虹の谷のメアリ・ヴァンス
気がつけば、メアリ・ヴァンスは港向こうにある物置小屋で寝起きをする生活にもすっかり慣れていた。そのときのことをわざわざ思い出そうとはしないが、事情を聞いたマーシャル・エリオットに言わせれば血が煮えくり返るようなひどい目に会っていたらしい。孤児院から彼女を引き取ったワイリー夫人にこきつかわれて、毎日のように殴られるのも、ご飯をろくに食べさせてもらえないのもメアリにはいつものことだった。遠くグレン村まで逃げて、牧師館の子供たちに見つからなければいつか倒れていたかもしれないが、案外呑気に暮らしていたかもしれないとも思う。
メアリは命の恩人であるメレディス家の子供たちとすぐに打ち解けると、彼らと仲のいい虹の谷の子供たちとも即日知り合いになった。男やもめのメレディス牧師の家に暮らしている奔放な子供たちはメアリとたいそう気があったが、虹の谷に集まるブライス家の子供たちはいつも幸福そうでメアリには別の世界の住人のように思えてしまう。牧師館のユナ・メレディスはメアリを誰よりも心配してくれたし、ブライス家でも勇敢なジェムは男まさりなメアリを面白がっていたが、女の子たちは育ちが悪くてずけずけとものを言う彼女を敬遠しがちで特に幼いリラには苦手にされていたと思う。黒髪のウォルター・ブライスはいつも何を考えているのかよく分からない少年で、他の子供たちとはどこか違っていたからメアリの方が彼を苦手にしていたかもしれない。おとなしやかなユナはいつでも親身になって話を聞いてくれたから、メアリが心から話す相手もたいていは彼女になるのだった。
「ワイリーのおかみさんにもらわれるまで、あたいはホープタウンの孤児院にいたのさ。たった二年ぼっちだけど、でもあそこの大人はあたいをぶたないだけましだったのかねえ」
「おお、メアリ。そんなことを言うもんじゃないわ。ぶつとかぶたないとかじゃなくて、あんたをたいせつにしてくれる人とあんたは暮らすべきなのよ」
夜風がかたかたと板壁を鳴らしている、牧師館の屋根裏部屋で子供たちにかくまわれていたメアリはとうとう大人たちに見つかると連れ戻されるのではないかと思われた。港向こうの家で、メアリを引き取ったワイリーのおかみさんはメアリがいなくなるとすぐに心臓発作で死んでいたらしく、もとの孤児院で引き取ろうという話になる。メアリ自身はもう観念したよと言いながら毎日目を泣きはらしていたが、子供たちは彼女を連れて行かないように必死に懇願してくれると結局彼女はミス・コーネリアことエリオット夫人の家で暮らすことになってグレン村を離れる必要はなくなった。
ミス・コーネリアに直談判をしてくれたユナたちメレディス家の子供たちも、ブライス家の子供たちも皆がメアリのために喜んでくれたが決め手になったのはブライス夫人の意見だったらしい。夫人は幼い頃に両親を失うと彼女自身も孤児院で育てられて、想像力はあれど愛情に欠けた生活を送っていたから幼い女の子がようやく手に入れたものを奪おうとはしたくなかった。
「メアリ・ヴァンスは牧師館の子供たちに愛情を受けているのですから、大人たちからも愛情を与えられるべきですわ」
「私はそう言われるんじゃないかと思っていましたよ。ええ、なんとなくそんな気がしていただけですけれどね」
ブライス夫人の友人であるミス・コーネリアは仕方がないですねと肩をすくめたが、牧師館にいたメアリを見とがめて声をかけたのも、夫を連れて6マイルも離れた港向こうまでワイリー夫人を尋ねたのも彼女だった。夫のマーシャル・エリオットはメアリの境遇に憤慨していたから、夫人に相談されるとあの子を引き取ろうと一言で済ませてしまう。男の言いそうなことだ、と夫人はあきれていたがこの件で彼女が反対する姿を誰も見たことがなかったし、その日の食卓の大皿には夫が好きなドーナッツが二つほど余分に盛られていた。
こうしてメアリ・ヴァンスはエリオット家で暮らすことに決まる。孤児院でも港向こうの物置小屋でもなく、納屋の隅っこや牧師館の天井裏でもない、グレン村の娘として暮らすことができると知った彼女はメレディス家で過ごす最後の夜、ユナと一緒の布団にもぐりこむとあたいは思っていたよりも運がいいみたいだねと言いながら、今まで見たこともない神様に生まれて初めて感謝した。
