2011年10月10日
ノーベル平和賞(社会)
毎年発表されているノーベル賞の中でも存在意義に疑問を感じさせられてしまうこの賞だが、今年はそれなりにまともな選考であったようには思う。リベリアのサーリーフ大統領と平和活動家のボウイー氏、イエメンの民主活動家カルマン氏と3名ともが女性で、いずれも非暴力的な方法による女性の人権向上に貢献という同じ理由で選ばれているあたり恣意的なものを感じなくもない。女性が選ばれたことが喜ばしいと女性蔑視まるだしのコメントをしている輩もいるが、そもそも女性の政治参加が限定されている事実があるんだから当たり前じゃんという事実から目をそむけているとこういうおかしなコメントができるのだろう。
創設者アルフレッド・ノーベルの言葉によれば、国同士の友愛関係をすすめたり軍隊の廃止や縮小をした者、あるいは平和に最も貢献した人物に与えられるのがこの賞だがもうこれを見ただけで曖昧にして限定的というどうしようもない基準である。こんな基準をもとにして世界平和が決められるのだからいっそ大したものだと感心はしたい。こういうものは置き換えをすれば分かりやすいが、相撲に最も貢献した人物に相撲賞が与えられる、と言われたらそれって何だよと問い返したくはなる。
もちろん歴代の受賞者が彼らなりの手法で平和を追求した人たちだったろうし、充分に納得できる人も少なくない。そもそも立候補した訳でもないのだからインターネットに隠れて偉そうな論調で無責任な批判を繰り返す輩よりもよほど平和に貢献してはいるだろう。核なき世界を呼びかけたら受賞してしまったアメリカ大統領もいたりするが、毎年呼びかけているヒロシマやナガサキの市長にはそんな資格がなく核持ち込みの密約を結んだ佐藤栄作が受賞しているのもジョークとしては秀逸ではある。
しょせんは政治賞もとい政治ショーでしかないお祭りに文句をいっても仕方ないのだが、アウン・サン・スーチー氏や劉暁波氏のように、せいぜい活動家だったのに受賞したせいで政治犯になった人にとってはいい迷惑でしかないだろう。劉氏の受賞に抗議した中国は一年限りの「孔子平和賞」を創設したが、これ自体はマヌケな対抗措置とはいえ両賞の存在意義がマヌケだからさほど上下を論じる意味はない。人によっては受賞者当人が出国を認められず、代理人が賞金を受け取って横領したなんていう呆れたエピソードもある。
選考が曖昧で恣意的なのはいっそ当然とはいえ、選考委員はよほどジョージ・ブッシュが嫌いらしくイラク戦争を批判した人から大統領選挙の対立候補までが受賞している様子を見れば、ある意味ジョージがただものでないことだけは確かだろう。マザー・テレサやアナン事務総長のように選ばれて反論の余地もございませんという人もいるし、ときどきお茶をにごすように受賞する、赤十字国際委員会や国連難民高等弁務官事務所も充分納得がいくがでは選ばれなかった年の活動は評価されていないのかと人間の器が小さい感想を持つこともなくはない。
そうした無責任な感想の中で、どうしても首を傾げたくなるのがマハトマ・ガンディーにノーベル平和賞が与えられていない事実だろうか。選考委員の言い分としては過去に何度も候補者としてノミネートされていたのだが、インド限定の活動だからダメだったとか死後に候補に上ったが故人に与えるべきではないとか、様々な理由が順序よく並べたてられている。ちなみに南北朝鮮の友好?をすすめた金大中が受賞していたり、飛行機事故で亡くなったハマーショルド事務総長が死後に受賞していたりするがイギリス人に配慮するならそんなことを言ってはいけない。
ちなみに今年の下馬評ではかの「アラブの春」をすすめている活動家の名前を挙げられていたという話で、さすがに石油の利権はともかく暴力的な活動は容認しないほうがいいだろうと委員自らブレーキをかけた様子は窺えなくもない。別にムバラク大統領が善人だというつもりはないし、カダフィ大佐の所業を支持するつもりもないが、民衆暴動という実に民主的な方法によって政権転覆を実現させたエジプトやリビアはさぞ平和な国になったと考えられているのだろう。
平和に最も貢献した人物、××××氏と書いて歴代の受賞者の名前を当てはめてみよう。
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