第八章 小さなビディフォードの丘へ
滅び去った世界の中で人々を連れて西へ向かう、遅々とした歩みを進める一団がある。整然とした流れ出はなく無秩序で時折慟哭や哀惜の声が混じる、惨憺たる人の列。後代、呪われた黒い夜と呼ばれることになるアクエ・スリスの敗戦が伝えられて数日の後、失われた故郷から逃げる人々の一団である。
そのほとんどはかつての帝国首都ロンディニウムの人々だが周辺の村落の者も混じっている。アクエ・スリスの残兵とかき集められた市民が帝国最後の軍勢として送り出された翌日、議会が無期限で解散されると議員たちは各々が理由をつけて彼らの都を去って行った。半数は壊滅したノーヴィオの港町に向かうと海峡を越えて大陸に渡る船を探そうと試みたが、残る半数は彼らが個人的に親しいバルバロスの集落へと保護を求めて消えていった。皇帝がブリタンニアを見捨てたように、議会がロンディニウムを平然と見捨てる帝国はやはり滅びるしかないのだろう。
残された大勢の人々は青年団に率いられると西門を出て街道に遅々とした歩みを続けている。青年団とはいえ兵役に足る男たちのほとんどは軍団に召集されていたから残されているのは余程の老人を除けば少年か女性しかいない。人の流れは一様ではなく時として分かれたり滞っていたが、先頭を進む小さな一団は脱落者に構おうともせず、日に決まった距離を進んでひたすら西を目指していた。すべては馬上で群衆を先導しているフィオレンティナ・ロッサリーニの指示である。
時折馬上から振り返るようにして後ろを一瞥する。誰もが見たくもない現実から目を背けて口には不満と不平しか漏らすことができず、荷物と疲労を抱え過ぎた足取りは一向に進む気配がない。荷台に担がれながら、明らかに病で動けない老婆が救いを求める目を向けているが、気にする素振りも見せず前に向き直ると馬を進める。冷淡な振る舞いに非難の視線が集まっていることはもとより承知の上で、彼女自身の侵しがたい表情と腰に吊るされた剣がなければいずれ襲われても不思議はなかったろう。
付き従うことができぬ者は諦めるしかない。脱落すれば無論無防備なまま危険に晒されることになるが、より以上に危険なのは脱落を拒み足を留めた全員が危険に晒されることである。そう遠くない未来に、逃亡する獲物を追い回そうとする者どもが現れたとき、まず狙われるのは最後尾からに疑いないからついて行けないならいっそ早々に離れて隠れてでもいたほうがましなのだ。
ティーナが駆る馬は歩みを止めることがなく、それは疲れた足取りでブリタンニアを東から西へ歩む者たちよりも意図的に僅かに速い歩調を保っている。あの夜、ジャン・ジェラルディンがに教えられた方策を思い返しながら彼女は西へ向かっていた。自分たちが狩りの獲物であることをフィオレンティナは知っているが皆は知らないか目を背けて知らないふりをしていた。
「避難民の集団は君が思うよりも遥かに足が遅く、不平を言うばかりで決して整然と歩むことはないし脱落する者も多く出るだろう。戦場からあぶれたバルバロスやオオカミはもちろん、逃亡した羽飾りの残党にとっても彼らは狙われる狩りの獲物でしかない。数え切れない犠牲が出るだろうし、それを避けることはできない。
だから犠牲をなくすのではなく、少しでも犠牲を減らしたいなら一人でも多く逃がそうとするのではなく、一人でも早いうちに脱落させるんだ。まだ町に逃げ帰ることができる場所であれば彼らは町に戻るだろうし、そうでなければ焼け落ちた集落や街道を外れた茂みの中に隠れてでも生き延びようとする。失敗すればのたれ死ぬだけだけれど、成功すれば狩りの獲物にはならずに済むかもしれない」
算段はフィオレンティナがまとめて、議会を通じて市民に伝えたのはマレンティオである。退去ではなく都が戦場から近いことを受けた一時的な避難であると言い、誰もそれを信じてはいなかったが信じるふりはしてくれた。ジャンが率いて出立した帝国最後の軍団が負ければ、勝利した蛮人や獣がロンディニウムに押し寄せることは誰の目にも明らかであり、避難に従い出立しても従わずに残っても安全とは言い難い。
