六章.ブルスの日記


 大障壁ダインブルクを抜けて、少年と老戦士の二人は森の奥深くへと姿を消していた。青年の姿はどこにも見えない。踏み分ける道すらない深い森に潜む生活が人の耐えられるものではないことを、少年は自分の経験として知っていた。

「誰かがこの希望なき地の姿を伝えるために大障壁の西に赴かねばならない」

 そう言っていた青年はある朝を境に突然姿を消していた。大障壁から数日ほど離れた場所で、遠くに立ち上る集落の煙を見つけたがむろん立ちよるつもりはなかった。焚き火すら起こさずに野営を組み木の幹にもたれかかって眠りにつく、あるいは眠りにつくふりをした翌朝少年と老戦士が目を覚ますと青年の姿はなく、荷物からは一人ぶんよりもいささか多くの食料と水がなくなっていた。
 半ばは予想していたことである。逃げた青年が大障壁の兵に訴え出るとも思えず二人にはそれで構わない。青年のその後の足取りを示す記録はどこにも存在せず、彼は大障壁の東の世界、失われたホープの歴史を伝えて少年たちが西の地に戻る手助けをした、それで充分だった。

 街道から遠く離れた森の奥で、冬を前にした冷気と朝露を含んだ落ち葉が踏みしめられて土と混じりあう。時おり、三十年前に放棄された村や集落を思わせる崩れた石や木材の名残を見かけたが、多くは人が立ち入らぬうちに無秩序な自然の侵食を受けていた。
 少年の望みは先生が殺された理由、この世界の真実を知ることにある。竜殺しの英雄の血をひく勇者の伝説と、先生に聞いたダインの物語でしか少年はハイランドの姿を知らない。少年が向かおうとしている未来に繋がる、一本の道を見つけるにはあと少しだけ過去と現在が足りなかった。そして老戦士の役割は少年が歩む道を舗装することである。

「勇者ダインと大魔導士ポールが出会ったの島、ダインの生地であるそこはデミルーンと呼ばれていた」

 森の中の道なき道を進み続ける、二人の歩みは北の山嶺を回り込んで海岸線へと向かっている。罠をかけてカモシカを捕らえ、小さな洞窟を利用して火と煙を起こすと周囲に見つからぬように気を配りながら大量の燻製肉をつくる。秋は深まって冬の尖兵が訪れており、危険を犯してでも食料は手に入れておく必要があったが、この一帯にはハイランドの巡視兵の姿も見えず人間が足を踏み入れぬように意図的に避けられているようにも見えた。

「デミルーンは陸からは見えぬさいはての島だが、そこに渡るまでの道に人が暮らしていないわけではなかった。ポールの生家もこの近く、山脈に近い小村にあったはずだし、まさか三十年が過ぎて集落もできていないとは思わなかったな」

 老戦士は荷物から取り出した古びた皮の地図を広げると、どこか懐かしげに目を細めた。彼らが怪物を狩るためにデミルーンを訪れ、勇者になる以前のダインたちに追い返されたのはそれよりも更に昔の話である。地図には沿岸の街道と点在する集落、そしてデミルーンに渡る海流に乗るための場所とさいはての島の姿などが汚らしい筆で描き込まれていた。少年も老戦士も知らなかったが、ハイランドには二枚の地図があり人々が多く知っている一枚にはデミルーンやその周辺につながる場所は記されておらず、老戦士が手にしていると同じ一枚を見ることができるのはごく一握りの者だった。

 少年と老戦士は数日その地に留まって食料を準備しつつ旅の疲れを癒すと、出立してからは人気のない沿岸に出て更に西へと進んでいく。それまでの道なき森の道や山嶺の隘路に比べれば遥かに容易な旅であり、三日後には老戦士が覚えていたデミルーンへ続く海流へ乗るための入り江にたどり着いた。
 周囲には兵隊の姿どころか人影すら見当たらないが、海に出れば身を隠すところもなくどれほど気を使っても過ぎることはない。二人は荷物から鉈と斧を取り出すと、中身をくりぬいた二本の木を横木でつなげたかんたんな舟を組み上げる。夜の最中にこぎ出すことも考えないではなかったが、この小さな舟で海流に乗り損ねれば命とりにもなりかねず早朝に発つことを決める。早い眠りにつく前に、老戦士は自分が知っている当時の話を少年に語って聞かせた。

