2011年08月20日
事故にまつわる不謹慎な話
あえて偉そうな表現を使ってみれば、社会や国家というものの健全度を測る方法は労働者の失業率や犯罪の検挙率を調べるよりも事故や災害の発生件数を調べるほうが良いであろうと考えている。本来、社会が市民に対して提供すべきものは何かといえば社会資本、インフラストラクチャーの整備でありそれが不充分であれば災害を防ぐことが困難になるし事故が起こりやすくなるという訳だ。凶悪犯罪が起きてぶっそうな世の中になったわねえと嘆くよりも、クレーンが倒れてアーケードの屋根が落ちてトラックが突っ込んだニュースを見てもああまたかと思ってしまうのであれば、その社会はよほど衰退した社会と言うことができる。健全な社会であればこのようなときに「またか」ではなく「なぜだ」と考えることだろう。
ところで政治や行政においては本来、何事によらず対処能力を上げるよりも未然の防止を行うことがふさわしい姿なのだが、事故であれ災害であれ何も起こらなければ予防の必要性を理解しないというのは蛮人文化の常である。インフルエンザが流行らなければ手洗いもうがいもしないという人が、世の中にどれだけいるか考えてみればいい。古来より歴史家と民衆は平和な社会の王様を指して何もしない無能者だと罵るし、混乱を引き起こしてそれを見事に解決してみせる政治家を尊ぶものである。とはいえいずれの場合も混乱を引き起こしてそれを解決もできない政治家よりマシであることには違いない。理想の政治とはマッチポンプと同義語なのだ。
話を事故に戻せば、先の原子力発電所で起きた事故という名の人災に対して、原子力発電そのものを禁止する声が高まりを見せたことは周知の通りだろう。ごく最近に地球温暖化への警告を唱えて火力発電を非難した人々が、天然ガスをばんばん燃やしながらエアコンの効いた部屋でアイスコーヒーを飲んでいるのだから、エアコンも冷蔵庫もない国の人々を説得できなかったのも無理はないがそれはそれとして。
災害の発生をすべて防ぐことはできないし事故は常に起こりうる、だが防ぐことができた災害を放置して、予測できた事故に備えずにいることは単なる怠惰でしかないだろう。そして奇妙なことにこの国では怠惰を起こした人が手にしていた道具を罰するのが常である。罪も人も憎まず道具を憎む、付喪神が聞けば眉を吊り上げて怒るに違いない。
津波や洪水が原因で事故が起きる。川の近くで暮らすことにした人類社会では古代どころか原始時代から起こっていた災害だが、これを防ぐために堤防を建てたり土嚢を積んだりするのは原始人でもできることだった。古代人というのはこの点で現代人にも勝る文明を維持している人々だったから、下水溝を掘って押し寄せる水を別のところに流してしまう仕組みを思いついている。偉大なる古代ローマに限らずとも、古代中国でも古代日本でも治水工事を行っていたしエジプトの文献には治水工事をして以来、干ばつが起きても作物が獲れるようになったし洪水が起きても氾濫しにくくなったと記されている。ちなみに数千年を経て、このエジプトには発電はできるが治水ができない不思議なダムが建てられて下流域の農業が崩壊してしまった。
とはいえこうした社会資本の整備にはカネがかかる。古くは王様や金持ちが民衆のためにこれを自腹で用意して、それで人々の支持を得た訳だが民主主義をうたう市民であれば税金を費やしてこれを賄わざるをえない。税金を下げて社会資本を劣化させるか、税金を上げすぎて不要な社会資本まで整備するか、きちんとバランスを取るしかないという事情は古代ギリシアから変わらない。ちなみに税金といえば復興増税という単語にどうも違和感や疑問を感じている人間が少ないように思えるが、はるか古代より災害復興は増税ではなく減税で対処するのが常であった。一定期間、被災地の税金は免除するからその間に復興してねという訳だ。規模が大きくなるほど集めた税金をどうやって被災地に配分するか、そのテマヒマにカネがかかってしまうのだが減税であればそれを考えずに済むというメリットがある。ついでにいえば被災地を助けるのではなく、被災地の足を引っ張らないことが復興に役立つという現実もなくはない。
話を戻す。事故を未然に防ぐために社会資本という道具を充実させる、ところが用意した道具はきちんと手入れされて正しく使わなければ意味がない。ゴミ箱を用意するのはいいが、たまったゴミをそのままにしておけばそこは汚物の集積所になってしまう。そしてどんな道具も使えばすり減っていくのが当たり前で、包丁は研がなければ刃こぼれするし核燃料炉は補修しなければ壊れるし、下水道はさらわなければ詰まってしまう。車が最初から不良品でも、車の運転を誤っても、車の整備をせずにいても、すべて事故と呼んでいるがたいていの原因は後ろの二者である。
クレーンが倒れてアーケードの屋根が落ちてトラックが突っ込んだニュースが報道されて無責任なコメントが寄せられる。だが彼らは列車を埋めたニュースに呆れたり、墜落した飛行機を奇跡と呼んで飾ったり、爆発した発電所に反対を叫んでフタをするだけでゴミ箱の中には汚物がそのままになっている。のど元すぎれば熱さを忘れる、蛮人らしい刹那主義だがそろそろ漏れてくる臭いに気がついたほうがいいかもしれない。
最後にひとつ予言をしておこう。原子力発電所が廃止されたとしても、火力でも水力でも自然エネルギー発電所でもやっぱり事故は起きるだろうと。
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