2009年02月05日
マゼラン(偉人)
歴史上、最初に世界一周を果たした人といえばもちろんマゼランだ。フィリアス・フォッグと答える人がいたとすればそれは楽しいが彼は80日間で世界を一周した人である。
ポルトガル生まれの探険家で本名はフェルディナンド・マゼラン。1519年にスペイン王カルロス(後のカール大帝)の後援を受けて旗艦トリニダー号率いる5隻の艦隊で出港、南アメリカ南端を突破して太平洋を横断するがフィリピンで戦死、残された艦隊がスペインに到着して世界一周を完成させたというのは有名な話だ。
ここで意地の悪い人は言う。では世界一周をしたのは戦死したマゼランではなく、生きてスペインに到着したビクトリア号の船長セバスチャンではないのかと。その通りなのだがこんな反論もある。マゼランは若い頃にモルッカ諸島への東回りの航海を体験しており、西回りにこの地を訪れた後に死去したのだからやはり世界一周はマゼランが最初だ、というのである。実際にマゼランの目的は「香料諸島」とまで呼ばれたこのモルッカへの西回り航路を発見することだった。
そんなマゼランの偉大な世界一周、その遍歴を追う前に次のことは知っておいたほうがいいだろう。それは2000年以上前のエジプト人もローマ人も知っていた、地球の大きさを500年前のマゼランはどうやら知らなかったらしいということだ。
当初、彼の発案は生国ポルトガルには色よい返事をもらえず、かわりにスペイン王の後援を得るとトリニダー、サンアントニオ、コンセプシオン、ビクトリア、サンティアゴの5隻の艦隊を組んで世界一周の航海に乗り出す。勇躍大西洋を渡って南アメリカ大陸沿岸を南下するが、彼らはその大陸がどこで終わるかを知らなかった。そこで大きな川が見つかるたびにそれをさかのぼっては、向こうに渡ることができないものか試してみようということになる。
冬の最中で寒さばかりが厳しくなるのに、そんな無駄足を繰り返すとあっては船員たちもたまらない。いっぺんに3隻が反乱を起こすとなんとか鎮圧するものの、ようやく見つけたマゼラン海峡を突破するまでに1隻は難破、1隻は逃げてしまって残りは3隻になっていた。それでも苦労してたどり着いた大海原を前に、マゼランはここを平和の海(太平洋)と名づけることを決める。
ところがこの太平洋、どれだけ行けば横断できるのかをマゼランたちはやっぱり知らない。そこで果てしなく水平線だけが見える中を、彼らは海流に乗ってただひたすら流され続けたのだ。ようするに漂流していたのだが赤道近辺のこの海流は都合よく西に向かっていたから、100日ほど流された彼らは遂に現在のグアムと思われるあたりに漂着した。その頃船内には餓死者と病人が積み上げられていたのだが、わずかな生き残りは喜び勇んで島民に襲いかかると食料を入手、これを奪い返されたので怒ったマゼランはこの島々を泥棒諸島と呼ぶことに決める。平和の海とはずいぶんな違いだが腹を満たしたマゼランは航海を続けて遂にフィリピン諸島を発見すると、ここに彼らは世界一周を完成したのである。
上陸したマゼランは現地セブ島の指導者ラジャ・フマボンをキリスト教に改宗させると、彼を王にしようとするがいきなりそんなことを言われてもまわりの島は納得しない。隣りの島から王様ラプラプが攻めてくるとマゼランをぶち殺してしまう。残された船員はほうほうのていで逃げ出すと東回り航路を逆にたどってようやく1521年、ビクトリア号ただ1隻がスペインに帰還したのである。
ちなみにこの西回り航路、あまりに危険だということで結局使われることはなかったし、かのマゼラン海峡も狭い海峡に暗礁が広がる航海の難所として知られていて、いっそ大陸南端を迂回したほうがマシというものだった。後に漂流しないで世界を一周する偉業はキャプテン・クックが成し遂げるし、冒険家ヘイエルダールはこの太平洋をなんとイカダで横断してしまう。
無知と無謀が多くの犠牲者と反乱者を生み出したマゼランの大航海。侵略者マゼランを撃退したラプラプは今でもフィリピンの英雄だし、泥棒諸島の話を見ても彼らの航海は決して誉められたものではないが少なくとも彼の勇気は否定されるものではないだろう。
勇敢なマゼランに幸あれ。
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