2012年03月03日
国境防衛(歴史)
内乱が終結してローマでただ一人の支配者となったアウグストゥスの下には多くの兵士が残されていた。招集した兵士と降伏した兵士を合わせて50万人にも達していた軍団はそれだけで国家財政を圧迫する。アウグストゥスはエジプトから収奪した王家の財宝を退職金に当てて、兵士たちを復員させていく20万人まで削減することに成功した。数十年もの時間をかけた一大事業であり、兵士を減らすからには防衛戦略も変更していったのは無論である。
もともとローマにおける軍団兵とは市民兵の集まりで、戦争がある都度集められていたが土地や仕事を離れて市民が貧窮する事情を改善すべく、徴兵制を志願制に変えたのはガイウス・マリウスの時代である。マリウスの改革はローマ軍団を精強に戻したが戦争がなくなれば解散となる事情は変わらない。戦争や内乱が続いていた間はともかくローマの平和が訪れたからには彼らを復員させる大義名分は充分にあったろう。
この状況下でアウグストゥスは大規模な軍団の再編に取りかかった。とはいえポンペイウスやスラが東方を平定してカエサルがガリアを制圧したローマの版図は空前の規模に広がっており、騒乱の度に軍団を徴募していてはとても間に合うものではない。そこで平穏な属州を元老院に任せ、国境線を中心に統治の責任を負っていたアウグストゥスは常備軍を配備することを考える。あくまで不穏な属州に必要な防衛力を置き、不足する分を他の属州からまわすだけで国政を変える訳ではない。理屈としてはアルプス周辺のガリアに兵力を置いていたカエサルが不穏なガリア全土に軍団を出動させた、それを全ローマ規模で行おうというだけのことだ。
こうして蛮族や隣国と接する地域、ユダヤやスペインなど騒乱が懸念される地域に軍団が置かれるが、中でもゲルマニアと境を接するライン川には上流下流を合わせて七から八個もの軍団が配備される。勇猛な上に農耕の習慣がないゲルマニアの蛮族は干ばつがあったり寒波が来るたびにライン川を越えて侵入すると、押し出されたガリアの部族がローマになだれ込んでくるのが慣例だった。ガリアを平定したローマは同胞と広大な農地を守るために、ライン川全域を防衛線にして川向うの蛮族を監視するための軍団を配備したのである。
だがライン川防衛線はカエサル時代の産物であり、アウグストゥスとしてはこれを更に東のエルベ川まで押し出すことを考えていたらしい。成功すれば国境線は短くなり軍団もより少なくなるがこれは成功しなかった。国境を東に押し出すにはそこに暮らしているゲルマニア人を追い出すのではなく、服属させてローマの同盟者にする必要があるが定住する習慣のない彼らを味方にするのは無理だとカエサルですら匙を投げていたのだ。一時は打ち倒したが紀元九年にケルスキ族の長アルミニウスが叛旗を翻すと、今もドイツ民族の誇りとして名高いトイトブルクの戦いで司令官ウァルス率いる三個軍団が壊滅させられている。
ライン川を守る軍団の半数近くが失われたことを知ったアウグストゥスは「ウァルスよ、ウァルスよ軍団を返せ!」と嘆くと連れ子のティベリウスを最前線に投入した。アウグストゥスはなおエルベ侵攻を諦めなかったようだが、現地の事情を知ったティベリウスは防衛線をライン川まで引き戻してしまい、その後若い英雄ゲルマニクスが台頭しても彼がゲルマニアで奮戦する功績は讃えながら領土の拡大は認めようとしなかったほどだ。ともあれライン川であれば国境は安定し、後にこの防衛線が東のドイツ人と西のフランス人の言語圏を分けたほどだから、たびたびの襲撃や侵攻があったとはいえローマとゲルマニアの境は長く保たれていたことになる。
あるいはドイツ人とフランス人が同じ民族になっていたかもしれないといえば、ティベリウスの決断をドイツ人とフランス人の双方が讃えるだろうが所詮はゲルマニアとガリアの蛮族どもである、とはブリタンニアの蛮族の末裔たるイギリス人が語りそうなジョークである。
>他の戯れ言を聞く