無論この状況で市民が一枚岩になれる筈もなく、すでに一部の議員や有力者には先んじて都を捨てて逃げ出した者がいて非難する市民の声も大きくなる一方だった。だがジャンは言っていた。まず無事に生き延びることができるのはバルバロスに慕われて彼らに匿われる者たち、次にやり方次第で生き延びる可能性があるのは都を捨てて逃げる者たちと、頑なに都を動かず自ら守り続ける者たち、そして確実に犠牲になるのはそれらのすべてを選ばなかった者たちだろうと。
ロンディニウムにはマレンティオらが残り、避難を拒む人たちを説得すると称して都の人々をまとめると住民を一箇所に集めて個別に襲われにくいようにしてから、小数で都でも堅牢な一画に篭り守りを固めるようにする。戦乱が終わって訪れる勝利者が名高いレッド・スイフト、赤早のような人物であれば都を明け渡す代わりに人々の保護を求めることができるかもしれず、それは楽観的な展望の中では最も現実的な未来に思えた。戦乱の責任を問われて議会の人間は処断されるかもしれず、フィオレンティナを通じたジャンの予想をマレンティオも知っていたが、古将軍の友人であった彼はそれをごく当然に受け入れている。
だが都を捨てて逃げる人々には、僅かでも生き延びることができそうな別の方策が必要になる。彼らは一歩誤れば離散した挙げ句全員が盗賊の網に捕らわれて、幸運でも奴隷に売られるのがせいぜいの結末を迎えるだろう。ジャンがフィオレンティナに託したのはこの人々であり、更にその他の人々には言及しなかったが、例えば港が潰れてオオカミの残党が徘徊するノーヴィオに向かうなどは愚の骨頂だった。ジャンはフィオレンティナに、西へ向かう道は敢えて戦場からそう離れていない主街道を使うように伝えている。
「勝者はまっすぐにロンディニウムに向かうから、戦場から近くても西の街道を使う理由はない。もしも勝敗が定まる前に戦場を離れる者がいれば、それは人に誇ることができない理由で戦場を離れた連中で、彼らは後ろ暗い者たちが生きるための手段として容易に盗賊に身を落とすことができる。戦場に近い場所は彼らにとって都合が悪いから、安全とは言い難いけれど歩きやすい主街道は必ずしも危険とは限らない。
人々を都に残る者と都を捨てる者にはっきりと分ける、これは道理としては間違っているけれど一つにまとまればそのすべてが全滅する危険も負うことになるし、分ければどちらかは助かるかもしれない。いずれにしてもこの状況で人々を一つにまとめるなんてできる訳がない、だから最初から分かれた道を示してそれぞれに人をついて来させるしかないんだ」
フィオレンティナの正義感には理解できない。たとえ戦乱に犠牲が出ることがやむを得ないとしても、ジャンのように兵士でもない人間の犠牲を当たり前と考えて割り切ることなど彼女にはできなかった。それで傷つく者の数を最も少なくすることができたとしても、何が正しいかを数で決めることはそもそも正しいと言えるのか。
だがフィオレンティナは彼女の矜持に反することを敢えて受け入れている。少なくともジャン・ジェラルディンは犠牲の天秤に自らを乗せるだけの公平さを見せた上で、彼が思い付く限り最善の方策を示していた。ジャンが本当に利己的な理由で彼のただ一人の家族を助けようとするならば、彼らが最も信頼する友人レッド・スイフトにフィオレンティナの身柄を預ければ良いのだから。
戦場に立つことを望みながら果たせなかった少女の代わりにジャンは戦いに身を投じ、守ることができぬ人々を救う役割をフィオレンティナはジャンに代わり受け入れている。本当は二人が互いに逆の場所に立っていれば、少なくとも彼らは自ら望む道を選ぶことができたのかもしれない。だがだからこそ彼らは逃げることがなく真摯に自らの境遇を受け入れることができた。戦場のジャンはティーナに恥じぬ戦いを最後まで続けるだろう、ならば後事を託された彼女はジャンの願いに応えなければならなかった。
‡ ‡ ‡