「とはいえ、わしは大魔王ハンを恐れて要領よく逃げ回っている連中の一人でしかなかったから傭兵のくせに国のことも軍団のこともまるで知らなんだ。わしができたのは伝説の時代に逃げた人々を守ることや、三十年前にポールに頼まれてメアリの村を守ることくらいだった。自分を守るついでだったら誰かを守ることができなくもなかったからな。
 いずれにせよ、わしが教えられるのは当時の人間がふつうに知っていた、勇者ダインと英雄たちの姿でしかない。だがお前であればその姿から、わしよりも多くのものを見ることができるかもしれん」

 老戦士が覚えているダインは正義感にあふれる、苦難に負けぬ心を持った、勇者と呼ばれるにふさわしい少年だった。その友人である大魔導士ポールは臆病と慎重がいつも争っているような性格で、気が強そうな修道士マールに叱咤されていた印象が強い。大魔王ハンとの戦いでは更に仲間が増えていたが魔王軍を見限ったクルトバーンやヒュンケルト、獣王遊撃隊を率いたテオや避難する人々を導いたメアリたちの姿を老戦士の記憶は鮮明に思い返すことができる。
 当時は幼い王女でしかなかったエレオナ姫を含めて、彼らに共通していたのは少年ダインへの敬愛というよりも純粋な友情だった。ダインは確かに人に好かれるにふさわしい者であり、皆は少年を助けるために力を振るい、多くの犠牲こそを出しながらも遂には大魔王を打ち倒すことに成功した。当時、絶望するだけの人々の中で子供たちが世界を救うなどと考えた者がどこにいただろうか。

 今とはあまりにも異なる伝説の時代。老戦士は少年に時が人を変えること、あるいは時を経ても人が変わらないことの残酷さを教えても構わないと考えていた。統一国家ハイランドに伝わる勇者の伝説、少年がポールに聞いたダインの物語、失われたホープで聞いた大障壁の歴史、そして老戦士が知る少年たちの話。記憶はすべて断片的でかき集めても足りない箇所はいくらでも存在したが、まだ欠けている大きな章があるとすればそれは王都エレンガルドとさいはての島デミルーンの二つにあるだろう。
 夜が明ける直前、まだ暗い中で老戦士が舟を浜辺に押し出すと少年は櫂で砂辺を押して舟底を浮かせる。すべり込むように乗り移り、その勢いで小さな舟は海面へと流された。北の海は冷たく、数週間もしないうちに冬が訪れて海面が激しく波打つようになり即席の舟が持ちこたえることはできなくなってしまう。少年と老戦士は呼吸を合わせて、懸命に櫂を漕ぐと舟を進ませた。すぐに夜が明けて日の光が辺りを照らし出すが、周囲を通る船影は皆無で陸にも人の姿はない。

「本当によいのか?ポールの生家を探すこともできたのだが」

 櫂を持つ手を休めず、老戦士の言葉に少年は無言で首を振った。入り江からポールが生まれた村まではさほど離れておらず、デミルーンに向かう前に行くことはできたがその行為に意味がないことを少年は知っている。ポールの生家が残っていても少年の村と同じく焼かれただろうし、何よりも少年にとって家とは先生と過ごした場所のことだった。彼らが探しているのは大魔導士ポールの生涯ではなく勇者ダインの歴史なのである。

 海流に乗り入れると小さな舟は不安になるほどの勢いで少年と老戦士を運んでいく。これで櫂で進む必要はなくなったが舟が波に倒されぬよう、海流を抜けられぬ場所にまで流されないように保つ必要があるから休む余裕はなかった。地平線が消えて視界がすべて海で囲われると不安は更に増すが、黒々とした水の流れは海面からも見えて長く伸びた街道のように続いているのがわかる。森の中の道なき道に比べれば、あるいはましなのかもしれなかった。
 交替しながら数刻のあいだ海面を凝視していた老戦士はわずかに海流が分かれる場所を見極めると、少年と二人思いきり舟をこぎ出す。三十年来の記憶であり、これを誤れば島は遠く離れていくが幸い舟は自然に支流へと流れてあとは放っておいてもデミルーンを回遊する流れに乗ることができた。少しずつ舟を寄せていくと不思議と気温が上がっていくように感じられるのは海流に温度差があるためで、デミルーンに渡る海には雲が多く島を隠す壁のようになっている。

