2012年12月08日
崩落にまつわる不謹慎な話
たびたび繰り返している持論なのだが国というか社会の健全さを示すもっとも分かりやすい指標は失業率や犯罪の検挙率などよりも、産業事故がどれだけ起きるか起きないかにあると思っている。クレーンが倒れたりヘリコプターが墜落したりエレベータに人がはさまれて死にましたなどという、社会基盤が放置されたまま整備されていない場合、または業務における品質低下によってもたらされた事故が連日報道を賑わせるようになるとその社会は衰退への一途をたどっていると言えるだろう。
ことに原因よりも責任の追求にばかり熱中する、ツメバラを切らせることが大好きな人々の間では責任者なり担当者なりが処分されたとしても根本的な、あるいは包括的な対策はまるで採られていませんでしたという例もある、かもしれない。先日もトンネルが崩落したいたましい事故が発生しているが、定期的な点検を怠って事故が起きたのであればそれは点検を怠った人ではなくそれが許されるシステムそのものに欠陥があるのだ。
ところでこうした事故が起きるたびにリスク管理の重要性が吹聴されることはもちろん大切だが、これは極少もしくは影響がわずかなリスクであれば許容しますという考えであることを忘れてはいけない。リスク管理の手法として、定期的および学ぶべき事例が発生した場合はリスクについて再検討を行う必要があるのだが、それは裏を返せば最初に構築さえしてしまえばあとは「定期的な点検」と「実際に発生した場合」にだけ再検討を行えばよいですねという見方ができるということだ。
インフルエンザが流行している報道を聞けばマスクをするようになるが、そうでなければ手洗いやうがいすらしない人がどれだけいるかを思えば、トンネルが崩れたから他のトンネルが大丈夫か見直しはするけれど、天井以外は大丈夫か、トンネル以外は大丈夫かを含めて検討する人や企業がさてどれほどあるだろうか。
もちろんこれは理想論である。先述したとおりリスクはあくまで許容するものだから、まずありえないだろう事態に対してまで備えていては金も人も時間も無駄になってしまう。ことに景気が後退して久しいこのご時世に、空から宇宙人が攻めてくるリスクに備えるマヌケがどこにいるのだと言われれば返す言葉もない。彼らはそこで言うのだ、それは宇宙人が攻めてきてから考えればよいではないか。
まったく正論である。現実を無視して理想ばかり求めようとするのは、事故が怖いから原子力発電所はすぐに停止しましょうとエアコンがよく効いた部屋でマイクとアンプに頼って演説する輩と変わらない。結局は落としどころを見つけるしかないのだが、冗談ごとではなくここにこそ落とし穴があるのだ。
今は景気が後退しているから多少のリスクは許容して品質を下げてしまうのは仕方がない、こう考える人が景気がよくなってももちろん品質を上げる訳がない。なぜなら今までその下げた品質でなんとかなってきたのだから、金と人と時間をかけてまで品質を上げる必要なんてないからだ。けっきょくは定期的な点検をして実際に事故が発生した場合にだけなんとかしようという流れにならざるを得ない。棒が倒れるまでは砂金をいくら削っても構わないし、倒れたらそいつの責任なのだ。
で、こうしたスパイラルダウンが継続すればそりゃあ社会基盤も脆弱になって産業事故も増えるのが当然だ。予言してもいいが来年も工場は爆発するしクレーンや足場は崩れるし道路が陥没したり土砂が道路や線路を寸断するといった事故の報道をたびたび聞くことになるだろう。そして根本的な原因や対策への言及ではなく、派手に責任者を叩きながら事故の犠牲になった人たちの美談と助かった人たちの奇跡を聞いて涙することになる。これは是非ともはずれて私がウソツキと罵られるべき予言である。
予言が外れたことで罵られる社会は健全である。予言をしたことで罵られる社会は不健全である。
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