身を凍えさせる風がブリタンニアの東から西へと抜ける。まだ彼女が幼かったころ、ビディフォードからロンディニウムまで西から東に歩んだ足でさえ今よりも早い行程を進むことができたであろう。数日が過ぎても避難する人々の足は遅々として進まなかったが、先導する馬上の娘がいなければもっと遅かったに違いない。かつては幼い娘が一人街道を旅しても、安全に都まで辿り着けるほどに帝国の治安は保たれていたが今はこれだけの集団が身の危険に怯えながら周囲に目を凝らさねばならなかった。
かつて町の衛士をしていた老人が、くたびれた様子で重い足を進めている。彼が守るべき町や家族はもはやブリタンニアのどこにも存在しない。消沈して日に二言も口を開くことがない夫人は多くもない荷物の中で、これだけは決して放さぬよう小さな銅の器を懐に抱えていた。それが旅商であった夫の遺品であることをフィオレンティナは伝え聞いている。戦乱の中を流れ着いた竪琴弾きも背負った楽の音を奏でようとはせず、人々を安んじる詩を吟じようともしない。
ロンディニウムを出立した帝国最後の軍勢、古将軍ジェラルディンの息子に率いられた軍団の戦いは歴史にも多くは語られていない。バルバロスの伝承は英雄レッド・スイフトの物語に埋没してしまい、記録を残すべき人々は戦乱で絶えたかあるいは逃げ延びる中で曖昧な噂しか語ることができなかった。
肉と槍の海に囲われた羽飾りの生き残りは堅牢な陣営地に篭り多くの血をバルバロスとオオカミに流させたが、遂には赤早が塁壁を越えて無数の兵が殺陣の場へとなだれ込む。日が中天に上る頃に始められた殺戮は、日が落ちて黄昏が訪れる頃にはすべてが決していた。ただ長く戦い続けるために集結した帝国の陣営からは一兵が逃げ出す隙き間もなく、戦いの結末もまた英雄の伝承に語られている通りである。絶望的な抵抗はなお多くの犠牲をもたらしたが、勝者と敗者の座が覆ることはなく帝国最後の軍団は赤く落ちる日に染められた。
「敗戦は人を絶望させる。だけどそこにほんの少しでも慰めがあれば人は一本の藁にすがろうとする。もちろんすべてを諦めて座り込んでしまう人もいるだろうけれど、掲げられた灯火があればそれを仕方なく追う人も現れるだろう。それはごく小さいけれど信仰心には違いないんだ。
かつて大陸ではユピテルやヤヌスをはじめとする神々に人は誓いを立てた。後に信仰が薄れると人は神々の代理人として将軍の勝利や皇帝の統治を望んだ。その皇帝も将軍もいなくなれば帝国は薄れていた信仰心すら失うことになる。だけどブリタンニアには七つの丘に生まれた神々とは異なる、バルバロスが崇めるバルバロスの信仰が残されている。彼らが信じている者を、英雄の振る舞いを信仰を失った人々も信じることはできる」
たった一夜のうちに交わされた言葉の数々をティーナは克明に思い出すことができる。皇帝が逃亡して将軍が敗れ去った帝国は信仰を失って滅びるしかない。だが帝国とバルバロスが互いに争い、オオカミが双方を食らえば争乱の後にブリタンニアが滅びるだろう。
古将軍ジェラルディンがブリタンニアに残った理由は皇帝が捨てた信仰の灯火を守るためだった。羽飾りが勝利することで人は帝国の恩恵が未だ残されていることを信じることができたが、それを受け継いだジャンは自分が英雄レッド・スイフトに勝てるなどと最初から考えてはいなかった。だが帝国には、アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智を持つ英雄になれる者が一人だけ存在する。
勝つ算段もなく負けることすら承知して戦いに赴く、これほど愚かで罪深いことが他にあるだろうか。だが予定されている敗北が訪れて多くの血が流れたとしても、貪欲な勝者が祭壇に捧げられた血に満足すればそれ以上の犠牲は求められずに済むかもしれない。敗者はすべてを失っても守るべきものを守ることができるならば、大いなる犠牲と引き換えにささやかな自己満足を得ることができるだろう。
だが犠牲と引き換えに守られた当人は何一つ納得せず、無責任に戦場に赴く男に悪罵の声を投げつけるしかない。残された者は帰らぬ者よりも多くの苦労と責任、そして喪失感を押しつけられることになるのだから。