 すでに傾いた日は水平線の向こうに沈みはじめており、ようやく見えはじめてきた島の姿が黒い影となって少年の視界に浮かんでいる。海流を完全に抜けると少年と老戦士は力強くこぎ出し、ゆっくりとデミルーンへと向かう。小さな湾に入るころには周囲は照り返す月と星の灯りだけで照らされていて、二人はいくども水を被った舟と疲労が重くのしかかった身体を浜辺に押し上げると茂みの中に押し込んでから間に合わせの休息をとることにした。
 ここがさいはての孤島、はじまりの島デミルーンである。

‡ ‡ ‡

 街路も建物も大理石で舗装されて陽光を白く照り返す王都エレンガルドは、新しい世界を統べる都としての荘厳な美観と機能的な実用性を備えていた。だが平和と繁栄に満たされているはずのエレンガルドで、王城の玉座にある女王エレオナは不機嫌の湖面に漂う優美な船となっており眉間にはわずかな翳りが見える。
 破戒活動罪および叛逆予備罪、そして神聖放棄罪によって告発され処断された国事犯メアリが勇者ダインの名を使って不穏な妄言を叫んだ件は噂となって人々の耳に残り、王都に穏やかならぬ空気を生み出していた。伝説の時代から三十年を経た今も勇者ダインの名が人々に強く根づいている、それはエレオナにとって喜ばしい事実だがダインの名が他人に利用されたことは気分のよいことではない。

「醜態でしたね、マール」
「申し訳ございません。此度の不手際、どれほど謝罪の言葉を並べても足りませぬ」

 玉座にある女王から叱責の言葉をかけられて、神の槌と呼ばれる最高司祭長マールは恐懼して頭を垂れると己の手落ちを謝していた。異民族の汚れた女メアリが死の間際に弄した手品よりも、その手品に最高司祭長が動揺して取り乱したことが人々の好奇心に余計な油を注いだことは明白で、忌まわしい妄言が残り火となってくすぶる原因となっていた。

「あの卑小な女がまさかあのように小賢しい手管を用いようとは、確かに余も思い至りませんでした。とはいえそなたが毅然とした態度を崩さず、メアリの世迷い言を一顧だにせねばことは遥かに小さく済んだでしょう。平穏なるが故に不穏な妄想を好む、心弱き者たちに余計な想像力を働かせる余地を与えた過ちは見過ごせるものではありません。
 ですがひとつの過ちを理由にそなたを罰すれば、臣民にはより不要な妄想を抱かせることにもなりましょう。何よりそなたの日々の働きと献身的なまでの闘争を忘れて、失敗のみを語ることは公正な態度ではありません。故に今回は譴責のみで済ませますが、そなたには事後の動揺を抑える働きを期待させてもらいますよ」

 そう言うと女王は最高司祭長を退出させ、謁見の間にはハイランドが誇る三騎士の二人、銀の槍の騎士ヒュンケルトと鋼鉄の王クルトバーンが残された。マールが辞したことを確認して、ヒュンケルトが謝辞を述べる。

「陛下。寛大な処遇、ありがたく存じます」
「多少の過ちなど誰にでもあること。そなたたちの働きを思えば咎めるのも気が引けますが、後の大いなる災厄になりかねぬ失敗は避けねばなりません。ことに世の法則の擁護者たるマールの動揺は法と体制の信頼への動揺にも繋がります。いずれにせよ事後の措置は彼女自身に任せますが・・・クルトバーン」

「はっ」

 近衛隊長である鋼鉄の王が女王の呼びかけに答えて一礼すると、エレオナは忠実なクルトバーンにマールを手助けして王都の警護と取り締まりをいっそう強化するように命じた。人心が揺らいでいるときの統治には厳格さが求められ、大神殿が法と裁判を、近衛兵団が規律を引き締めることで煽動や騒乱を未然に防ぎ毒虫の蠢動を抑えることができるだろう。深々と頭を垂れたクルトバーンも退出し、女王の前には知と勇を備えた騎士団長が残される。

