2012年06月23日
後継者(歴史)
アウグストゥスが政治の名人であったことは当時でも後代でも多くの人間が認めているが、その彼をして後継者問題では人の親にならざるを得なかった、とは彼を批判あるいは惜しんで聞かれる評価の一つだろう。ユリウス家の血統に執拗にこだわり一人娘ユリアの子を次々と養子にした経緯は確かにほめられたものではないが、では当時の事情を鑑みて他に手があったかといえば正直なところ難しい。
内乱がようやく収まって元老院の第一人者と平民集会の代表者をアウグストゥスが兼ねる制度が生み出された、その後継者を誤ればもう一度内乱が起こることは目に見えている。そしてローマの法律では執政官だろうが護民官だろうが親の地位を子に継がせることはできないが、親が持っていた名誉や権威を子に継がせることは伝統だった。後に帝政ローマにおいて皇帝の呼称が「カエサル」となるが、カエサルの家を継ぐことは国家の父であり総司令官でもあるカエサルの名誉を受け継ぐことを意味している。養子縁組が許されているローマだからこそ後継者が血縁者でなければ混乱は避けられなかったろう。
当時、アウグストゥスは正妻リウィアとの間に子をもうけることができず、前妻との間に産まれていた一人娘のユリアにローマの平和を維持する大任が委ねられていたことになる。紀元前23年、ユリアの夫が急死すると重臣中の重臣たるアグリッパが再婚相手に選ばれてこの結婚から多くの子が産まれた。ところが俊英として期待されたガイウスとルキウスの二人が若くして夭折してしまう。落胆したアウグストゥスは末っ子アグリッパ・ポストゥムスを引き取るが、兄二人と異なり野卑な放蕩者として名高いポストゥムスはとてもローマを任せる器ではなく後に追放されてしまった。
そしてアウグストゥスは不実不徳な行為を罰するいくつかの法を制定しており、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法やユリウス正式婚姻法なるものが設けられていたがこれを堂々と犯していたのがよりにもよってユリアという有り様だった。この娘、どこまで事実か分からないが不義密通を繰り返した挙げ句に産まれた子は皆アグリッパに似ていたのでどうしてかと問われると「船が満載のときしか客を乗せないからよ」と答えたという。ようするに孕んだときだけ行為に及ぶという訳だが、本当にこんなことを言ったかどうかはともかくあまりの乱脈ぶりに彼女も追放されたことは事実だった。偉大な政治家でも娘や孫の所業を戒めることは至難であったというらしく、気の毒な彼らは離島に幽閉されて生涯を終えることになる。
ところで放蕩者ポストゥムスを引き取ったとき、アウグストゥスは妻リウィアの連れ子で将軍としても政治家としても名高いティベリウスも養子に迎えていたが、更にティベリウスには姉オクタヴィアの血を引く甥のゲルマニクスを養子に迎えさせている。ゲルマニクスは赤子の頃から陣営で育った若者で、思慮深いとはいえないが快活で勇気のある好青年で誰にでも親切だった。ティベリウスは能力でも実績でもアグリッパの後任を務めるにふさわしい人物だが性格は陰気で青年の頃に若年寄と呼ばれたほど分別くさく、間違っても人に好かれる質ではなかった。一歩誤れば内乱も起こりかねない後継者選びで、このティベリウスに頼るのであればゲルマニクスを養子に迎えさせる必要はどうしてもあったのだ。
内乱を避けるために家系と血筋に固執したことが正しかったか否か、それを問うことはほとんど意味がない。もう百年内乱をしますかと問われれば不安の芽はすべて摘み取らなければならず彼らに選択の余地はなかったろう。だが仲のよい妻を離縁させられたティベリウス、ひたすら皇帝の世継ぎを産まされたユリア、そして未来の皇帝ゲルマニクスのために幽閉されなければならなかったポストゥムスらが気の毒であったことだけは疑いようのない事実なのだ。
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