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ミス・コーネリアは彼女を知らない人に聞けば厳しくて口やかましい人に思われていたかもしれない。ブライス家に仕えている忠実なスーザン・ベーカーであれば、あの人は確かに口やかましい人ですよと冗談めかして賛同してくれたことだろう。だが実際にはミス・コーネリアは優しくてユーモアにあふれた人で、しかもメソジストが大嫌いだから若い娘を規則と規律でがんじがらめにすることもみすぼらしい恰好をさせることも嫌いだった。もちろんブライス夫人はミス・コーネリアがそのような人であることを知っていたから、メアリの行く末に何の心配もしなかった。
メアリ・ヴァンスは信仰も礼儀作法も知らない娘だが、そんなものはこれから教えればいいし彼女に何よりも必要な愛情をミス・コーネリアの夫妻は与えてくれるだろう。半ば観念したような、それでいて楽しみにしているような顔で彼女は言ったものである。
「まあ、少なくともあの娘はヨセフをちょっぴりは知っていそうじゃありませんか」
エリオット家の屋敷は、ブライス家の人たちが暮らしている炉辺荘のように大きな家ではないが、夫妻に一人二人が加わって手狭になるほど小さくもないごくありきたりなグレン村の家だった。
どこか途方に暮れた様子で門前に立っているメアリ・ヴァンスの目の前には、ていねいに手入れされている庭に植えられたデージーやマーガレットが花弁を開いている。これがブライス夫人であればミス・コーネリアの趣味のよさに顔をほころばせたことであろうが、メアリにとっては庭があって花が植えられている家なんて貴族の館にしか思えず自分がまるでふさわしくない場所にいるかのように思えてしまう。裕福だったという祖父の家は物心ついたころには売り払われていたし、殺風景な孤児院はもちろんワイリーのおかみさんも庭の手入れになんか興味がなく、メアリを住まわせていたのも離れにある物置小屋だった。彼女にとって家とは雨風をしのぐための屋根と壁と床のことで、庭なんて上等なものはなくあたりには農具やがらくたが散らばっているのがふつうだった。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ。あたいは思ったよりも運がいいんだから、マーシャル・エリオット夫人はあたいをとって食いやしないさ」
誰ともなく自分に言い聞かせたがどうにも足が動いてくれず、ユナに一緒に来てもらえばよかったとしばらく立ち尽くしてしまう。港向こうの家を逃げ出したとき、メアリは文字通り手ぶらだったから荷物はなく身一つのままだった。頭陀袋に穴を開けたような服は彼女が家から持ち出した唯一のものだったが、とっくにぼろぼろになっていたから今はフェイス・メレディスが着古したつぎだらけのワンピースを借りている。上等な服なんか着ても窮屈なだけだからこれはこれでありがたかった。
彼女らしくもなく、しばらく門前でひるんでいたメアリは不意に声をかけられるとばね仕掛けの人形のように飛び上がる。驚いて振り向くと、見開いた水色の視線の先にいたのは黒髪のウォルター・ブライスで、これも彼らしくもなく気軽なそぶりで挨拶をしてきたものだから気恥ずかしくなったメアリは逃げるようにエリオット家の庭に駆け込んでいった。もしもウォルターに会わなければミス・コーネリアは夫と二人でもうしばらく待たされることになっただろうが、いつもはたいてい虹の谷にいる少年がどうして今日に限ってこんな場所を通りがかったのかメアリには見当もつかなかったし、その日の朝早くにユナが虹の谷まで出かけていったことも知らなかった。
「ずいぶん遅かったじゃないですか、とにかく入りなさいな。いつまでもそんなところに突っ立ってたら風邪を引いちまいますからね」
「今日からここが君と儂らの家というわけだ。なに、儂もすぐに慣れたのだから君もすぐ慣れるさ」
ミス・コーネリアはメアリがしばらく門前に立っていたことを知っているのかと思ったがそんなこともなく、マーシャル・エリオットは気のよさそうな顔であいさつしたきり娘のことはすべて夫人に任せているようだった。厳しいのは私に任せてあなたは愛情さえ与えてくれたらそれでいいのですよ、とは前の夜に夫人が夫と交わした言葉である。