「ところでヒュンケルト、東に逃亡者が出たという話を聞き及んでいますが」
「・・・は。辺境伯を警護する衛士が一名、叛逆して伯を襲ったとの報が伝わっております。伯は軽傷で衛士はすぐに捕らえられて処断されたとのこと、ですが同日に衛士の姿をした三名が伯の伝令と称して大障壁をくぐったとの報もあり、未だ報告の整合性が得られておりませぬ。急ぎ事情を調べさせておりますが、度々の不手際誠に申し訳ございません」

 辺境伯が騎士団長ヒュンケルトと最高司祭長マールの子であることは周知の事実だった。一時期は王都で要職に就けようとしたが無能の故に辺境に送られていた伯の存在そのものが、女王に仕える三人の中でも他の二者に勝るヒュンケルトの数少ない悩みだと言われている。辺境の無能者に感じた不快感を露骨に表情に現しつつ、女王は不満げに唇を開いた。

「また辺境伯ですか、あの者はどうにかならぬのですか」
「あのような者でもマールが溺愛しておりまして・・・いずれに致しましても、まずは逃亡者の素性を割り出すことが先決と考えております。衛士に変装した三名のうち一名はすでに判明、あとは新参の奴隷で少年と老人の二名がいたらしく、彼らの所在が不明となっております。大障壁をくぐった三名の人相がいささか異なるのが気がかりですが、巡視隊が足取りを追えずにいることから隠密活動にも優れた者と考えます」

「テオの手の者ということもありえますか・・・巡視隊の目を逃れて合流を図られると厄介ですね」
「巡視隊には定められている通りの哨戒を命じましたので、ほころびのある箇所には臣が直属の兵を連れて向かう所存でございます。王都はマールとクルトバーンに任せておけば、しばらく問題はなかろうかと存じます故」
「宜しい。ではすぐに出立の準備を」

 女王の言葉に一礼を返すと、ヒュンケルトは謁見の間を辞した。信頼できる三人の英雄たちを送り出した後で、女王エレオナは玉座で両の目を閉じると世界を統べる者としての思索に沈む。平穏な水面に起こる、一つ一つの波紋は小さくてもそれらが重なればいずれ統一国家ハイランドという大船を揺るがす波にならないとは限らない。かつて大魔王ハンを打倒するために勇者ダインが起こした波はごく小さなものだったが、それが集まって大きな力となったことをエレオナは知っている。
 世の中には大魔導士ポールやかつての獣王遊撃隊長テオのように、小さな波紋を集めて大きな力とする術を知っている者が存在してそれは才能や経験とは異なる次元で開花することがある。卑小なメアリは処刑される寸前にそれに近いことを行おうとしたが、より明確で強い意志を持つ者が人心を誘導して旗を掲げることがあれば成功と失敗は別にしてその鎮定には苦労を強いられることだろう。復興を目指してそれがようやく形になったハイランドは未だ強固な国ではなく、メアリの妄言に揺らされるていどの集まりでしかない。

 ハイランドが遥かな航路を進む一隻の船であるならば、今はまだその舵取りは女王一人に任されている。勇者が帰らなかった世界で、無力な人々を救おうとしたダインの志はただエレオナだけが継いでいるのだ。

‡ ‡ ‡

 デミルーンが勇者ダインの生地であるという話は大陸中の者が知っているが、そのデミルーンがどこにあるかを知っている者はほとんど存在していない。ダインがまだ勇者と呼ばれていなかった時代、その島を訪れたことがある老戦士のような例を除けばデミルーンが島であることすら知らぬ者もいるほどだった。ハイランドの復興からも取り残されている辺境の島は地図にも載らず、周辺を行く船もなく、北方山脈と深い森林をはさみ世界から隔絶されて久しくなる。

「もっとも、わしが訪れたころのデミルーンも人が訪れることがない未開の島だった。何しろそこは大魔王の軍を逃れた怪物たちが暮らす隠れ里だったのだからな。あのころはダインを育てた鬼面道士の老人がいたが、三十年も経てば島の様子も変わっていよう」

 当時、老戦士たちが島を訪れた理由は怪物討伐のためであり、存外に平和に暮らしていた彼らに襲いかかろうとしてダインたちに返り討ちにあったことを笑いながら話す。その当時から少年ダインは正義感にあふれて誰にでも好かれる性格をしていた。賢者アーベルが島を訪れ、ダインが旅に出たのはしばらく後のことである。
 少年がデミルーンを訪れた理由は彼が知らぬ世界に欠かせない巨大な断片、勇者ダインの姿を知ることだった。先生の言葉を信じている少年だからこそ、伝説の勇者の姿と大魔導士ポールが語るダインの姿が異なるなら、そのどちらにも流されずに真実を知ろうとする努力を怠ってはいけない。ハイランドの伝説は壮麗に脚色されているかもしれず、ポールの述懐は感傷で飾られているかもしれないのだから。

