序章.三十年前の英雄譚


 吟遊詩人は語る。精緻なタペストリに飾られた華やかな宮廷でも、楽の音が響き高貴な人々が集う宴の席でも、幾つもの盃や器が掲げられる喧噪に満ちた酒場でも。それは老人でも子供でも知っている、三十年前の英雄譚だった。

 賢者アーベルの弟子である、若き勇者ダインの手によって邪悪な大魔王ハンは倒されて世界には平和が訪れている。霞のハン、死のハンと呼ばれて大陸中に恐れられた大魔王の軍勢は彼が従える兵士と民人をすべて支配者と奴隷の二種類に分ける統治を行い、支配者には過酷な訓練と揺るがぬ忠節を、奴隷には永遠の隷属と服従だけを要求した。富によらず、力と恐怖だけで支配された大魔王ハンの軍勢に列国は太刀打ちすることもできずいくつもの国が滅ぼされ、町は灼かれて人々は殺されるか捕らえられて奴隷となり、地上は絶望の色をした暗黒で塗りつぶされようとしていた。ハンが欲するのはただ地上の栄光のみで、繁栄による堕落すら軽蔑する彼にとって金品や宝飾品の略奪は無用であり、破壊された焦土とうごめく奴隷が手に入ればそれで充分だった。賄賂を贈ることも降伏することも、大魔王は求めていなかった。
 だが大魔王に対抗する国々はそのおそるべき脅威を前にして団結することも手を握ることもできず、それぞれが送り出した軍団はたやすく打ち負かされ、防壁は崩されて砦にも町にも火がかけられると、暗黒の軍勢に襲われた傷跡にふさわしい黒々とした煙が曇天の空に立ち上った。無力な人々は光と神々に祈り、救いを求めたが彼らはただ祈るだけだったから大いなる神が降臨して邪悪な王を討ち滅ぼすこともなかった。

 辺境の孤島に生まれた、竜殺しの英雄の末裔といわれる少年ダインは成長すると賢者アーベルの教えを受け、邪悪な軍勢から人々を救い出すために立ち上がった。同胞であるアーベルの弟子たちを連れた少年ダインは、いまだ大魔王の侵攻に対抗していた小国ハイランドの若く美しい姫エレオノール、エレオナを助けると彼女は国の宝である伝説の剣を少年に与えたという。
 ダインの戦いは決して楽なものではなく、数多くの仲間を集い、人々の助けを得て方々で地道な抵抗活動を行い今も語り継がれる伝説の戦いで無敵とうたわれた大魔王ハンの軍勢を激闘の末に倒すことに成功する。その勲功には後に四英雄と呼ばれることになる、ダインと同じ賢者アーベルの二人の弟子と、魔王軍を脱走して勇者に協力した二人の戦士の力が大いなる助けとなった。中でも失われた魔法を用いる大魔導士ポールは常にダインと肩を並べ、兄弟にも等しい親友たる勇者を助けて最後まで戦ったという。

 伝説の戦いに勝利したダインの軍勢は大魔王ハンの邪悪な城を囲い、激烈な攻防の末に王の陣幕になだれ込むと、ダイン自らが掲げる勇者の剣が大魔王の胸に深々と突き刺さった。世界に光と平和が訪れた、暁の最初の一閃が差し込んだ瞬間、王の近衛兵が放った一本の弩の矢がダインの背を貫いた。彼らが生きてきた固く冷たい戦場に魔王と勇者が倒れると同時に双方の兵士が殺到し、絶望の悲鳴の中でハンとダインの身体は踏みにじられ、周囲に火と煙が満ちると多大な犠牲とともについに大魔王の王国は燃えて暗黒の軍勢は崩壊した。

 こうして讃うべき勇気と献身を示し、世界を暗黒の淵から救い上げた勇者ダインの物語は伝説となって人々に語り継がれている。そして戦いを終えて後に、暗黒の軍勢に灼かれて荒廃した国々を取りまとめ、再興させたのはかの美しいエレオナ姫だった。ハイランドの前王は魔王軍の侵攻で命を落としており、残された姫は処女王エレオナとなって、大きな哀しみと小さな希望が残された戦場からかろうじて見つけ出したダインの剣を正義と勇気の旗印に掲げると、勇者の偉業を讃え、語り、祀り、勇者が取り戻した平和を守り抜くために自ら人々を導いている。
 ダインの仲間たちは処女王エレオナに忠誠を誓って新しいハイランドの騎士となり、白銀に輝く鎧を着てその城を守ることになった。誇らしい騎士の鎧の胸元や、王城にひるがえる旗に描かれる新しいハイランドの紋章は、勇者ダインを象徴する竜の姿を象ったものである。吟遊詩人は語る。

