2012年07月21日


徒然なるままに不謹慎な話

 まず正直なことを言えば徹夜明けで寝ていない折りの騒々しさに感情的に不快感を覚えただけという可能性が否定できなくもないので、あらためて睡眠をとった後で先日都内で騒ぎたてていた原子力発電所稼働反対のデモンストレーション行進について思い返してみる。主張は別としてやっていることはそこらの右翼団体と同じく耳障りな声質でがなり立てながら町をねり歩くというものだが、そこらの右翼団体に比べて品位に欠ける点があるとすれば酷暑の中で車椅子姿の人を平然と参加させる人情味のなさと、街路をあふれて歩道を占拠する公共性のなさだろうか。言論の自由に異は唱えないが、届けを行わず歩道にあふれるのは単なる実力行使でありデモンストレーションとは呼べないだろう。

 ところでもの覚えが悪い人々は羊の国で大地震が起きてから一年程度しか過ぎていないことをすっかり忘れているだろうし、電力不足が掲げられても節電に協力する様子もなければインフルエンザの流行を聞いてワクチンを国外から買い占めろと青筋を立てることもなく、拉致被害者の寿命が尽きるのを待ちながら消費税を3%から5%に上げたのが誰か忘れてしまっている。むろん東北地方で震災と津波による被害が出たこともすっかり忘れているようで、乳幼児のためにミネラルウォーターを買い込む人々の列がなくなったのはたぶん子供たちがすっかり成長して老人になったからだろう。今でも仮設住宅で生活して液状化現象に悩まされて瓦礫がうずたかく積まれていたとしても、乳幼児が老人になるほど歳月が過ぎているのだから忘れてしまっても仕方がない。

 節電といえば電力会社による公開説明会に当の電力会社社員がまぎれて原子力発電を擁護する発言をしたことに批判の声が上がっている。それはもちろん当然のことだが反対派を自称する人が「公平性に欠ける」と騒ぎたてながら原発容認派に意見も主張も認めないのは大した公平性だと思わなくもない。言論の自由は民主主義国家に不可欠な権利だが、他者の言論を言論で封殺する自由はさて認められるべきなのだろうか。
 とはいえ梅雨も明けて猛暑日とやらが到来して熱中症で倒れる人も少なくないさなか、ほんの数十年前は存在すらしなかったエア・コンディショニング・システムの緩やかな冷気に身をゆだねながらご家庭に数台もあるテレビジョン画面を呑気に眺め、一人が複数台持っている携帯電話や端末機をいじくりながら原子力発電に異を唱えるのも無論言論の自由として市民に認められるべき正当な権利である。年金生活を続けていても生活保護を受けていても市民権さえあれば立派な市民であるというのが本来の人民主権、民主主義に基づく論理なのだ。公平と平等を取り違えるとデニス・ムーアになってしまう、意外と気がついていない人は多い。

 そんな訳で相手の主張に同意するか否かは別にして、主張をする権利は常に存在するというのが個人的なスタンスなのだが原子力発電は危ないし怖いし未解決の課題は多いし運用する組織の信頼性が得られないから反対するという理屈にそれはもっともな意見だと思いつつ、理解に苦しむのは普及してもいない自然エネルギーへの移行を掲げながら火力発電所をフル稼働させている、げっぷをしまくる牛のような言行不一致ぶりであろうか。
 むろん二酸化炭素排出量が増えて自分で掲げた約束を自分で果たせなくなる、国際的なウソツキになるのは最初から分かっていたことだから今更の話ではある。中国人やブラジル人は身勝手だとわめきたてていた、これで立派な先進国の仲間入りを果たすことができるという訳だ。

 どんな主張にも耳を傾けたいからこそ、耳ではなく首を傾げたくなる論理の破綻にだけはついていけないのだが。
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