2010年07月12日
参議院選挙(社会)
どこぞの国では参議院選挙とかいう報道祭りが行われていたのだが、衆愚政まっしぐらの最中で国民の総意なるものにどれほど意味があるかは分からない。国会議員の定数削減を叫ぶ声が聞こえる昨今だが、であれば泡沫候補が首都の得票数一位を取るような参議院の議員数から二百人くらい減らしてしまった方が、今よりもう少しマジメに選びたくなるのではないかと思う。
かのニッコロ・マキアベルリは政治体制には六つあって王政と独裁政、寡頭政と貴族政、民主政と衆愚政とに分類しているが何のことはなく三つの体制が上手くいっている場合とそうでない場合に分けているだけのことである。とはいえ島国の黄色い人々にはどれも大した違いはないが、少なくとも自分たちは民主政治をしていると信じたい彼らにとって、では衆愚政とはどのようなものかと聞いてみることにしよう。
百科事典を見れば衆愚政治の歴史は高名な古代ギリシアのアテネに始まり、参政権を獲得した烏合の衆が定見のない政治を行った状況を指している。これが辞書になるともっとシンプルで、ペリクレス死後のアテネの民主政治の堕落を批判した語とされているが、ペリクレス時代といえば民主政アテネの最盛期と言われながらも実態は大政治家ペリクレスによる独裁時代であったことは広く知られている。だいたい民主政治をしていたのであれば、ペリクレス時代などと個人名が冠される筈がないではないか。
かのプラトンは高名な衆愚政アテネを批判して政治は哲学者に行わせるべきだとまで極論している。もしも民主政が上手くいった例が時代に存在しなかったというのであれば、マキアベルリも政治体制は六つではなく五つに分類すべきであったろう。王政と独裁政、寡頭政と貴族政、そして衆愚政ですべての政治制度が揃ってしまう。
ところでその衆愚政治を指している「定見のない政治」とは何か。今度は定見という言葉を辞書で引いてみれば人の意見に左右されない、その人自身の意見とある。つまり定見がない人というのは自分の意見が存在しない人のことであり、民主政の形態を持ちながらも参政権を持つ者の多くが自分の意見を持っていない状況を指して衆愚政と呼ぶことができるということだろう。
であれば答えは明確なもので、衆愚政の基準とは無党派層が多く存在する民主政のことに他ならない。人の意見に左右されない、自分の意見があるならば必ず支持政党が存在する筈で、むしろ自分の支持する政党に疑問を持つときは無党派になるのではなく、自分が支持する政党を堂々と叱咤し批判ができる筈なのだ。
俺たちの暮らしさえ楽になるのならば政治的信条は問わない、というのであればこれは単なる結果主義であり、バラマキ政策に弱い人々が尻尾を振るという状況を生み出す母体となってしまう。問うべきは手段であり、自分が支持をした手段であれば結果は良くも悪くも受け止めるのが政治に参加する者の態度であるべきなのだ。原因の無い成功は原因のある失敗よりもタチが悪い、それが分からない者は参政権を手にする前に積み木や哺乳ビンを手にしていた方がいいだろう。
そこで問う。自分の支持する政党に反対する政党を支持する者と、どこも支持をしていないという者と、貴方はどちらに軽侮の念を抱くことができるであろうか。無党派とは信条ではなく、家畜の心情であるに過ぎないのだがせいぜい獰猛な羊飼いが降臨するのを待っているが良いと思う。
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