 かつて奈落の蓋が開き 暗黒が世界を包もうとした
 花は枯れて鳥は静まり 世界は絶望と恐怖にさらされた

 遂に一人の勇者が現れた 少年の名はダイン
 其は賢者アーベルの弟子 伝説の英雄の子孫
 王女は勇者に剣を授ける ひとふりの剣
 勇者は四人の友を連れた 二人は賢者の弟子 二人は暗黒の僕 されど光を知る

 輝く鎧 銀の槍の騎士ヒュンケルト
 鋼の斧 鋼鉄の王クルトバーン
 神の槌 聖なる裁きの使者マール

 そして四人目の英雄は 魔導士ポール万能の力
 だが魔導士は勲を残し 勇者とともに姿を消したり
 一閃の矢が勇者を奪い だが世界には暁が差し込んだ
 人は暗黒から救われた 哀しみを残して

 一人の勇者と四人の英雄の物語 今なお語り人々は 伝えたらん

 それから三十年の歳月が流れていた。世界には平穏と秩序がよみがえり、世界を統べる処女王エレオナが治める新しい統一国家ハイランドによって人々は充分に栄えていた。大魔王ハンの軍勢に灼かれた国々は二度と立ち上がることができず、伝説の戦いで敗れた後も各地に生き残った魔王軍の残党によって傷を受けたが今はそれも平定されている。人々はエレオナが掲げる光の下に集うともはや闇に怯える必要もなく平和の中で暮らしていた。
 人望と指導力の双方を備えている女王エレオナが玉座を置く、大理石で舗装された白く輝く王都エレンガルドでは、今より十年前に建てられた壮麗な王城と大神殿を中心に、真夜中でも絶えることがないと言われる神々しいばかりの光と輝きを放っている。人々は昼は輝く陽光の下で、夜は掲げた火の照り返しの下で休むことなく精力的に働くと、荒廃した世界を復興させた者たちの誇りをもって美しい世界を形づくろうとしていた。処女王エレオナが治めるハイランドは最高司祭長マールが信仰とモラルを取り戻し、鋼鉄の王クルトバーンが都の、銀の槍の騎士ヒュンケルトが街道の治安を守り人々は魔王軍の残党どころか野盗や猛獣に悩まされる心配からも解放されていた。

 女王の名を冠する光の都エレンガルドから遠く離れた辺境に、名前も知られていない小さな村がある。涼やかに乾いた空気が肌に心地よく、背の高い針葉樹の森と雪冠を被った峻険な峰に囲われている素朴な村の人々は、狩猟と牧畜、そして麦畑の世話で日々を過ごしていた。かつて大魔王ハンに滅ぼされた王国の辺境にあり、争乱で四散する以前の活況にはほど遠いが地道な努力がようやく実りつつある、その実感が人々の瞳に強い光を感じさせる。
 雪解け水が流れている小川に沿った、なだらかな道を抜けたいちばん奥にある、他の家々から少しく離れた場所には一軒の丸木づくりの小屋が建っており、そこには風変わりな一人の人物が暮らしていた。くしけずられていない伸び放題の髪の毛に、ゆったりとした厚手の貫頭衣をこれだけは立派な飾り紐で縛り、簡素な刺繍がほどこされた肩布を羽織っている姿は、快活さに欠けた表情と相まって彼を実際の年齢よりも年老いたものに見せている。村人からは先生と呼ばれて親しまれている、その人物がポールというごくありふれた名前であることを知っている者は村長を含むわずかな人たちだけだった。

「こうして、自分の生まれに悩んでいた少年は遂に自分のために生きることができなかった。世界は救われたんだ。一人の少年を犠牲にしてね・・・」

 煙突からは白い煙が立ち上り、あたたかい空気にお茶と香草のにおいが混じっている先生の家を訪れるのが少年は好きだった。先生は家の裏手にある水のあふれ出る泉のようにいろいろな物事を知っていて、畑や森を世話する方法、山羊を放すときに気をつけること、食べられる木の実の選び方、読み書きの方法から空を見て今年の天候を占う方法まで多くの知識を村のために役立てている。少年は幼いころから先生の家を足しげく訪ねていたが、先生は嫌な顔をするどころか少年の訪問をよろこんでたくさんの知識や物語を聞かせてくれたものである。
 そうした物語の中でも、先生が語ってくれる勇者ダインの英雄譚は少年の心を強く掴んで離さなかった。先生の話は誰もが知っている勇者の物語とは少しばかり違っていたが、少年は先生の話のほうがずっと好きだった。先生が語る物語の中で勇者ダインは降臨した神様の使途でなければ無敵の英雄でもなく、ただ人々のために戦おうとする普通の人間だった。

 ダインの物語を少年に話すときの先生は、いつも少し寂しそうな瞳をしていた。そしてその話とその瞳に見入られているうちに、少年はいつの間にか濃く赤くなった日差しが小さな西窓から差し込んでいることに気がつくと、夕日が山の稜線に沈みかけていることを知らされることになる。
 母親が作ってくれているであろう、好物の丸芋が煮込まれたあたたかいシチューが冷めないうちに、少年は駆け足で家に帰らなければならない。歳月に磨かれて表面が黒く光っている木椅子から腰を浮かせて、戸口まで見送ってくれた先生に礼を言うと、なだらかな起伏のある村の小道を抜けて煙の立ち上っている、うす赤い光に包まれた家の方角に向けて駆け出していた。