「嘘つきで身勝手なジャン・ジェラルディン。私は貴方に何も期待をしていないのだから、たった一度くらいそれを裏切ってみればいいのよ」
呟いた言葉は誰の耳にも届かない。ロンディニウムからビディフォードまではフィオレンティナが思う以上に遠い道のりであり、かつて彼女が街道を西から東へ辿ったときと同じく石造りの道程に家族と呼べる者は誰もいなかった。数千を超える人の連なりが馬上の娘に従い遠く長く伸びていたが、たった一人の人間が欠けていれば彼女は孤独でしかなかった。
遅々とした歩みの中で、無責任な噂が幾つも彼女たちの耳に届くがどれ一つとして信憑性はなくただ思い付くまま流されただけの言葉だった。それはバルバロスの勝利と帝国の壊滅を伝えるものがほとんどだが、中には敗退した羽飾りの一部が生き残って再び集結を試みているといったものもあるがフィオレンティナはそのすべてを信じていない。ジャンの目的を承知していた彼女は帝国最後の軍勢がこれほど早く壊滅することもなければ、最早生き残ることもないことも知っていた。
「戦場に背を向けたかったジャン。私は貴方を羨ましいと思っていたけれど、今もそれは変わっていないわ。自分の望むことができればそれは満足な生かもしれない、だけど自分の為すべきことができればそれは尊い行いなのだから」
おそらく戦場のジャンは結末が見えた上で軍団を死地に向かわせる自分を愚かだと恥じているのだろう。だが彼でなければできない責任から、少なくとも彼は逃げてはいない。ジャンは彼自身が思うほどに臆病でも愚かでもない、それが彼にとって何の救いにも慰めにもならないことを承知でフィオレンティナはそう思う。
ならばジャンを堂々となじるティーナは彼に恥じぬ振る舞いをしなければならなかった。彼が最後まで守ろうとした人々を守ること。だがバルバロスは英雄に救われることが許されるだけの群衆でも、帝国の人々は自らの権利を自らが守る市民でなければならなかった。
「理想を理想のままに求めてそれを実現しろというのかしらね、ジャン・ジェラルディン。貴方は私を過大に評価し過ぎている、それならば私は貴方の期待に応えてみせる。フィオレンティナ・ロッサリーニは誰よりも勇敢で誰よりも賢いのだから、ジャンの高過ぎる望みを叶えるなんて訳もないのよ」
いずれ彼女は彼女が率いる人々を守るために戦わなければならない。そのとき初めて彼女は望んでいた筈の戦場に立つことができるだろう。逃げるだけの人々を率いて凶猛な蛮人と獣を迎え撃とうというのであり、自分の方が余程気楽だとジャンが言ったあの夜のことを思い出す。
最後の一夜にジャンは伝えうる限りのものをティーナに渡していた。どうやって少数の人間で大勢の人間に勝つか、そう思っていては決して戦いに勝つことはできない。数は力であり、卑怯でも何でもなく大勢の人間で少数の人間を叩きのめすことが最も正当な戦いなのだ。それは裏を返せば自分たちが大勢であることを味方に認識させて、少数であることを敵に自覚させることができれば戦いの利を得られることを意味している。
だく足を進めていた馬の一頭がゆっくりとフィオレンティナの馬に近付くと、並ぶように足並みを揃えて馬上の男が小さく口を開いた。男が光栄ある第二十ウィクトリア軍団の騎兵隊に属していた、僅かな生き残りであることを知っているのは彼女を含めて数人しかいない。ジャンは彼女の傍らに許しうるだけの兵士を残していたがそれは多くないどころか全員を合わせて十名もいなかった。
戦場を離れて無秩序に周辺の街道や集落を襲っている集団が幾つかあり、その一つがこちらに向かっている姿が確認された。予想されていたことであり、確認できただけで数百を超える集団はそのほとんどが海峡を越えたオオカミたちだが中にはバルバロスの部族を離れたならず者はもちろん、逃亡して野盗まがいの道を選んだかつての羽飾りも混じっている。
