2012年01月22日


大理石のローマ2(歴史)

 ローマ建築といえば神殿や広場といった建物はもちろんだが、長大な街道や水道の存在を忘れることはできないだろう。共和政の時代、カルタゴとの戦争よりもずっと以前にアッピウス・クラウディウスが手をつけて以来、広がっていった街道と水道は首都も地方も問わずに地中海全域を巡っていた。
 ただひたすら高低差もなくまっすぐに伸びるローマ街道はトンネルも橋もその一部であって、単に街道を敷くために山が邪魔だからトンネルを掘ったとか、川が邪魔だから橋をかけたという感覚でしかなく存在としては日本の鉄道網に近い。最前線の国境にかける橋であれば、いざとなれば焼き落とすから木で建てることもあるが恒久的な橋は街道と変わらない石造りが定番だった。

 ローマ街道がただ地面を舗装しているだけの代物なら二千年以上も残ることはなかったろう。街道は数メートルを掘り下げてから何層もの砂利や石を敷き詰めて、水はけを良くした上に石畳で舗装する構造をしている。道は中央が軽く盛り上がり、左右に排水溝が設けられていて雨水が川まで流されるようになっているという懲りようだ。街道の左右は数メートルに渡って整地されて、木の根が浸食しないように均されている。橋であれば橋脚をかけた上にこれだけの設備が敷かれているという訳で、何しろ街道の目的は軍用道路だから馬や車を従えた数千人の軍団兵の進軍に耐える頑丈ぶりだった。
 蛮族にすればこの街道こそ恐怖の的であり、いったん敷かれてしまえば敵をいくら倒しても彼方から次の軍団がやってくることになる。蛮族が訓練された軍団兵に対抗するには木々や複雑な地形を利用してゲリラ戦をしかけるしかなかったから、切り拓かれた見晴らしのよい街道で襲いかかっても勝ち目はなかった。街道は軍団だけではなく人々や物流の往来も促して、敷設には発展が伴いますますローマが富強になっていくという訳である。

 街道と同様にローマが領土を拡大するに伴い敷設されていったのが水道である。水源の調査を綿密に行い、水質と水量がふさわしいと判断されれば町に向けて引き込まれることになる。仮に湖であれば水面近くは汚れやすいからある程度深い場所から水が採られて、ふつうは地下を通る石造りの水路が掘られるが水がなだらかに下っていかなければならないから、峻嶮な谷間を越えるときなどは水道橋をかけることになる。水路は当然フタで覆われているが、補修ができるようにところどころが開閉できるようになっていた。
 石造りの水路を流れる水は町に到達すれば貯水池や噴水にいったん集められて、町の方々へと配られていく。蛇口はなく水は流れっ放しで、水圧や水量を確保するために自宅に水道を引きこむには金がかかったがそこらで汲めば無料だった。このためローマでは公衆便所や公衆浴場が市内のあちこちに設けられて、中世近代はもちろん現代の多くの国々よりもよほど清潔な暮らしを送っていたと言われている。町中の水道には鉛管が多く使われていたのでローマ人は鉛中毒で滅んだというトンデモ系の説もあるが、もしもアッピウス水道以来数百年もかけて鉛中毒になるなら赤チンの方がよほど危険というものだろう。実際には水中の石灰質が水路の表面を覆うのでけっこう水質が維持されていたが、放置すれば水路が埋まる原因になるので時折削り落す必要はあったらしい。

 何であれ手入れや補修をしなければそのうち壊れてしまうのは仕方がないことで、それでもローマ時代の遺物は数百年を経ても平然として残っていたが中世になると壁の飾りがきれいだとか石材に使いたいといった理由で人為的に壊されてしまった。レンガのローマはアウグストゥスやアグリッパの手で大理石のローマに変貌したが、キリスト教徒はこれを瓦礫のローマに変えてみせたという訳だ。だがスペインにはアグリッパの手になる悪魔橋と呼ばれる水道橋が建っていて、あまり峻嶮な場所にあって誰も近寄ることができないせいでかのキリスト教徒でも壊すことができなかった。悪魔橋の名は人間にこれだけの橋を建てられる筈がない、デーモンのせいに違いないと評された故の呼び名だがもともとデーモンとは神様のことであるからアグリッパは死後数百年をしてキリスト教徒すら認める神になったということだろう。
 それにしてもアグリッパが生涯でどれほど多くの公共建築を遺した人物であるかと思えば、さぞたくさんの悪魔を従えていたに違いないのだ。
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