2012年05月12日
落雷にまつわる不謹慎な話
気候が不安定な春先になると唐突に突風豪雨落雷が荒れ狂うことがある。そのたびに異常気象だとか人間の咎だとか地球が悲鳴をあげてるぜとかもっともらしく言いたてる声はあるのだが、こうした空模様を示す春雷という言葉があり俳句の季語にもなっていることを思えばよほど昔から異常気象で地球が悲鳴をあげて誰かが僕らを呼んでいるらしい。
春分を過ぎて日照時間も伸び地表があたためられる一方で、北から訪れる寒冷な大気が流れ込めば急速な上昇気流が巻き起こって嵐の一つや二つ起ころうというものだろう。もちろんごく狭い日本の中で、こうした気象の発生には地形的な条件を満たす必要があるから東日本では栃木茨城群馬埼玉といった北関東の平野部が被害に会いやすく、特にこの地域には雷銀座の呼び名が与えられてもいる。
ところで雷といえば地震雷火事山嵐と災害の二番目にも並べられて、犠牲が出ることも一再ではないが、気の毒な被害者がいることを承知の上で時折それはどうだろうかという話に首を傾げたくなることがない訳ではない。例えば畑で作業をしていて落雷の被害に会った、という方であれば広々とした場所で避ける術がなかったということはありえるかもしれない。雷が耕運機に落ちる例もあるし、あるいは鉄塔やクレーンなど高所作業中に被害に会う例もある。空模様が怪しくなり速やかに避難しようとしていたとしても、こうした作業は往々にして中断に時間がかかることもあるから間に合わないこともあるだろう。敏感な人であれば気温と湿度の急速な変化を事前に感じとることができるが、空が暗くなってあわてて洗濯物をとりこむようでは手遅れになりかねないのだ。嵐を前にして5分と10分の違いは大きい。
だが木の下で雨宿りをしていて落雷に会いました、という話を聞くと雷が落ちる空模様で木の下にいるなど正気の沙汰とは思えない。実際に雷が鳴っていればもちろん、まだ鳴っていなくとも「雷が落ちそうな天気」というのは空の下にいればふつう分かる筈ではないか。天気とは雨が降ると雨が降らないの二つしかないという世界であればまだしも、この国は四季があり天気も多彩で様々な気象や気候をあらわす言葉も多くある。知らない分からないで済ませられる話とはとても思えない。
落雷とは空と地面の電位差が大きくなった場合に両者をつなぐ放電現象だから、これを避けるには難しい理屈はおいて少なくとも自分が空と地面をつなぐ通り道にならないように気をつければいい。たいていの金属は伝導率が高いから電気の通り道になりやすいが、人間や樹木も当然電気を帯びているから空に近い場所にいれば落雷の標的になりやすくなる。
雷が鳴ったらどうするか、というのは昔から同じで背の高い木やアンテナや電柱から離れてなるべく金属製品は身につけず、傘はたたんでできれば爪先立ちで屈む姿勢になることだ。爪先立ちというのは地面に触れる面積を狭くするためで、空ではなく地表を走る電気に触れないためである。例外的に、自動車の中という特殊な例があるが車というものは電気系統を守るために車内に雷が通らないように作られているから、もしも雷が落ちたとしても表面を抜けて地面に落ちてくれるようになっている。減速なり停車をすればむしろ外にいるよりもよほど安全だ。
空が急速に冷えて空気が乾燥し、流れてきた雲が厚くなって遠雷が響き大粒の雨滴が地面を叩きはじめる。仮に雨宿りの役に立つ場所でなければ、わざわざ避雷針の下で行き過ぎる春雷を待とうとするだろうか。避雷針の傍らにある、少し背の低い避雷針に向けて雷が落ちてくる可能性をどうして考えることができないのか、速やかな避難も間に合わず災禍に会った人がいるだろうことを思えば自ら危難を求めた人はやはり不運だったのではなく「当たりでしたね」と言うべきかもしれない。
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