ジャンは言っていた。戦場の危難を恐れて容易な獲物を求めようとする連中は必ず存在する、だがそれは凶猛であっても統率も勇気もない獣に等しく、一度退けることができれば尾を丸めて二度と近寄ろうとはしなくなる。そして人々が新しい勝利に新しい信仰を見つけることができれば、それは生き延びた人々の誇りになると同時にバルバロスが勝者に抱く敬意にもなるだろう。彼女たちが生き延びる術はそこにある。
これこそ史書はおろか伝承にすら残らない、ブリタンニアにおける帝国最後の戦いである。こんなものをフィオレンティナは望んでなどいなかったが、女傑ボウディッカを思わせる勇気と叡智を備える女性をブリタンニアは祝福するだろう。先頭で一団を従えていた彼女の馬が歩調を落とし、やがて馬首をひるがえして最後尾へと向かう。
「獣は数百、兵士は十人に満たず率いるのは戦場の経験すらない娘が一人。だけどその一人は他でもない、ジャン・ジェラルディンが信じた娘なのだから」
呟きながら、周囲の人々を刺激しないようにゆっくりと馬を戻す。集団が動揺すれば襲撃を迎え撃つどころではなく、逃げることも戦うこともできず捕らわれるだけだろう。貪欲な盗賊と獣たちの一団は、弱々しく歩みを進めている数え切れない獲物たちを見て舌なめずりをしているに違いなく、彼女一人が数百人を相手にして立ち回ることができる筈もない。
統率のないバルバロスとオオカミの群れだからこそ、戦場を逃れて襲撃に明け暮れる輩は後を絶たず、勇気と名誉よりも安直な収穫を求める者は幾らでもいた。逃げまどう人々を追いかけて殺したり奪ったりすることは、戦意にあふれる歴戦の羽飾りと戦うよりも遥かに容易なのである。人々が荷物を抱えていればなお良いが、なければないで人間を捕まえて売れば儲けることができる。
貪欲で獰猛な襲撃者の集団が、羊の群れよりものろまな獲物たちの様子を見て今から分け前をどうするかと言葉を交わしていた。最後尾で馬に乗っている若い娘の姿に、誰があれを手に入れるという下卑た笑いが広がる。襲撃者たちの姿は一様ではなく槍や大きな鉈を手にした者、獣に相応しい毛皮を着ていたり染料で身を染めた者、中にはちぎれた羽飾りの兜や歪んだ盾を身に付けている者もいた。彼らに共通しているのは目の奥の脂ぎった光であり、集団の軛を逃れた者に特有の無秩序な獣性だった。
獣たちの視線が自分に集中していることをフィオレンティナは理解している。周囲の人々が恐怖と緊張に動揺し始めていることも分かるが、それが恐慌に至っていないのは馬上にある娘の姿があまりにも堂々としているからだった。ロンディニウムを出立した当初から、これあるを予想して冷徹に振る舞い続けたフィオレンティナの姿を人々は記憶している。
ごく自然な動きで戦弓を抜いた娘は、馬上から引き絞った矢をブリタンニアの曇天に向けて放つ。さしもの彼女でさえ赤早ほど自在に馬と武器を扱えはしないが、充分に距離を測られた矢は獣たちの頭上に落ちると運よく一匹の胸に突き立った。
襲われる前に先んじて襲いかかり味方を怯えさせぬこと。ただ一人鬨の声を上げたフィオレンティナが数百のバルバロスに向けて馬を走らせる。彼女は知る由もないが戦場でレッド・スイフトは見せたと同じく、一騎駆けとは敵を討つではなく味方を鼓舞するためのものなのだ。
「ブリタンニアの神々よ!古将軍ジェラルディンの盟友、ロッサリーニが娘フィオレンティナが参る、行くぞ!」
勇んで駆け出すが集団から離れすぎず近すぎてもいない。勢いよく獣の群れに飛び込んだフィオレンティナは馬上で持ち替えた剣を縦横に振り回し、鋭く研がれた平刃がブリタンニアの曇天に閃きを返すと次の瞬間には頚を切られた獣が派手な飛沫を上げて倒れる。ジェラルディンの家を訪れて以来、彼女は馬の扱いで人に劣らず武器の扱いではそれこそ娘のようなジャンなど足下にも及ばなかった。
囲まれて足を止まればそれまでであり、離れれば弓で射られるかもしれない。決然とした姿ほどフィオレンティナに余裕はないが、先んじられた襲撃者の群れは立ち直ることができず混乱するままに馬で蹴られ剣で打ち据えられる。彼らのほとんどが兜も盾も持っておらず、人を襲うことはできても襲われることにはめっぽう弱かった。
