2010年02月24日


ラマヌジャン(偉人)

 偉人や天才と呼ばれた数学者たちの名前は数多く知られているが、十九世紀末から二十世紀中頃のイギリスの数学者でゴッドフレイ・ハロルド・ハーディという人が「1から100までランク付けをするのであれば自分が25点で彼は100点だろう」と評されたほどの人物がいる。数学の祖国インドで「魔術師」と呼ばれた天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンである。

 1887年、貧しいバラモンの家に生まれたラマヌジャンは厳格なヒンドゥー教徒として育てられていたが、幼い頃から俊英で数学にも強い興味を見せていた。だが学問に対してはあまりに天才的、直感的であり奨学金を得て大学に進学したものの数学に熱中するあまり授業に出席しないという、実に彼らしい理由によって奨学金を打ち切られて退学を余儀なくされている。その後も港で事務員の仕事をしながら独学を続けていたが、周囲に勧められてイギリスの教授連に当てて研究成果を送りつけたのが1913年のことだった。
 とはいえ大学中退後に独学で書いたという、正体不明の論文に目を通そうという酔狂な人物は多くない。ラマヌジャンの手紙は放置されていたがある時、先のハーディ教授の目に留まることになった。手紙は論文そのものとしては酷いもので間違いや錯誤、古臭い定理まで書きなぐられていたというが、一部には自分でもどうしても解くことのできない命題やこれから発表しようとしていた成果まで含まれていたのである。驚いたハーディは10歳ほど年下のインドの若者をケンブリッジ大学に招聘することを決めた。

 渡英したラマヌジャンは四十篇ほどの論文や研究結果を発表したが、厳格な菜食主義者だった彼はイギリスのマズイ飯に耐えられなかったのか病に倒れると帰国、1920年に32歳の若さで永眠してしまう。ハーディは彼に体系だてた数学を教えようとはせず、その直感に任せて生み出された着想を二人で証明してみせるという手法を取っていた。ハーディ自身は「彼にそれを教えれば偉大な数学者になったろう。だがラマヌジャンではない普通の数学者にもなってしまっただろう」と述懐している。
 ラマヌジャンの論文や手紙に記された定理は当時でもすべてが証明された訳ではなく、後に多くの数学者が試みて1997年にようやく解決している。知られているところではラマヌジャンの保型形式、ラマヌジャン予想と呼ばれるものがあるが彼がどうしてその結論にたどり着くことができたのか、その着想は未だ明らかになってはいない。他にも円周率を算出する公式を発見し、それを使って1985年にウィリアム・ゴスパーという人が1700万桁を超える値を計算してみせたが、なにしろその答えが正しいのか証明されていなかったので古い円周率と照合して確認したということだ。

 ラマヌジャンの有名な逸話としてSFなどで知られるハーディ・ラマヌジャン数、タクシー数と呼ばれる数字がある。病院にいるラマヌジャンの見舞いにきたハーディが自分の乗ってきたタクシーのナンバーが1729だったというと、ラマヌジャンはそれは面白い数字だねと返す。1729とは12×12×12+1×1×1であり10×10×10+9×9×9でもある、つまり二通りの二つの立方数の和で表せる最小の数だというのだ。
 この数式自体は複雑な計算は必要なく、1729=1728+1=1000+729だから、12の3乗と9の3乗を覚えていれば思いついても不思議はない。だが1729がこうした組み合わせの最小の数であることは計算しなければ出てこないだろう。一見して意味のなさそうな数字を聞いて、すかさずそこに意味を見出したラマヌジャンがどれだけ数字に親しんで生きていたかを思わせるエピソードである。

 どうして君がそういう結論に至ったのか分からない、そう言われたインドの魔術師ラマヌジャンの発見はそれが解析されるまで数十年を必要としたが、解析された結果を当時の彼がどうして見つけ出すことができたのかは今もってほとんどが不明のままである。数学は今でも未解決の命題を無数に抱えており、それは現代でも増え続けている。
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