2013年07月28日
鋼鉄の巨人(歴史)
ティベリウスは主権者たる元老院とローマ市民に等しく嫌われた皇帝だが、統治者としては精力的でむしろ名君と呼ばれるに値する事跡を残している。彼の時代、国境は平穏で蛮族の侵入が成功することはなく隣国パルティアの蠢動も未然に防がれていた。街道の治安は保たれて交易は活発になり財政は健全、国庫は潤沢でローマは平和と繁栄を謳歌していたのだ。
アウグストゥスの手で首都はすでに再建されていたから、ティベリウスは国境線や街道網の整備に尽力している。地方の公共事業が推進されて人々に職をもたらすと同時に、防衛力の強化、治安の改善、交易量の増加といった効果が生みだされていた。出自や身分を問わず有能な人材が登用されて現地行政に携わり、人間が強力な社会基盤の一部となり多くの完了や軍人を輩出する。いくつかの失策や誤謬も犯しはしたが、これだけ協力な統治の成果を無視するのでなければティベリウスは優れた皇帝だったと言うしかない。
私人としての彼はどうであったか。鋼鉄の巨人と称したくなる頑健な風貌で、伝えによれば一本の指でりんごに穴をあけることができたという。性格は厳格そのもので不正を徹底的に嫌い、兵士の反抗には厳しく臨みながら契機となった満期除隊の徹底は改めたりもしている。共和政時代の悪習たる属州総督の不正を訴えた裁判には特に足しげく通い、共和派の歴史家タキトゥスはティベリウスを嫌いながらも彼の手で属州の不正が減ったことを正当に認めている。
ワインを水で割らずそのまま飲んだので「飲ん兵衛」や「熱燗くん」という呼び名をたまわった。快活で勇敢な弟や息子と異なり、若い頃から陰気で分別くさかったので「若年寄」とあだ名されたこともある。スヴェトニウスの記述によれば晩年、隠棲した私邸に卑猥な絵画や彫像を飾り房事にふけったとあるがいくら発掘してもそうした形跡は見つからなかった。彼の恐怖政治で処断された数十人の議員はセイヤヌスと彼に協力した人々だった。
そのティベリウスがなぜこれほど嫌われたのか。皇帝は嫌われることすら承知で統治の実を優先した、といえば聞こえはよいがむしろ皇帝は人に好かれるように振る舞うのがそもそも嫌いだったように思えなくもない。特に元老院議員には当初こそ協力を求めたふしが見られるものの、失望をたびたび言葉に表しているし後年には首都に近づくことすらやめてカプリ島の私邸から統治を行うようになっている。元老院には堪え難い屈辱だったろう、自分たちが歯牙にもかけられずにローマが繁栄しているのだから。
金融政策を断行して財政の引き締めを行ったティベリウスは、皇帝主催の競技や式典を中止して国庫を過去にないほど潤沢にしたが「けち臭い」統治者が市民に好かれるはずがない。公正だが気難しく、息子の死すらも平静に受け止める性格が人々の共感を得られるわけがない。死後の神格化を自ら拒絶したと伝えられているが、ティベリウスの死を聞いたローマは哀悼どころか喝采の声をあげたから記録抹殺刑にされないだけましだった。
国家に公正と発展をもたらすことが統治であれば皇帝は疑いなく名君だが、国家に公正と発展をもたらしたことを人々に理解される必要があるならティベリウスにはまさしくそれが欠けていた。「もしも後代の人が私の事跡を認めるならば、それが私に捧げられる神殿である」だがいっそ自分が軽蔑する者には嫌われたほうが精神衛生上よろしい場合もなくはないのだ。
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