まずはあんたの恰好をなんとかしないとね。とおりいっぺんの挨拶が済むなり、ミス・コーネリアはそう宣言するとメアリを風呂場に押し込めてしまう。意外なことにメアリはたいていの子供が嫌がりそうなことを面倒がらず不平も言わず、よく泡の出る石鹸を珍しそうに使いながら耳の後ろや足の裏まで全身をていねいに磨いていた。拾ってきた犬をきれいにするつもりでいたミス・コーネリアは、メアリの骨ばった身体のあちこちに黒っぽいあざがあるのを見て心の中で憤慨したが、たらいの湯がおぞましい色に変わったのを見て自分の判断が正しかったことに安堵した。
風呂場を出て、よく身体を拭いてから用意されていたワンピースに袖を通したメアリ・ヴァンスは生まれて初めてドレスを着た女性のように興奮すると、こんなのを着せて今日はお祭りでもあるのかいと喜んでみせる。長い亜麻色の髪と白っぽい水色の目が高貴な猫のように見えて、孤児院に入れられる前はけっこうな家に生まれたとも聞いていたがそれも本当のことに思えた。
ブライス夫人は女の子のために用意する服はふくらんだ袖にするべきだと熱心に主張していたが、ミス・コーネリアはよそいきの服と普段着は区別するからこそありがたみがあるという論者だったからメアリが着ているのはごくありきたりのエプロンドレスである。どたどたと回っているのは彼女なりにダンスを踊っているらしい。
「もう少しあんたは落ち着いた振る舞いをしたらどうかね」
「だってミス・コーネリアのおばさん。こんなきれいな恰好をして落ち着いた振る舞いなんてできるもんかね!」
ミス・コーネリアはせいぜい謹厳なふりをしてたしなめたが、笑いをかみ殺すのに苦労して視線を横に向けるとマーシャルが新聞で顔を隠している姿が見える。メアリは決して器量がよいとはいえないが、今にも生命があふれ出そうで野に咲くスプリング・ビューティの力強さを思わせた。さてこれから彼女のためにどんな服を仕立ててやろうかと、ミス・コーネリアは心の中で思案していた。
とにかく荷物を持たせて、メアリのために用意した着替えと歯ブラッシと教理問答のテクストを置いてある部屋に連れていこうとしたが、ミス・コーネリアが感心したのはメアリがフェイスに借りた着古しのワンピースをていねいにたたんでいたことだった。たたみ方は自己流でまるでなっていないが、あらためてこの娘はあまりものを知らないだけなのだということが分かる。そんなたたみ方をしたら十字に折れ目がついちまうよ、そう言いながら十字の服を着る娘が訪れたことを彼女は心から喜んでいた。
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メアリ・ヴァンスは本人が曰く犬か家畜のような暮らしをしていたが、ワイリーのおかみさんから家事や仕事のいっさいを押しつけられていたから類を見ない働き者だったし、自己流で勘違いや失敗もあったがミス・コーネリアが口うるさく言わなくても家事全般をひととおりこなすことができた。少なくとも男やもめの家に放置されているメレディス家の子供たちよりもよほど役に立つには違いない。
ベッドのシーツを替えるなんて知らなかったとか、洗い桶の水をなんべんも使いまわさなくていいのはありがたいねと感動されたときはミス・コーネリアもさすがに不憫に思ったが、大人として誉めるべきところは誉めて叱るべきところは叱ることに終始した。メアリは実に真面目によく働く一方で、手と一緒に口が動いてしまう性格らしく話に夢中になったあまり皿を落としたり鍋を焦がしたことも一再ではない。
「話を聞いてしまう私も悪いですけどね、あんたはまったく舌が回りすぎますよ」
「ああおばさん、あのテクストにはまったく分からないことが多すぎるんだよ。神様が天にましますって、増したら一人の神様じゃなくなっちまうんじゃないのかい」
このような話を聞いたブライス夫人はいささか身に覚えのある顔をした後で、だが口を動かしても手が止まらないメアリは自分が幼いころよりもはるかにしっかりした娘に違いないと認めてくれたものである。メアリは自分で言っていたように働き者でなまくら骨の一本もなかったから、男が嫌がるような仕事でも他と変わらずこなしたし、魚のはらわたを煮込んだスープは見てくれこそ悪かったが、思わぬ美味でその後エリオット家の献立表に連なる栄誉に浴することになった。
生まれついての性格なのか、それとも詩人の魂が少しだけあるのかメアリは思ったことを心から言って大げさに聞こえてしまうきらいがあった。こんなうまいもんを食べたら頬がとけちまうよとか、宝石みたいにきれいなトイレだねえなどと言われるたびにミス・コーネリアは全力で笑いをかみ殺した後で、あんたはいちいち大げさにすぎますよと呆れてみせる。そのたびに、どうしてミス・コーネリアが奇妙な顔をしてマーシャル・エリオットが新聞に顔を埋めているのかメアリには理解できなかった。
