2013年09月14日


五輪招致(社会)

 2020年のオリンピック開催都市が東京に決定してめでたいことだと思う。招致は東京とイスタンブールとマドリードの三者が争い、下馬評ではマドリード優位と言われていたが最初の投票で脱落すると東京とイスタンブールの決選投票となっている。招致に先立って各国がプレゼンテーションをしたのは無論だが、指摘や懸念も当然あげられて東京であれば原子力発電所の事故に起因する問題が焦点にされたむきはある。一部のメディアにはオリンピックの話題で事故が蔑ろにされた論調も見られたが、どちらかといえば事故の問題がフォーカスされて他の諸問題が蔑ろにされたむきもなくはない。
 ところで、いちおう近代オリンピックにはオリンピズムという理念が存在する。ほとんどの人がああそうなのという程度のコトバでしかないのだが、近代オリンピックを提唱したクーベルタン男爵によるとそれはスポーツによる成熟や成長を指していて、教育面におけるスポーツの効果をうたっているが後に拡大解釈されてスポーツによる平和や発展への貢献をオリンピズムと呼びましょうという感じになっている。ようするにIOC二台目会長だったクーベルタンの主張でしかないのだが、この人自身が「健全なスポーツマン先生」だったからそれはそれでよかった。

 つまるところオリンピズムは定義よりも概念のことで、だからこそこの言葉には意味があった。ルールが存在する世界ではルールさえ守ればよいという風潮が生まれるが道徳やモラル、スポーツマンシップはそうではない。ルールに則った競争の中でルールを越えたスポーツマンシップを求めることがクーベルタンの思想であり、たとえばルールで禁止されていないから新型の水着で記録を伸ばすといった発想はクーベルタン的なオリンピズムには反するだろう。
 もちろんこんなものは理想論でしかないし、クーベルタンの提言もフランス人ながらイギリスのパブリックスクールに影響を受けた彼が、学校だけではなく社会にスポーツを取り入れることで健全さを求めたものだった。なにしろ彼はジュテーム国の人だから、お前らベッド以外でも身体を動かせよと言いたくなっても不思議はない。

 そんなわけでオリンピズムとは個人においてはスポーツマンシップを、国や文明においてはスポーツによる発展を指していると考えればまあ間違いない。五輪招致の選考結果に立ち返れば、もっとも人間を成長させて地域や社会を発展させる大会こそふさわしいというわけだ。その意味では今回の結果を見ると個人的には本命はイスタンブールでなかったろうかと思いつつ、その上で実現性や運営面での問題が不安なしとしなかったから、被災地含むスポーツ振興の意識が見えた東京に流れたのだろうかと考えてみる。財政問題が解決できれば最有力といわれたマドリードが、脱落した理由は財政問題ではなかったように思えてならない。

 2020年の大会で東京や日本文化のよいところを見せる、それはそれですばらしいが、スポーツの祭典が東京や日本にこれだけよい影響を与えるのですという姿を見せることができれば理想的なのだろう。メダルの数なんぞに躍起にならず、国や地域はもちろん見る人もやる人も問わず、より多くの人が心から楽しめる大会をめざしてほしいものだ。
 ちなみに風力発電のプロペラがまたまた落下しても原発事故問題が改善されたわけではないのだし、汚染がより深刻なジュテーム国では三本足の人間も生まれているようなので気をゆるめず対策に取り組んでほしいと思う。クーベルタンの生地で2024年の開催を狙っているとはいえ。
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