2010年01月27日
口約束(社会)
西洋人と接する中で、というほど大袈裟なものではないが例えば外資系の企業と取り引きをする中で契約書の長ったらしさや細かさに辟易とすることがある。実に細かいことまで一条二条と決められていて、すべて読むのも大変だが大方見るべきところは決まっているので結局は慣れるしかないだろう。裁判や訴訟が商売になっている、と揶揄される西洋文化ならではだがサインをした証文があってはじめて相手を信用する訳で、対するに我が国はといえばそんな紙切れがなくとも人間を信用することができるという訳だ。
とはいえ外人さんにも言い分がない訳ではない。陸つづきの、あるいは海を隔てていても多くの異人隣人異邦人と接してきた人々にとって他人においそれと「口約束」を交わせるものではない。素性も知らぬ、言葉さえ通じぬ人を信用してくださいと問われれば誰だって二の足を踏むのが自然だろう。東のはてのちっぽけな島国で、小さな村落が集まって暮らす辺境の田舎なればこそ汝は隣人を信じることができるのだ。
それはそれで歴史と文化というものである。どちらが良い悪いというものではないが、西洋でも長ったらしい契約書が存在しない口約束が交わされることは決して珍しくはない。例えなんていくらでもあるが一国の首相と大統領が会談してとある問題を早々に解決しましょうと口約束をするような場合、相手を信用して書面も交わさず握手だけして別れることはあるだろう。
話は変わるが古代中国には不臣の礼というものがあった。王様が本当に信頼する相手には役職も階級も何も与えず、友人のように扱うというもので彼は敬語を使う必要もなく誰に断らずに王の部屋を訪れることも、腰に剣を吊したまま会うことだってできる。その関係は信頼だけで支えられており、そこに役職や階級といった決まり事が存在する余地はないのだ。他民族が闊歩する地で、桃園の契りが実の家族より強い絆で結ばれることもあった。厳格な礼節や階級、契約や訴訟や裁判が存在する文化でこそ口約束だけで交わされた誓いには神聖な意味がある。まったく残念ながら相手を信用するこの国ではかえって口約束が軽んじられる風潮が生まれやすいことは否定できそうにない。
一国の大統領がわざわざ訪ねてきて交わされた口約束、早々に解決しましょうと言いつけた誓いを年が明けて5月にします6月にしますというようなことは神聖な誓いを破る行為にも等しい。自分は信頼に足らない人物なので貴方と対等の友人になる資格なんてございませんよと宣言する行為なのだ。
残念ながら、彼は腰に剣を吊したまま王の部屋を訪れることはできなくなるだろう。
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