2012年12月22日


衆議院選挙(社会)

 先に宣言しておくと自分は基本的に保守なのだが厳密にいえば反急進なので決して改革がだめよというつもりはない。そんな訳で先日衆議院の解散総選挙が行われて結果に満足している人もいれば不満を覚えている人もいるだろうが、もちろん前回の衆議院選挙でも結果に満足していた人が多かったことは変わらないし主権者たる国民が自国の政治になにも考えていない事情は相変わらずのようだ。
 そもそも政治に正解なんてものはなくあらゆる政治体制があらゆる成功と失敗を生み出している事情は何千年も昔から変わらないし、どれほど優れた政治指導者でも「あなた」が望む政策を実行してはくれない。帽子を乗せる以外役に立たない道具をいくら使ってみたところで、国民主権の意味も理解していない輩がもっともらしく話をしても枝葉の議論にしかならないだろう。

 民主主義とは国民主権主義のことだから、責任者たる市民は他の有権者が投じた決定の責任を受け入れることが前提になる。もちろん主権者であるからには意見を言うのも文句を言うのも自由、だが自分が支持しなかった決定を受け入れることができてこその責任者であり主権者なのだ。それは××がやったことだから自分の知ったことではないという、どこぞの鉄道会社のような理屈は通用しないし、無知な他人の一票と貴重な自分の一票が同等に扱われるのが嫌なら貴族や王様になるしかない。

 嫌いな政治家の悪口を言っても構わないし嫌いな政治家に投票した人々を軽蔑するのも構わない。だが彼らは少なくとも自分の責任を果たしてはいるのだから「正しい人を選んで投票」した人と同等なのが民主政治である。自分は無党派だとか気に入らないから白票を投じるとか、平然と責任を放棄できる人に比べてはるかにマシであることは忘れないほうがいいだろう。アジテータに流される莫迦な人と真面目に考えて投票する人は対等である、この矛盾を受け入れなければ民主主義は成立しえない。
 ソクラテスに影響を受けた若者が人々を惑わせたからソクラテスは死刑にしよう、この議決が定められたとき市民としてそれを受け入れたのはソクラテス自身だった。死刑に賛成する票を入れた者と反対する票を入れた者は賢かろうと愚かだろうと違いはない。ある者は愚かな決断を悔いたかもしれないし、ある者は愚行を止められなかった無能を嘆いたかもしれない。だが白票を投じて俺には関係ないもんねとうそぶく人間に比べれば、彼らは少なくとも自分の責任を果たしてはいるのだ。民主主義における主権者とは他人の過ちを受け入れると同時に、自分が過ちを犯す可能性には恐怖する必要があるだろう。

 とはいえこんなことを書きながら自分はそれほど民主主義を信奉しておらず、宇宙人や詐欺師に投じられる票だったら没収したほうがいいんじゃないかと考えているからやっぱり左よりは右よりなんだろうとは思う。
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