「思ったことをはっきり言うのはあの子のいいところですよ、もちろんそれで困ることもありますけどね」
「あれで男の子でないのが残念だね。だけどそこらの男よりよほど立派に育つかもしれん」
「それこそ男の言いそうなことじゃありませんか。ええ、メアリなら立派な女の子に育ちますとも」
仕立てている服はまだできあがっていなかったから、あるときミス・コーネリアはいつもの布地を選ぶ店で見つけたかわいらしい靴下を買ってプレゼントをしたが、いつものように大げさに喜んでいたメアリがなぜかその靴下をいつまでも履こうとしなかった。奇妙に思い、あの靴下は気に入らなかったのかいと聞いてみるとメアリは思いきり首を振ってあまりすてきで使うのがもったいないじゃないかねという返事がくる。不覚にも吹き出してしまったミス・コーネリアはことさら謹厳な顔で謝罪すると、乱暴に使って破いたらそれはもったいないが、履きもしなければ靴下がかわいそうじゃないかと諭してみせる。メアリは確かに奔放な娘だったから、もう少し女の子らしくなれるように考えたのかもしれなかった。
その日のパンはいまいち焼きすぎていたが匂いは香ばしく、多めのバターを塗るといかにもおいしかった。メアリの食事の作法はずいぶんましになっていたが、食べている最中でも話に夢中になってしまうのは彼女だけの責任とはいえないだろう。ミス・コーネリアはこのとっぴもない娘の話をいかにも楽しみにしていたが、その日、メソジストってどんなんだいとまじめな顔で聞かれたときは返答に困ったものである。先日ブライス家にコケモモのジャムを届けさせたおり、話したがりのスーザン・ベーカーが「エリオット夫人のメソジスト嫌い」について講釈をたれたらしい。
「おばさんが嫌っているもんをあたいも知っておいたほうがいいと思うんだよ」
「そんなことを言うもんじゃありませんよ。私が嫌いなものをあんたが嫌わなきゃいけない道理がないんですから」
そう言いながら、ミス・コーネリアは嫌いなものを説明するのだから公正に振る舞わなければならないと思う。夫のマーシャルは面白そうに見ているだけで、ものの役に立ちそうにないがこの件で彼女に他人の助けは必要なかった。
そうですねと一言置いてから、神様にお仕えしている人はたくさんいる。だけど世の中にはいろんな人がいて、お仕えする方法はひとつじゃない。その辺は分かるかい、という言葉にメアリは熱心にうなずいている。パンが冷めないよう食べながら聞いていいですよと促すと、ミス・コーネリアはていねいに言葉を選びながら続けた。
「メソジストの連中、いや、人たちはとにかくきちんとした作法を守りたがるんですよ。それは間違ってるとは思いませんけど、私には神様の教えよりも神様に挨拶するための礼儀作法を大事にしているように思えてね、どうにも好かないんです。私は規則も規律も否定はしませんよ。だけどそれは誰かに守らされるものじゃあなくて、自分できちんと守るべきものだと思うんです」
形を重んじるあまり、心のありようを忘れたらメアリのような娘は救われなくなってしまう。洗礼者ヨハネは律法を守れずにいる人をも救おうとしたのだから。
「じゃああたいはメソジストじゃなくてよかったよ、礼儀作法とか言われたら真っ先に落第しちまうもの」
「確かに礼儀や作法を知らない子にも神様は愛情を捧げてくださいます。ですがね、だからといって礼儀や作法を知らないままでいいという話にはなりませんし、メソジストだってそういう子を落第だと見捨てたりもしませんよ。許さないんじゃなくて、きちんと守らせようとするだけです」
たしなめながら、ミス・コーネリアともあろう者がどうしてメソジストを擁護しなければならないのか不本意な気分になる。いまいましいマーシャルは必死に笑いを堪えているが、幸いメアリは理解しようとしてくれているらしいから、これ以上食事が冷める前に話は打ち切られることになった。エリオット家の朝はあたたかいミルクと決まっていたから、その日はマーシャルが好きな食後のお茶はしばらく出てこなかった。
