をもらたした若きリーダーが、すぐれた芸術批評家や後援者でなかったとして非難されるいわれはどこにもない。人々がアウグストゥスやマエケナスの後援を得て芸術や詩に専心することができたこと、高名な将軍ではなく高名な詩人の名が伝えられる時代が訪れたことは黄金期と呼ばれるに相応しく、作品の責はあくまで芸術家に負わせるべきなのだ。
 公益への援助が名誉ある立場を持つ者の責務であった古代世界で、ローマの平和を唱えた人物が芸術や文化活動を支援する。メセナ活動を創出した事実だけでアウグストゥスとマエケナスの功績は計り知れない。
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