 朝日が昇るのを待って少年と老戦士はデミルーンに足を踏み入れたが、明るくなっても周囲は奇妙に静かで生き物の気配は感じられなかった。島の中央には切り立った山があり、太古の時代に火山が隆起してできた場所であることが分かる。山の周囲は小さな森に囲われて、浜辺や平地は狭く地面は概して砂がちで固く、気候は思ったよりも穏やかで木々や蔓草が生い茂っていた。
 だが茂みをかき分けて見つけた沼には錆びた鉄や銅が沈められて赤黒い色に変わっており、よく見れば木々の根元にも塩が詰められて立ち枯れているものも少なくない。更に奥に進むと開けた場所には朽ちた骨と皮だけの残骸が散乱しており、この島の生き物が滅びたのではなく滅ぼされた様子が見てとれた。足下を赤錆で汚しながら、島の更に奥へ向かう。老戦士が覚えていた少年ダインの家があった場所には太い木の枝や幹を利用して組まれた、崩れかけた小屋が残っていたが天井は破れて壁は朽ち、壊れた棚や割れた食器が散乱している様子を見るに使われなくなって久しいことが分かる。

「たしかブルスといったか、ダインを育てた鬼面道士がデミルーンの長老をしていたが・・・」

 老戦士はダインにも鬼面道士にも会ったことがあるが、伝説の戦いが始まって以降の島の様子を知っているわけではない。伝えによれば彼らは本来魔王軍の兵隊で、戦いを嫌って逃げたものがデミルーンに隠れていた。大魔王の軍勢は多くの怪物を従えていたが、それは魔的な統制力を持っていて大魔王の影響を受けるだけで怪物は凶暴になり目につくものに襲いかかったと言われている。そのわずかな例外がクルトバーンやテオ、そして心優しいデミルーンの怪物たちだった。
 少年と老戦士は誰も暮らしていない島をぐるりと一巡したが、そのうちに日も落ちると二人は沿岸から影になる島の反対側に移動して、岩場に姿を隠してそこで夜を過ごすことにする。彼らは自分たちが大障壁をくぐり抜けた者であることを忘れておらず、いつ追っ手が現れても不思議はなく万が一にも目につくような行動は控えねばならなかった。

 死せる怪物の島に二日目の日が昇り、その日は中腹にある切り立った斜面を捜索した少年は隠れるのに適当な小さな窪地を見つける。火を起こしても沿岸から見つからないように気を使わなければならない少年は、同じ理由でこの島に隠れる場所を求めた者がいるのではないかと自分が身を隠すのに使えそうな場所を探していた。老戦士の話が確かであれば鬼面道士はこの島で暮らしていたはずだが、島が滅ぼされるような出来事があってもあんな小屋で寝起きをしたとは思えない。
 少年は窪地の岩が重なった隙間に小さな隙間を見つけると、その奥に伸びる狭いが深そうな洞窟を発見する。身体を曲げて窮屈な隙間に無理矢理入り込むと、しばらく苦労して進んだ奥は広くなって底には乾いた砂の地面があり、がらくためいた道具や食器が転がっていた。

 角灯を持ち込んで照らしてみるとテーブルに使っていたらしい平たい石や、寝わらやぼろ布もあってここに潜み暮らしていた者がいることを窺わせる。乾いた砂地で腐らずとも風化して崩れた道具や器がほとんどだが、洞窟の隅にやや大きめの、頑丈そうな木箱が置かれているのを少年は目にとめた。老戦士を呼び、麻縄を結んで箱を引き上げると中には短い棒のようなものがくるまれている包みが一つと、乱雑に文字が書きつづられた何枚もの羊皮紙が詰め込まれている。風に崩れないように注意しながら、少年は慎重にそれらを陽光の下に取り出した。

「これは、ブルスの日記だな。日付はまちまちだが・・・」

 老戦士が呟き、少年と二人で苦労して羊皮紙を順に並べてみるとそこには一人の鬼面道士が後に勇者となる少年を育てた日々の様子がつづられていた。最初の一枚は彼が一人の赤子をひろった記述から始まる。

