2012年04月28日
戦争と平和(歴史)
ローマの歴史をたどってみると共和政と帝政で明らかに記述が変化していることがいくつかあるが、端的なひとつに戦争に関する記述がある。ローマの平和を掲げたアウグストゥスの下で、世界は平和になり争いがなくなりましたという訳ではない。アウグストゥスの時代でも国境を越えて蛮族との戦いは続いていたしその後もゲルマニアやブリタンニアへの遠征、ユダヤ討伐やダキア戦役など代々の皇帝が戦乱に携わっていくことになる。その動機も事情も一様ではなく、国境紛争もあれば遠征も、反乱の鎮圧もあれば内乱によるローマ軍団同士の衝突さえあった。圧倒的な勝利があれば屈辱的な敗北があったことも無論である。
変化したのは戦争そのものに対する記述であり、ことに戦場で軍団を縦横に操り勝利を得るための戦術に関する描写がほとんど見られなくなったことだろう。共和政であればスキピオやポンペイウスにカエサルといった名将が戦場に兵を駆って敵を打ち倒していく姿はもちろん、カンネで一敗地にまみれたヴァロやパルティアン・ショットに苦杯を飲まされたクラッススらの敗戦も仔細に残されている。彼らの中には古代の戦い、というタイトルでアレクサンダーやハンニバルと並べられる栄誉に浴している者も少なくない。
ところが帝政以降はこうした戦いの描写を見つけることがことのほか難しくなる。ゲルマニアを相手に奮戦するティベリウスやゲルマニクス、ブリタンニアで威を振るったアグリコラ、エルサレムを陥落させたティトゥスにダキアを平定したトラヤヌスなど、皇帝やその親族による戦いの記録は決して少なくないが彼らの戦いぶりが古代の英雄に並べられることはない。
なぜかといえば理由はごく単純で、戦術において見るべきものがなかったからだ。ルクルスが十倍の敵に完勝してみせる戦いが帝政では必要なかった。アグリコラは蛮族の森を切り開き、ティトゥスはユダヤ人の洞窟をひとつひとつ潰していき、トラヤヌスは蛮地に続く街道と橋を整備して圧倒的な大軍を最前線に送り込む。ネロ時代の名将コルブロが酷寒の地で兵士に陣営地を掘らせたように、剣と盾ではなく街道と陣営地で戦うのが帝政ローマなのである。そこには劇的な勝利や華麗な逆転劇など存在する筈もない。
だがユダヤやゲルマンの野蛮人にとってこれほど嫌なことはなかったろう。武器を手に襲いかかってくる相手であれば返り討ちにすれば良いし、相手が強くても不意打ちや寝込みを襲うことはできる。そう思っていたがローマ人は自分の庭の目の前までまっすぐ街道を敷いてくると立派な陣営地を築くことから始めるのだ。建物は石造りで高い柵と深い濠に囲われており、上下水道完備で病院や劇場もある陣営地はみすぼらしい蛮族の集落に比べれば堅固な要塞にしか見えなかった。これがいくつも築かれてそれぞれが整備された街道で繋がれて、周囲は木々が根っこまで掘り返されて見晴らしがよくなるように整地されるから隠れて襲いかかることも難しい。準備万端になるとこの陣営から巨大な戦車にも似た攻城兵器が繰り出される。丸木を門に打ち付け、岩のかたまりを投げ上げ、火矢を防ぐ装甲と毛皮で覆われており城壁よりもずっと背が高い。こんなの相手にできるかと逃げればそこにも新しい街道と陣営地が築かれて、気がつけば領土など無くなってしまうのだ。
元老院の第一人者であり軍団の総司令官たる皇帝がいるからこそ帝政ローマはこの方法で戦うことができた。共和政では属州総督が自分の属州にこの方法を使うことができた筈だが、街道や陣営を築くには金が必要で裕福な属州は平穏だからこそ裕福だった。裕福な属州の金を不安定な属州に使うことができる皇帝が現れて、ローマはわざわざ兵士に危険を冒させてまで戦場で雌雄を決する必要がなくなったのだ。
トイトブルクのような例外もあったとはいえ、戦いの犠牲が減り敵が逃げたり降伏してくれるならばそれはよほど平和的だったろう。ちょっとした副産物があるとすれば、戦場で雌雄を決する必要がなくなった彼らがいざ内乱で雌雄を決することになったとき、互いに駆使すべき戦術を忘れて無様な殺し合いしかできなかったということだが内乱に備えて兵士を鍛える輩がいなかったことこそ正しく帝国が平和であった証拠なのである。
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