2008年12月18日
ルール(社会)
セキュリティといえば右を向いても左を見ても、ややこしいルールが色々つくられている。はっきりいって守るほうも守ってくださいと言うほうも面倒だろうし、せいぜい分かりやすく、少しでも楽に守れる方法はないだろうかと無い知恵を絞るのがせいぜいではないだろうか。
結局は皆が納得するルールなどありはしないのだが、それではなぜそんなルールをつくるのか。別にセキュリティに限った話ではないが、世の中のごく常識的な人々がセキュリティに疎くても別に不思議はないからだろう。横断歩道は青信号で渡ろうとか、タバコの吸殻は燃えるゴミに捨ててはいけないよという程度の話であれば分かりやすい。だが洗面台は使ったらすぐふいた方が水垢がつきにくい、となればご家庭の主婦が知っていることでもたいていの旦那衆は知らないものだ。
決めごとだろうがルールだろうが法律だろうが、守るべきものには違いない。だがそれがつくられた目的を忘れて、ルールだけ守ればいいとなればこれは莫迦げた話だろう。車にひかれてでも青信号を渡ろうとなれば、それはもはやルールではなく聖書や経典になってしまう。解釈に紛糾した挙句ジャン・カルヴァンになるのはどうにも剣呑な話だ。
ルールというものが無い知恵を絞ってつくられた程度のものならば、それが間違えていれば直してしまえばよい。つくった当時は正しかったが、今の状況にはそぐわないというのはいくらでもある話なのだ。それが神様のお告げや十戒であればそうもいくまいが、幸いにしてルールも法律も人がつくった代物でしかないのだから。とはいえモーセの十戒も、よく考えずともカトリックの時代になれば書き換えられていることを思い出す。
そんなことを考えていると、どこぞの国で平和憲法とやらを変える変えないと紛糾している理由がさっぱり分からないのだ。アメリカ人が即興でつくった、その平和な憲法には「劣悪遺伝子排除法」が含まれていたことをたいていの人は覚えていない。
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