2013年08月25日


小さな軍靴(歴史)

 ガイウス・ユリウス・カエサルの名を与えられ、英雄ゲルマニクスの姓を受け継いだ若者がいる。ティベリウスの後を継いで第三代皇帝となるガイウス・ゲルマニクス、後の狂帝カリグラである。
 なぜよりにもよってカリグラが選ばれたのかという声もあるが、当時の事情を考えれば他の後継者はありえなかった。そもそも先帝ティベリウスはアウグストゥスの妻リヴィアの連れ子だったから、ユリウス家の血をひくゲルマニクスの養父、カリグラの養祖父になることで彼は皇帝になれたのだ。史料にはカリグラが皇帝になるためにティベリウスをふとんむしにしたとあるが、そんなことをせずとも誰もが彼を選んだ。

 父ゲルマニクスがライン川防衛線に駐屯していた当時、幼いガイウスはことのほか兵士に気に入られて「小さな軍靴」を意味するカリグラの愛称を与えられている。父が急逝し、母や兄が追放されるとカリグラは祖母や曾祖母に育てられて後にはティベリウス自身に引き取られた。英雄の息子が嫌われ者の皇帝に育てられたのだから人々には受け入れがたい話だが、ティベリウスはゲルマニクスの息子を後継ぎにすることに異はなかった。
 こうしてごく穏当に育った青年ガイウスだが、皇帝が世界中の人々に嫌われていることは理解できたろう。ティベリウスが死んで喝采を叫ぶ市民の様子を見たガイウスがあのようになりたくないと思っても不思議はない。太陽の昇るところから沈むところまですべての世界に祝福されたという、人々の度を超した歓迎がそれに拍車をかけた。

 史家が言うには皇帝カリグラが即位して七ヶ月、人々は幸福だった。嘘ではないがそのせいで七ヶ月後の病臥とその後の統治ぶりを狂気と断じるのは短絡的に過ぎるだろう。病気や遺伝、権力を経て変貌した、はては魔法の薬を飲まされたという荒唐無稽な説明を設けてまでカリグラの狂気は言及されているが、実のところ幸福な七ヶ月とやらにしたところで彼の統治が賢明だったとは言いがたい。
 新皇帝は即位を記念して三ヶ月におよぶ祝祭を催し、兵士には特別賞与を配り、市民には皇帝主催による剣闘士競技を再開させた。ティベリウス時代の反逆罪をすべて無効にする通告を出し、追放された母や兄の遺骨をローマに持ち帰る。更には大規模な減税や元老院の増員など、わかりやすいほどの人気取り政策に終始していたから人々が喝采して若い指導者を支持したのも当然ではあったろう。むろん、これらの財源は先帝ティベリウスが築いた財政基盤からもたらされていた。

 その結果国庫は二年で空になってローマの財政は破綻する。実のところ内乱の後始末でアウグストゥスは金を使い果たしており、ティベリウスの緊縮財政はそれを受けてのものだったから人が思うほど国庫に金があふれていた訳ではない。カリグラはけっして狂人ではなかったが、もしもこの後に訪れる彼の暴政が狂気によるものだったとすれば、その原因は病気でも遺伝でも権力でもなく、単にカタストロフィに面して現実から目を背けようとしただけだ。
 だとすれば狂っていたのはカリグラ一人ではなく、彼の放漫財政に喝采を叫んだ人々も同罪である。鋼鉄の巨人ティベリウスは多くのものをローマに残したがたぶん節度だけは墓場に抱えていったのだろう。
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