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その気になればメアリはマーシャルの農場の手伝いもできたし家畜の世話もできたが、ミス・コーネリアは彼女をもっぱら家の中か庭の手伝いに駆り出していたし、家事がひと段落ついた後はお茶を飲む時間を設けて教理問答のテクストを読ませたから案外忙しかった。なんだって分からないことが多いうちは時間が足りないものですとはミス・コーネリアの言葉だったが、テクストを与えてそれきりではなく彼女自身も諭すように教えてくれた。
だから先日のジャムの礼にとブライス家でりんごのパイをもらった帰り道、メアリ・ヴァンスが寄り道をしたのは久しぶりに虹の谷の空気を胸いっぱい吸い込みたかったからである。炉辺荘とグレン・セント・メアリ池のあいだにある、青葉のしげった楓林の後ろにある小さな谷は赤みを帯びた日差しが降りかかっていて、この季節のこんな時間になってもまだ子供たちがいることは珍しい。もしも誰かいるとすればたいていウォルター・ブライスで、その日いたのもやっぱりウォルターだった。忙しいばかりだったメアリが虹の谷を訪れるのは久しぶりだから、ウォルターに会うのはエリオット家の門前で見かけて以来だった。
「久しぶりに来ても、ここはいつも奇妙にすてきだね」
谷を行きすぎる風はやわらかく、苔むした樅の根元には黄色や赤い妖精の小径が曲がりくねって伸びている。ウォルターがいたのは谷のほとりにすらりとはえている「白衣の貴婦人」のそばで、誰よりもここにいるのが似合うのは彼だろうとメアリは思っていた。ウォルターでなければなまいきなリラ・ブライスだったら貴婦人に仕えることを認めてもらえるかもしれない、そんなことを考えて不本意になっているメアリの姿にもちろんウォルターは気づいているが、ひとこと挨拶したきりいつものようにどこを見て何を考えているのかさっぱり分からない目で夕暮れのその向こうを見やっていた。
「あたいがいても邪魔じゃないかね?」
「そんなことはないけれど、どうしてそんなことを聞くんだい」
その言葉にメアリは正直に答える。
「だってあたいはあんたが苦手だけれど、あんたもあたしを苦手だもの」
メアリの正直な言葉にウォルターはくすくすと笑うと、そうだねと素直に認めてから、たぶん僕や幼いリラはメアリのことを苦手にしているよねと言う。どうしてリラの名前が出てくるのか、同じことをリラに言われたらメアリは怒って追いかけ回したろうが、どうしてだかウォルターに言われると頬が熱いような具合の悪い気分になる。
ウォルター・ブライスは美しい少年で、頼りなく思われることもあったし同年代の子供から「お嬢さん」と呼ばれて莫迦にされることもあったがそうした声が彼をまるで言い当てていないことをメアリは知っていた。たしかにウォルターは臆病に見えることがあったけれど、怖いものから目をそらさずに見ることができる強さを持っている。
「世界には美しいものがあるけれど、そうではないものだってたくさんある。でもそのことを知っていて、それでも笑って踊ることができるのがメアリ・ヴァンスなんだ。まだ幼いリラはそんな現実を知りたくないから君を苦手に思っている。だけど僕は自分が君のように勇敢ではなく、いくじなしであることを思い知らされてしまうから苦手なんだ。本当は僕は美しいものだけを見ていたい、でもそれじゃあいけない。泥の中に血を流しても決して変わらないことが世界にはあるはずなのにね」
虹の谷はとても奇妙でとてもすてきな場所で、ここに来ればいつでも、いつまでも楽しい時間に会うことができる。それは主にブライス家と、それから牧師館の子供たちのものでメアリはその一員ではなかったけれど、彼女が仲間はずれにされたことは一度もないしウォルターやリラも心から歓迎してくれた。
虹の谷は子供たちの時間を迎え入れてくれる、だけどウォルターの目はときおり虹の谷ではなく、その向こうにある時間を透かしている。少しだけ開かれた、過去と未来から覗いて見えた景色に怖くなったメアリはことさら両手を細い腰に当てると強がってみせた。なんであれ、メアリ・ヴァンスともあろう者がウォルターなんかに怖がったところを見せたくない。
「あんたの言ってることはちょっとも分かんないよ。でもあたいが、逃げたあたしなんかが勇敢なわけがないじゃないか」
だからウォルター・ブライスは苦手なんだ、そう思ったがメアリも自分が見たものから目をそらそうとはしなかった。
