2009年05月19日
平和の舟(社会)
アフリカはソマリア沖に出没している海賊から民間船を守るために、各国から船が出ているのは周知の通りで日本からも喧々諤々した挙句、遅まきながら海上自衛隊が現地へと赴いている。先日、反戦平和を掲げるピースボートという団体が現地を渡航するに際して、その海上自衛隊から護衛を受けたという報道が小さく載っていた。常日頃政治的な活動が目立つ上に、自衛隊の海外派遣に堂々と反対する団体がその当人に守ってもらうのはいかがなものかという内容だが、これにコメントして当のピースボートは「海上保安庁でなく海上自衛隊なのが残念だ」と話していたという。
とはいえ正論を振りかざすならば渡航の安全は確保されてしかるべきだし、護衛である以上は相手が誰であってもそれを守ることは立派な任務である。非難するような話ではないがピースボートの主張に疑問を抱きたくなるのも仕方のないところだろう。
だがここで政治的な話を論じてもあまり意味がない。気になったのはピースボートが平和を掲げる舟であるなら、護衛艦も平和を守ろうとする船だということだ。平和を掲げる舟が平和を守ろうとする船に反対する、では平和とはいったい何だろうという話になる。何といっても日本は基本原則に平和主義を掲げる国である。
ところで古代世界で平和を掲げていたローマ帝国では、パックス・ロマーナと称して数百年に及ぶ平和を広大な地域にもたらしたとされているし、後代ローマ人の後裔を自称する辺境の島国でもこれに倣えとパックス・ブリタニカと称する統治を行った。だが彼らの平和は帝国主義と同一視されることもあって、では侵略によって平和がもたらされるのかという話になってしまう。
そこで難しい経緯や事情は抜きにして平和とはどういう状態かをもう一度考えてみたい。反戦主義者であればこれは明確で、彼らは戦争のない状態こそ平和だと言うだろう。しかし海賊の一件を見るとこれにも疑問は抱いてしまう。戦争のない海賊の海は果たして平和だろうかと。
時は1900年くらいさかのぼって古代ローマは五賢帝時代、平和を称える外国人が当時の皇帝に伝えた言葉があるのだが、彼は「ローマの国内であれば誰でもどこでも安心して歩くことができる」という平和な世界に最大限の賛辞を捧げていた。つまり当時であれば治安の維持こそ平和であって、彼らの概念では国境に軍団を配備することも隣国の騒乱を調停することも平和のためには必要なことだと考えていたわけだ。
もちろん平和を守るためには軍隊が必要だとか、武器なき平和がありえないなんて言うつもりは毛頭ない。だが平和の主張と平和の主張が対立するなら彼らが掲げる平和という言葉の中身は互いに違うということで、平和とは人によって異なる解釈ができるということであろう。
平和的な解決。
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