2009年04月15日


イスラム法(社会)

 パキスタンの大統領が北西部スワート地区を牛耳る武装勢力との停戦協定に合意、問題になっている。と書くとかたよった見方になってしまうのだがもちろん戦乱は良いことではないし停戦を歓迎する声が多いのも当然だ。ではいったい何が問題だというのだろう。
 殴りあいをしていた相手と妥協することに文句が出るのは当然だが、ことがそう単純であればいっそ気が楽というものだ。問題は停戦協定の内容に、スワート地区にイスラム法を導入するという一文が記されていることでアメリカほか西側諸国がこれに懸念を示している。とはいえキリスト教圏の国々がイスラム法に懸念を示したところでそれが如何ほどのものか、というとこれもかたよった見方だろう。何より肝心のイスラム法がいったいどういうものかはあまり知られていない。

 イスラム法とはもちろんイスラム教の法である。だがイスラム教は開祖ムハンマドの教えでその法がイスラム法である、というと間違っている。なるべく簡単に説明を試みるとこの世には唯一絶対の神様がいて、その教えをムハンマドが記したのが聖典(コーラン)である。だがムハンマドが生まれる前から神様はいる訳だから、モーセやイエスといった昔の預言者が神様の教えを伝えても別に不思議はない。こうした聖典をまとめて啓典といい、コーランも旧約聖書も神様の教えを記した啓典になる。イスラム教というのはこの唯一絶対の神様に従うことで、神様のことをアッラーというのだ。

 ところでムハンマドは神様でも神様の子でもなくて人間、それもすこぶる優秀な人間だった。彼は交易によって発展するイスラムの人々をより発展させるべく神様の教えを伝えたから、教えを受けた人々は商人としての健全な常識に従って生活を律した。人をだましてはいけないとか、物を盗んではいけないとか、個人の財産は保障されるといった大切な決まりごとだ。そして彼の教えを守るべく地域や宗派によって設けられた、決まりごとを指してイスラム法という。多くの民族が暮らすために啓典という基本を押さえながら、地域ごとのイスラム法に従いましょうというのが多民族で生きるイスラムらしい教えなのである。だからイスラム法は成分化されていなかったり地域差があったりする一方で、裁判や税金どころかイスラム教徒でない人との接し方まで設けられている。
 だがイスラム法には当時ならではの厳しい文面も存在する。例えば女性はイスラム教徒でない人と結婚できないとか、盗みをしたら手を切られるとか、姦通や同性愛は死刑といった類のものだ。これでは現代にそぐわないとして、イスラム法を根幹にしても世俗の法律を別に設けた国もあるし、イスラム法を廃止した国もあるがもちろん今でもイスラム法を使っている国もある。サウジアラビアやイランやアフガニスタン、そしてパキスタンの武装勢力も厳格なイスラム法を尊重しているのだ。日本でも死刑を認めるべきか否かという論争は解決されていないし、それでも法律だったら改訂できるがイスラム法では少なくともコーランに従わなければいけない。

 だからパキスタンでのイスラム法の適用自体は文化や宗教の違いによる摩擦といえないこともない。問題はそれがスワート地区に認められて、そこが武装勢力に牛耳られているということなのだ。地域ごとに異なるイスラム法を、裁判や税金から家庭の揉め事までを含めて武装勢力に任せますというのが停戦協定の内容なのである。イスラム法による人権侵害への懸念を西側諸国はうたっているが、正しくはイスラム法を口実にした人権侵害への懸念を示しているというべきだろう。もちろん大統領が協定を結んだなら武装勢力の行いはパキスタン政府公認になってしまうのだ。

 平和的な解決。
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