「あたしは逃げて、ユナやあんたらに会えて本当によかったよ。でも港向こうにはあたし以外の子供もいるし、孤児院にもあたし以外の子供はいるんだ。あたしはエリオットさんの家に暮らすことができた、けどメアリ・ヴァンスでない子供たちは今でもあそこで暮らしているんだ。逃げたやつがいい思いをするなんて、いけないことじゃないのかい?」
本当は忘れたことなんてなかった。メアリは逃げることができたけれど、牧師館の子供たちに見つけてもらえなければたぶん飢えて死んでいたし、ユナがいなければまた孤児院に帰されていただろう。ミス・コーネリアとマーシャル・エリオットにも彼女は心から感謝していたが、それが神様のおぼしめしだというのならもっと他の子にも神様はおぼしめしてくださるべきではないのだろうか。メアリには他の子よりも格別立派なところがあるわけでもないというのに、彼女が恵まれているならばそれは不公平というものだ。
いっそうつむいてしまいたいが、それでもまっすぐに胸を張る。メアリの水色の瞳に映っているのは神様ではなくウォルター・ブライスだったけど、たぶん神様も今のウォルターと同じように優しい目をしてくださるだろう。
「十人いて、十人が幸せな世界は本当にすばらしいものだよ。だけど十人いてたった一人が幸せになっても、それは悪いことではない。その一人が他の一人を助けるかもしれないし、助けられた人が他の人に救いの手を伸ばすかもしれない。でも、たった一人が幸せになれない世界では誰も笑うことも踊ることもできないのだからね」
神様は一人しかおらず、増えたりなさらないなら神様の腕はたぶん二本きりしかない。そのうちの一本がメアリ・ヴァンスに差し伸べられたのはとても幸福なことだけど、手を差し伸べてもらいたい人は他にいくらでもいるだろう。メアリの悩みは単純で子供っぽいけれど正直で、ウォルターにはとてもまぶしく見えるけれど神様はきっと子供たちが考えているよりもずっと多くの幸福を人に与えてくださっている。
それはウォルターではなくて、彼を介して誰かがメアリに伝えようとした言葉だったのかもしれない。ユナ・メレディスや牧師館の子供たち、ミス・コーネリアやマーシャル・エリオット、そしてウォルターや虹の谷の子供たちがメアリを助けてくれた。確かに神様は一人しかおられないけれど、神様が伸ばしてくださる腕はきっと二本だけではない。人が人を助けようとするならば今度はメアリ・ヴァンスの腕を借りて、誰かの命が救われるかもしれないのだから。
「あたいを助けてくれたのはユナだったよ。だけど、ユナはあたいを助けてくれたのは神様だと言ってた。それはどっちも本当なんだね」
「僕たちは神様に感謝することができる。だったら、それは独り占めせず人に与えることもできると思うよ」
「それは、きれいな靴下を箪笥にしまわずにちゃんと履くようなものかい?」
メアリがそんなたとえを使った理由を知っているわけもなく、ウォルターは思わず吹き出してしまう。それで虹の谷に心が戻ってきたメアリは、彼女に手を伸ばしてくれた一人である黒髪の少年に今度からあんたと遊ぶときはあたいのいっとうお気に入りの靴下を履いてくることにするよと宣言した。
ウォルターはメアリの好意に礼を言いながら、それじゃあ靴下以外のお気に入りは他の人と会うときに身に着けるといいよと言う。そうすればメアリ・ヴァンスはたくさんの友人を持つことができるのだから。
「じゃあ虹の谷にみんなが集まったとき、あたいはいっとうおしゃれができるんだね」
そういってへたくそなダンスを踊ってみせる、メアリ・ヴァンスはウォルターのように美しい言葉を知らないが、話すよりも先に笑って踊ることができた。虹の谷の夕暮れに映えている彼女の姿は誰よりも生命にあふれていて、ウォルターはすべての人がこの笑顔を見せてくれたらよいのにと思う。でもそうでないなら、せめて一人でも多くの人が笑顔でいてくれたらよい。
はすっぱなメアリはキスのひとつでもしようとしたが、たぶんウォルターは笑って逃げてしまうだろう。ジェムだったら逃げないだろうかと思いながら、傾いた夕日が思ったよりも沈みかけているのを見てあわてて虹の谷を後にした。その日はミス・コーネリアにニシンのパイの作り方を教えてもらうことになっていたし、メアリ・ヴァンスは知らなかったが、彼女のために仕立てられたドレスが彼女の帰りを待っているのだから。
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