2013年01月22日


大阪の恥にまつわる不謹慎な話

 高校バスケといえば昨年末のウインターカップで多くの熱闘激戦が繰り広げられて人を興奮させていたわけだが、残念なことにとある市立高校で起きた自殺報道ばかりが人々の耳目をにぎわせているのが気の毒だとは思う。体罰を含む行きすぎた指導が問題であることはもちろんだし、その後の活動に自粛の声があがるのもやむを得まいところはある。三年間という限られた高校生活の中でおおごとには違いないが、何も改善が行われぬまま同じことが起きました、となればそれこそおおごとで済まされる問題ではなくなってしまう。彼が自殺をしたから似たような境遇にある自分も自殺しよう、とはいかにもありそうな話ではないか。

 などと一連の報道を耳にして考えてはみるのだが、そんなことよりも不思議で仕方がないのは話題が再発防止の具体的な方法には一向に進んでいないことである。弁護士だったら何が悪いか、誰が悪いかでも構わないが、原因の追求とは本来犯人をつるしあげて市中引き回しのうえ打ち首獄門にするためではなくあくまで同じ不幸が二度と起きないようにするためだ。教員を入れ替えたり入試を取りやめることでいったい何の効果があるのか、そこは置き去りにされて影響ばかりが問題にされて主張と反駁が繰り返されている。市長曰く事態を解決せずに生徒を募集すれば大阪の恥になるらしいのだが、とはいえ人を入れ替えたところでシステムが変わらなければ同じ事態が起こりますよ、とは社会に出て仕事でもすればごく当たり前に知っていることのようには思う。
 学校や自治体の指示でとりたてて何が変わったかはよく分からないが先生はみんな別の人になりました、もちろん生徒も入学や進級や卒業をすれば別の人になります、校内には体罰はだめですよという案内が配られるようになりました。当の顧問だって刑事罰には処されずとも何らかの処分はあるだろう。となればもう同じことが起こらないとはいわないがあるいは「これから先は」何も起こらないかもしれない。入試を取りやめるなら在学中の生徒はいいのかという気がしてしまうとはいえ、じゃあ他の学校はいいのかよとか際限がなくどこかで線が引かれるのは仕方のないことだろう。本人や家族や友人を不幸にする自殺という行為そのものへの是非はさておいて、同じことがこれから先は起こらないかもしれないなら気の毒な事件にもせめて問題を問いかける意味があったのかもしれないと思うことはたぶん無理ではないと思いたい。

 と、ここまでは前置き。とりあえず市立高校の責任者って市長だから大阪の恥というのは市長が「僕の恥になるから嫌だ」という意味ではないと思うので念のため。
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