思うままに嬲るつもりでいた娘に蹂躙された獣たちは、危険な獲物を諦めるとそれよりもずっと楽な獲物を求めて人々の群れに足を向けようとする。勇敢な馬上の娘は所詮ただ一人であり、数百を数える襲撃者のすべてを止められる筈がない。
歯をむき出して毛皮を被り、鉤爪を打ちつけた槍や棒を振り上げる彼らの姿は野卑な獣そのものにしか見えなかった。咆哮にしか聞こえぬ雄叫びが今更のように街道を渡り、鎖から解き放たれる勢いで一斉に駆け出す。
途端、先頭を走る頭上に何かが被せられると視界が暗くなり上から押さえつけられる。数人が持つ毛布が獣の一人に被せられると、手に手に間に合わせの棍棒を持った男たちが一斉に殴りかかった。フィオレンティナのために与えられていた、第二十ウィクトリア軍団の僅かな兵士たちの一人が過剰なほど周囲に響き渡る声を張り上げる。
「俺たちは死ぬものか!殺される前に殴り殺してやれ!」
古来、大陸ではやされていた野蛮な剣闘士競技は帝国が相手にした戦いの作法の数々を際限しており、それは人の目を戦いに慣れさせると同時に未開の蛮人や獣を恐れないように彼らの戦法を伝える目的を備えていた。その中には熟達した戦士が一対一で戦うだけではなく、集団が一人に襲いかかる戦いや網を投げて動けなくしたところを殴りつける戦士もごく当たり前に登場する。そして、そうした剣闘士競技の様子が野蛮な風習だと弾劾するように帝国の記録に伝えられていた。
転ばされたり押さえつけられた襲撃者はまさしく網に捕らえられた獣でしかなく、もがいているところに素焼きの壷が投げられると動きがにぶくなり、重い銀の食器がぶつけられてざくろの実のようにぱっくりと割れた頭から赤黒いものがあふれ出た。人と変わらぬ姿をした、ジャンの兵士たちが人に混じると敢えてその方法で戦う。
獣の雄叫びをかき消すように、追い詰められた人々がわめきたてる声が耳を打つ。死にたくない、生き延びたいと願う人々は目の前で倒れている無様な獣たちに向けて容赦なく石や棒を振り下ろした。数百に及ぶオオカミたちの集団は、数千人を超える暴徒に襲われることになった。
老いた衛士が戦う。太った商人が戦う。女が重い鍋でオオカミの頭を砕く。それは何という醜い戦いだったろうか。竪琴弾きも彼らの戦いを歌に吟じることを諦めると、楽器を捨て手近な棍棒を手に走り出してしまった。
「戦え!血を流してでも戦え!お前たちには守りたいものがあるのだろう、家族でも財産でも自分の命でもいい、それを守るために戦え!」
守るべき家族がいないフィオレンティナが叫ぶ。彼女が率いるただ一度の戦い、帝国の歴史にもバルバロスの伝承にも語られることがない、最も無様な戦いである。
‡ ‡ ‡
大陸を襲う絶望的な寒波を逃れたオオカミたちは、海峡を越えてブリタンニアに渡ると島の北方あるいは内海に面した西岸に集落をつくるようになり、やがて寒波が衰えても故郷に戻ろうとはしなかったが定住した集落が互いに争って他に目を向ける余裕はなくなっていく。
帝国最後の軍団が滅びた後、バルバロスとオオカミの間に蜜月がもたらされることはなくそれまで流された血では足りぬとばかり獣たちはかつての同盟者に襲いかかった。もはや大陸に戻るつもりがない彼らが生き延びるには、先住者の土地を奪うしかなく多くの集落が焼かれて人々が奴隷に連れ去られる。多量の貢ぎ物で難を逃れようとする愚か者もいたが、貪欲な獣の空腹を満たすことは決してできなかった。
北方から押し出されたバルバロスは南へ、かつての帝国の領土に根を下ろす。人々を率いたのは英雄レッド・スイフトの部族であり、今や彼らが帝国を継ぐブリタンニアの守護者として防壁を頑強に守らねばならなかった。一時は南岸ぎりぎりまで後退することもあったが、やがて数十年をかけて取り戻すとハドリアヌスの長城を越えて更に北のハイランドまで獣たちを押し返すことに成功する。それは帝国がブリタンニアを統治した領土にほぼ等しかった。
