2009年05月22日
裁判員制度(社会)
過日2009年05月21日、裁判員制度が正式に施行された。世にさしたる混乱が起きている訳でもなく、反対する方々の主張や演説も挙げられていたが肝心の制度そのものに対する理解が少ないのはいつものことだろう。なにしろ憲法第九条の条文すら知らずに賛成したり反対できるこの国の人々を相手にして、新しい制度を知りなさいというのはなかなかハードルが高い。
裁判員制度というものをかんたんに説明すると、殺人強盗誘拐といった重大事件を3人の裁判官と6人の裁判員で裁きますというものだ。6人の裁判員は抽選で選ばれて、裁判官と合わせた9人のうち5人以上、かつ裁判官と裁判員それぞれ最低1人が有罪だと認めると有罪判決が下される。目的は二つあって法律の専門家である裁判官だけではなく「日常生活の専門家である市民」の意見を取り入れようということと、もっと国民に裁判を知ってもらおうというものだ。
ではこれに反対する意見とはどんなものか。アンケートなども行われているが挙げられているのは人を裁くことによる罪悪感や専門家でない人が判決に関わる不安、目的に対して本当に効果があるのかという疑問、時期尚早ではないかという意見などがある。とはいえ時期尚早論についてはこの国特有の先送り感情が見えるので、じゃあ何をしたら時期尚早でなくなるかは誰も教えてくれない。
人を裁くことに対する罪悪感、精神的負担というのはもっともだろう。誰だってやりたくないならそれに越したことはないが残念ながらそれは個人の問題で、政治や裁判を健全に運営することは市民の責任である。選挙に行かないのも投票しないのも自由、文句を言うのも自由だけど自分の意見が反映される機会を失うだけだ。国民が国民を裁くことはいけないといったら裁判官だって国民だから、それは差別になってしまう。
とはいえ国民に裁判を知ってもらおうという割に、裁判のことを人に話せないのでは意味がないとか身近な裁判というなら重大犯罪は身近じゃないという意見もある。逆に重大犯罪だとテレビに取り上げられて、裁判員が影響を受けるんじゃないかといった指摘もあるしこのあたりはもっともかもしれない。ワイドショーでさんざ取り上げられているワルモノなる人物を、さて平等な目で見ることができますかと言われればそれはワイドショーを見ている人が考えてみて欲しい。
ところでこの制度、誰もあまり追求していないことが二つある。一つはこの制度の対象は地方裁判所だけなのでその後の高裁最高裁には関わらないでいいことで、つまり控訴されればその後は裁判官が受け持ってくれるということだ。昨今でも地裁の判決が高裁以降で覆る例など珍しいものではない。
そしてもう一つ、この制度では裁判員全員が有罪としても裁判官全員が無罪だとしたら無罪になるし、逆に裁判官全員が有罪にしても裁判員全員が無罪にしたらやはり無罪になるということだ。疑わしきは罰せず(in dubio pro reo)というのが古代から存在する裁判の鉄則だが、実は裁判員制度というのは裁判の専門家による総意、または日常生活の専門家による総意のどちらかがあれば被告を無罪にできるという制度なのだ。昨今、痴漢詐欺による冤罪がたびたび問題になっているがああした裁判にも適用したほうがいいのではないかと思えるほどである。
そういえば裁判員制度の反対集会では冤罪をなくそうとか死刑判決を強制するなといった呼号が上げられたそうで、彼らが裁判員になれば冤罪をなくすための活躍ができるだろうからまことにめでたいことだと思う。
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