2011年05月26日
エヴァリスト・ガロア(偉人)
史上に挙げられる数学の天才と呼ばれる人たちは多くいるが、生前に高名になった幸運な者もあればあまりに才能があったために死後も長くその功績が理解されずにいた者も少なくない。エヴァリスト・ガロアはわずか二十年の生涯の中でガロア理論とまで呼ばれる現代数学、ことに代数学の先見的な理論と着想を残した人物だが、それは彼が短い生涯を終えた後に数十年を経てようやく認められて確立されることになっている。
ガロアは1811年にパリ郊外に生まれ、裕福だがごく穏当な家庭で育つと十二歳に名門ルイ・ル・グラン校に入学する。当初はラテン語やギリシア語で優れた成績を修めていたがやがて授業に不熱心になり、健康がすぐれなかったこともあって二年次に留年すると持て余した時間で数学の授業に参加、やがて熱中するようになる。ところが当時のフランスでは数学があまり重視されてはおらず、若いガロアは数年分の教材を数日で終えてしまうと数学者の本を独学で学ぶようになった。教師陣はこの少年をつまらない質問ばかりする反抗的な生徒という程度にしか考えなかったうようで、ことに同校では保守的な学内の思想に学生たちがしばしば反攻することが多く、ガロア自身もそうした空気の中で革命家というよりも活動家的な性向を深めていた。「数学への熱狂に支配されているが、学校には喧嘩をするために来ているだけだ」という当時のガロア評が残されている。
とはいえ数学への興味が廃れることがなかったガロアは理工科学校への受験を試みるが失敗、充分な準備を怠ったためだとも試験官が彼の才能を理解できなかったためだとも言われている。それでも進級していくうちに彼の才能を評価する教師にも出会い、薦められて研究論文を書き上げたが学士院への提出を頼まれたコーシーという人物が論文を提出もせずに紛失してしまい、なくしたからもう一度書いてくれと告げてくる始末だった。
更にこの時期、少年が敬愛する父ニコラが自殺するという事件が起きた。もともと自由主義的な思想で町長を務めていた彼に反発する教会との軋轢が原因だったとされており、教会がニコラの名で卑猥な詩をばらまいたとも言われている。更にガロア自身も再び理工科学校への受験を試みていたがまたもや失敗、口述試験の試験官がガロアの理論をまるで理解できず、怒ったガロアが黒板消しを投げつけたという伝説もあるがいずれにせよ入学試験は二回までという制限が設けられていたために入学の道は閉ざされてしまう。
やむなく教師予備校に入学すると研究を進めるガロアは再び論文を執筆、科学アカデミーに応募するがこれを預かったフーリエという審査員が急死してしまい、またもや論文は紛失されてしまう。どうもガロアが不幸というより当時の学会では論文がなくなるのは普通だったのではないかと思わせなくもないが、懲りずに書きあげた論文を今度はポアソンという人物が理解しがたいと突き返されてしまう。ちなみにこれこそ後に「ガロア理論」として世に見出される論文だった。
時は1830年で世はフランス革命後の混迷のさ中、立て続けの挫折はガロアを数学の世界から政治活動の世界へと進ませることになるがこれまでの遍歴を見れば同情する余地はある。オーギュスト・シュヴァリエという過激な共和主義者と出会ったガロアは革命への参加を試みるが教師予備校の校長は学生たちを校舎に閉じ込めて対抗。しかもこの時期、あの理工科学校が武器を手に革命に参加したことがガロアを一層苛立たせる原因となった。急進的な秘密結社に加わったガロアは学校に反発、校長を批判する記事を学内新聞で発表するにいたり遂に放校されることになる。
過激な言動が目立つようになったガロアは国民軍と称する自警団の制服を着てパリの町中を練り歩き、ナイフを手に「ルイ・フィリップに乾杯」と叫んで逮捕投獄、六ヶ月の禁固刑に服す。ようやく釈放されると女性との恋愛問題を引き起こして二人の人物に決闘を申し込まれるが、相手が愛国者を名乗っていたことが断ることを許さなかった理由であるとも言われている。前夜、別れを告げる言葉と論文への着想を記した幾つかの手紙を書くとピストルを手に決闘に赴くが、撃ち合いに倒れると弟の手で病院に運ばれやがて息を引き取った。涙を流す弟に「泣かないでくれ、二十歳で死ぬには相当の勇気が要るのだ」と告げた言葉が辞世の句であったという。
時に1832年。ガロアの死後、その遺言でようやく発表されるにいたった彼の論文は当時の大数学者ガウスやヤコブらにも理解されなかったが1846年にリューヴィユの目に止まり掲載、1870年にカミーユ・ジョルダンの発表の中でガロア理論として確立する。リューヴィユはガロアが生前認められなかった理由を「あまり論文を簡潔にまとめすぎて、かえって明快さに欠けたのではないか」と分析した。
肝心のガロア理論の内容は体論や群論の先見的な研究として「五次以上の方程式には一般的な代数的解の公式がない」という定理を証明したこととされているが、こう書いてもたぶん現代の普通の人には分かりづらく、結局ガロア理論よりもガロアの生涯が注目されてしまうのは気の毒なところだろう。例えば学校で習う二次方程式や三次方程式をご存知だと思うが、十六世紀までには二次、三次、四次方程式を解くための公式が見つけ出されていた。だが天才ガロアが主張したのはそもそも五次以上の方程式は解くことはできるけれど解くための公式は存在しない、というものだった。数学者たちが見つけることのできなかった公式を発見したのではなく、そんなものはハナから存在しないのだということを証明した。いかにも「はねかえり」のガロアらしい理論ではないか。
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