2009年06月08日


水商売(社会)

 水商売といえばふつうは原価の安い飲み物を高値で売って利益をせしめる商売のことを指している。薄物をまとった女性や男性がつぐと酒の値段が上がるとか、ダイエットに効果があると称する液体をペットボトルに詰めると値段が上がるといった類のものだ。

 ところでオーストラリアで一時期有名になった水商売はもっとストレートに水を売る商売だった。正確には川を流れる水を使ってもいいという権利を売る商売である。農業国オーストラリアでは川や用水路から水をくみとって使う農民がたくさん暮らしているのだが、水の量にはもちろん限界があるから際限なく使えばいずれ水が枯れてしまう。某国のように隣国と共有する五大湖の水すら使い果たして、国土の砂漠化をすすめるような愚を犯すべきではない。
 そこで賢い彼らは考えた。水の量に限界があるんだったら、それを権利にすればいい。例えばあなたはこの川から年間これだけの水を使ってもいいですよという、権利に値段をつけてそれを買わせるのだ。値段をつけるのだから、たとえば私の持っている権利をあなたに売ってあげましょうという取引が生まれる。水取引の相場ができて安く買った権利を高く売れば儲けることだってできる。なにしろ水は世界共通で貴重なものだから、値段が安定しているどころかこれからどんどん上がっていくかもしれない。大地主ならぬ大水主がやがて生まれていくだろう。

 この話を聞いた瞬間、破綻は目に見えているのだが現地ではけっこうな人がこの水商法に参加したらしい。彼らは安心して使用が許された水を自分たちの畑に撒いたのだが、この話の前提として水の量には限界があるから際限なく使えばいずれ枯れてしまう。ということは使いすぎれば枯れずとも量が減ってしまうわけだが、別に権利の量が減るわけではないから消費量は一定なのに供給量は変動するという、勘定で見ればありえない自体が発生する。
 その川の水は今も枯れていない。枯れてはいないがあっという間に減ってしまうと、ほとんどなくなってしまった。貴重になった筈の水の相場は高騰どころか大暴落して、株券ならぬ水券を抱いた人々は水のように蒸発して消えてしまうしかなくなった。どこぞの恐慌やバブルとまったく同じ現象だが、たぶん株や不動産と水は違うとでも考えていたのだろう。

 だが確かに株や不動産に比べて水には違うところがあった。株が暴落しても別の株を買うことはできるが、川の水がなくなったらウチの畑に引いてこれる代わりの水は存在しない。あくまで水の持ち主は自分の畑で使うために水の権利を持っていたのだ。
 この地域では農地の面積が最盛期に比べて九割近く減ってしまったそうで、住民の多くが退去して荒地と川だけが残されている。たぶん水の相場もそのままだろう。
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