2010年03月24日


平和の祭典(社会)

 某国某所で開催された平和の祭典と称される競技会も盛況のうちに幕を閉じた。夏であると冬であるとを問わず、この大会が開催された後には肉体にハンディキャップがある方による競技会も開催されていることは今更だが、中継なり放送なりを見ているとお世辞にも純粋に報道されているとはいえず見世物として扱われている側面が目につき鼻につくところは残念でならない。
 遠まわしな表現は止めにする。ありていに言うまでもなくオリンピックにパラリンピックのことなのだが、スポーツや競技にはそれに挑む者にとっての魅力と、それを見る者にとっての魅力の双方が存在するのは今更だ。競技者にとっての競技の魅力は他と比べられるものではないが、それがオリンピックとパラリンピックに分けられている理由といえばもちろん不平等を避けるためであろう。だが世の中には肉体的なハンディキャップのある方は不利だから、と勘違いをしている人がいるかもしれない。とんでもない話である。

 とある義足の選手が陸上競技に参加を熱望していたが、もともと優れた陸上選手であった彼はこの義足のおかげで更に人よりも速く走ることができる可能性がある、だから参加が認められなかった。スポーツや競技に携わったことのある人なら知っているだろうが、ルールブックには着衣に靴から手にする道具まで、細かいきまりごとが厳密に定められている。水泳競技で新型水着がどこまで認められるか、問題になるのと同様に陸上競技で使う足が義足であればそれはルールとして規制せざるを得ないのだ。
 参加の意思も能力もあるのに、本人にはどうしようもない理由でルールに抵触してしまう。障害者スポーツと呼ばれるものはそれを補うためにあるのであって、間違っても身体能力に劣る人たちが参加するための競技ではない。個人的には車椅子競技などは古代の戦車競技よろしく過酷で迫力のあるスポーツで、オリンピックの正式種目としても採用して欲しいほどである。アメリカ韓国キューバ日本の四ヶ国しか参加しない、どこぞのマイナースポーツよりも競技人口は多いかもしれないといえば暴言というものだろう。

 とはいえ問題はそんなことではない。競技者は数の多少にかかわらず競技に対して真摯であり、それは比べられるものではないからだ。競技に挑む者にとっての魅力であれば陸上でも体操でもスキーでもバスケットボールでも、ボディビルディングでもオイルレスリングでも変わらない。問題はどこぞの国が、そうした競技を見世物としてしか扱おうとしないことにある。

 メダルが期待される注目の選手が氷上を舞う。ジャンプから足さばきにいたるまで堂々たるもので、すぐれた技術と表現力によって金または銀メダルが確定するほどの成績を上げた。すばらしいことだ。残るは一人、優勝候補の選手が氷上に躍り出る、そのとき観客が望むものは何であろうか。優れた技術やすばらしい演技ではない、見る者の多くは技術のミスや演技の失敗を望んでいるのだと言えば、そんなことはないと断言できる者がさてどれだけいることだろうか。
 競技において頂上を目指すこと、ただ一つの椅子を求めることは競技者としては当然だ。世界一ではなく世界で二番目ではいけないんですか、などという戯言はどこぞの事業仕分け屋に任せておけばいい。だが頂上とは上にいる者が転げ落ちて空いた椅子ではなく、自ら歩みたどりついた達成感と不可分ではない筈だ。少なくとも無責任に声援を送る輩としては、応援する選手に期待すべきは最高のパフォーマンスであってライバルの失敗ではないのだと思いたい。

 勝てば金メダル、この状況で登場するライバルの選手に対しても「ベストを尽くせ」と言える人は競技を見世物に堕すことがない、きわめて幸いな人であろう。
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