帝国が遺していた多くの砦や街道、城壁はそのほとんどが放棄された後でもう一度利用されている。帝国最大の都であったロンディニウムも陥落したが、戦乱を指導した人々が処断された後で市民たちはバルバロスの友邦として迎えられていた。もともと帝国に親しいバルバロスの多くは帝国の市民として扱われていた者たちであり、彼らには遺棄された帝国に対する自分たちの既得権を手放す理由がない。市民権もそのまま残されてロンディニウムやチェスターといった帝国の都市は今に至るまで同じ名前で受け継がれることになる。
ブリタンニアの一隅にあるささやかな町の残骸に辛うじて辿り着いた人々は、火で焼かれて崩れた瓦礫を拾い建物を建て直すとそこに小さいが堅牢な新しい町を設ける。後にバルバロスの部族が訪れる頃にはビディフォードは帝国の正統な後裔として振る舞いながら、かつての過ちを繰り返すことはなくブリタンニアの民として彼らと手を結ぶ道を選んだ。尊大と卑屈の双方が人を滅ぼすことを彼らは苦々しい経験として学んでいた。
帝国の系図はバルバロスに有り難がられると両者の間に縁戚が進み、あるいは途絶した家系を部族の有力者が名乗ることもあった。もともと七つが丘から続く帝国の系図は幾度も途絶えては新しい部族や民族を受け入れてきたものであり、市民権を持つバルバロスが家名を継ぐことへの抵抗もそれほど多くはなかった。
プリシウスの家はそうした中でも敬意を持って迎えられて、後に分家の一つが北にあるチェスターに移り住むと後代までブリタンニアの名家として受け継がれていくことになる。馬と月で表わされる紋章はそれぞれが勇気と叡智を示すと言われていた。
「ジャンの自己満足は彼に守られた者にとってはまるで納得のいくものではない。だけど彼は自らを捨ててすべてを守ろうとしたのではなく、すべてを守ろうとしたけれど彼自身を守ることには失敗しただけだった。本当に未熟だったジャン。彼の高過ぎる理想に彼の能力が見合っていれば、帝国は新しい皇帝すら迎えることができたかもしれないのに。
だけど、それで良かったのかもしれない。ジャンの思いは確かに受け継がれて、私も、そして幾人もの人々が大切なものを守るために自ら戦うことを思い出したのだから」
フィオレンティナ・ロッサリーニ・プリシウスは彼女の生涯を通じてこの小さな町を主導するがその足跡は何の歴史に残ることもなかった。父の墓所はすでになくジェラルディンの家は続くことを許されていない。だがジャンから受け取ったものを彼女は忘れないし決して絶やそうともしなかった。アンドラステの勇気とカレイドウェンの叡智、幼い彼女はそれを振るう戦場を望んでいるが、守るべきもののために望まぬ戦場に立つ者がいたことを人は忘れてはならない。
小さなビディフォードの町、岬へと続く丘に据えられた塚は深い苔と草に覆われてしまい、やがて刻まれた文字すらも読み取ることはできなくなるだろう。西から東へと抜ける風がブリタンニアに暖かい流れを届け、時折沿岸を行く船が見える丘は考えごとをしながら人を待つには丁度よさそうな場所に思えた。
何世代もの時が過ぎて、ブリタンニアを抜ける風に身を任せていた赤毛の娘が一人、数日遅れてくる友人の船を待っている。岬へと向かう見晴らしのよい丘は古い史跡として人に知られており、彼女は北のチェスターにある家を離れてしばらくぶりの休日を過ごすためにここを訪れていた。
彼女の家に伝えられている一巻の本がある。飽きるほど学ばされたブリタンニアの歴史、かつて帝国がこの島を治めていた時代に羽飾りと呼ばれる勇猛な軍団を率いた若い司令官の手記である。決して文学的とはいえず、戦いの叙述としても詳細とは言い難いが衰退する帝国で当時の人々が抱いていた葛藤が窺える記録として貴重なものと思われていた。その本の表題にはジェラルディン回想録の文字が記されている。
回想録の結びと思われる一章は完全に欠落している。戦いの日々に思索に没頭した記録が綴られているその本で、最後の一章は彼が送ろうとしたただ一人の家族だけが知っていれば構わないのだ。
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