 最初、少年は自分の目が何を映しているのかわからなかった。立ち上っている黒煙が家のかまどからではなく燃えさかる屋根から出ていること、うす赤い光は沈んでゆく夕日の残滓ではなく、激しい炎の舌が照り返した輝きであることに気がついたとき、少年は自分の生まれ育った家と、小さな村が金属の打ち合う音や馬のいななき、人々の叫び声と燃え木のはじける音に囲まれていることを知った。
 少年が視線を遠く見やった先に、炎の明かりを照り返す白銀の鎧を着た頑健そうな男たちが整然と並んでいる。そして男たちの手に燃えさかる松明が握られているのを見たとき、駆け出した少年が向かったのは両親が住んでいる家ではなく先生のいる丸木づくりの小屋だった。悲鳴と怒号は少年の鼓膜を破って頭の中にまで響き渡ったが、それが少年ののどを抜けて外に流れ出ることはなかった。

 白銀の鎧を着た男たちは左手に持った松明で家々に火を放ち、右手に持った剣で逃げまどう人々をなぎ払っている。猟師のワルターは太ったヨアヒムと酒場で談笑していたところに踏み込まれ、輝く剣で叩き伏せられると入り口の扉を固く閉めてから火をかけられた。鍛冶屋のブルーノは逃げ後れた息子のハインツと一緒に捕まると足首を斬られた後で首を斬り落とされ、気のいいベッカー姉妹は髪の毛をわしづかみにされて泣き叫びながら、地面に投げ出されると鉄靴の先で頭蓋を砕かれていた。毛布に潜り込んで震えていたアマンダ夫人は焼け落ちた家の天井に押しつぶされ、その娘で幼なじみのテレーゼは全身火だるまになって飛び出したところを念のために刺し殺された。
 白銀の男たちの動きは規律正しく、計画的で、村人の誰一人として逃がすつもりはなく瓦礫の一つさえも残すつもりがないことは明白だった。それは少年が先生から聞かされていた、大魔王ハンの破壊にも勝る徹底ぶりだった。

 破れそうになる心臓と肺を懸命に抑えながら丸木づくりの家の前にたどり着いたとき、少年は先生の家が白銀の鎧を着た男たちに囲まれているのを目にした。扉の外には先生がいて彼らの前に立ち尽くしていたが、遠くの炎の明かりに照り映える表情は少年がこれまで見たこともない蒼白なものだった。村を焦がす火の粉が舞っている風に乗って、その声が少年の耳に流れてくる。

「まさか今頃・・・エレオナがここまで・・・」

 わずかに聞き取ることができた先生の言葉の意味を、少年が理解できるようになるのはずっと後のことである。白銀の鎧を着た男たちはたくましい肩に槍を担ぐと、先生に向けて一斉にかざしてみせる。少年は驚き、何ごとかを叫びながら尊敬する先生のもとに駆け出そうとしたが、何を言おうとしたのかを思い出すことは二度とできなかった。
 先生もまた突然現れた少年の声と姿に驚くと、それを見た白銀の男たちは手にした槍を先生と、駆け寄ろうとする少年に向けてためらいもせず一斉に突き出した。一瞬の半分ほどの時間、意を決した顔を見せた先生は早口で不思議な旋律の言葉を唱え始めると、少年に手のひらを向けて力強く叫ぶ。その手が乾いていてあたたかい感触をしていることを少年は知っていた。

「BASI=RULA!」

 次の瞬間、世界は白い光に包まれて気がつくと少年は一人うつぶせになって草原に倒れていた。その日は月のない夜で、周囲は先ほどまでの喧噪が夢かと思えるほど深い闇と静けさで包まれており、あるいはいま見ているものが夢ではないかと少年は思いながらゆっくりと身体を起こそうとする。
 夜露に湿った下草ががさがさと音を立てて、足もとの土の感触を確かめると、少年の脳裏に先ほどまでの記憶が戻ってくる。少年が暗闇に目を慣らしつつあたりを見回すと遠く遠くにある雪冠を被った山嶺、その稜線からわずかな赤い光と黒い煙の筋が立ち上っているのが見えた。伝説の大魔導士ポールが最期に用いた魔法の意味を、少年が理解するまでにそれほど長い時間は必要とはしなかった。

 しばらく唖然とし、呆然とした後、もう見えなくなりつつある赤い光に背を向けて歩き出す少年の顔は、魔法の呪文を唱える寸前に先生が見せた表情に良く似ていた。ただ、その目から流れ落ちる涙だけがどうしても止まらなかった。


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