『デミルーンに小舟が流れ着いた。たぶん数日前の嵐で沈んだ船から逃げてきたのだろう。かわいそうに、乗っていた二人は死んでいたが女が抱えている赤子にはまだ息があった。まさか見殺しにもできまい。あばれざるが乳を出してくれた。マッドオックスの毛は赤子を冷やさずにすんだ。赤子が泣き出したときは皆が大わらわになったが、元気な泣き声に皆が笑う。泣く子も黙る魔王軍の怪物たちが赤子に笑わされるなどおかしな話だが、わしの前垂れが糞尿でまみれたのにわしも腹がよじれるほど笑ったのだ

『赤子に名前をつけよう。皆はトンヌラとかゲレゲレとか好き勝手に口にしたが、ゆりかごに書かれていたDの頭文字をとってダインと呼ぶことにする。この子は今日からダインだ

『ダインにも困ったものだ。わしが直々に魔法使いにしてやるというのに木刀を振りまわしてばかりいる

『勇者とかいう四人組がデミルーンを訪れたが中身はとんだ偽物だった。ダインと皆できつくお灸を据えてやったが、本当は殺しておくべきだったのだろう。この島に怪物たちが暮らしているなどと、人に知られればめんどうになる。また新しいハンが現れて、魔王軍が召集されればデミルーンは戦場になるかもしれん。だがダインに同族の人間を殺すことを、仲間を殺すことを教えたくはない。悪いやつはこらしめる、それでいいではないか

『賢者アーベル・・・あの若者だ。忘れるはずもない、先代の魔王ハドル・ハンを倒した彼が今は王宮の官吏をしているという。わしにとっては仇なのだろうが、ハドル様は戦士として立派に戦い、アーベルは若者らしく堂々と剣で応えた。あの戦いをけがすことは許されない。アーベルは人づてにダインのことを知ったらしく、島を訪れるとダインはこのままデミルーンで育てるよりも王宮で引き取ったほうがよいと言う。人が怪物と暮らしている、今はそれでよいがだからこそ怪物に偏見なく育ったダインを正しい人間として成長させるべきだと。わしはもう少しだけ待ってほしいと言った。アーベルの言うことは正しいとわしも思うが、どうせ子供は親もとを離れるのだから、今くらいは

『アーベルが連れていた子供、ポールといったか。ダインもあの子を見習って魔法使いを目指してくれたらよいのに

『いよいよダインが旅に出る。ハドル・ハン様が認めたアーベルの弟子になるのだから、わしは心から喜ぶべきなのだ。あの子には皆に好かれる不思議な魅力がある。デミルーンの怪物たちも、アーベルが連れていたポールやマールといった子供たちもダインとは仲良くしてくれるだろう。わしは何も心配していない。ただ寂しいだけだから、この紙切れにそのことを書いたらしばらく泣くことにしよう

『ついに魔王が現れた。新しい王は霞のハン、死のハンと呼ばれた大魔王だ。わしが仕えたハドル・ハン様はすでに亡く、ダインがいる人間の国と今さらことを構えたくもない。わしらは戦いを逃れたいが怪物は魔王に命じられれば逆らうことができない、そう考えていたがアーベルが島を訪れたときにデミルーンを巨大な破邪の魔法で覆ってくれていた。この島にいる限り、わしらは大魔王の影響を受けずに生きていくことができるのだ。ダインや人間を傷つけずにすむのだ

『勇者ダイン、大魔王ハンに挑む勇敢な少年を皆がそう呼んでおる。いささか面はゆいが、わしはただダインが無事であればそれでよい。あの優しいエレオナ姫はダインを心から気づかって下さるそうだし、ポールやマールとは今も仲よくやっているそうだ。あのアーベルの弟子として、小さかったあの子たちが今では世界を救うために戦おうとしておる。デミルーンの魔法に守られているわしらはあまりに無力だ。怪物の中にも大魔王のくびきを脱して人間の軍勢で戦う者がおるというのに、わしらは島を出ればたちまち大魔王の兵士として友人にも家族にも襲いかかってしまうだろう

『戦いが終わった。ポールが泣いておった。ダインは帰ってこない。世界は救われた、だがダインは帰ってこないのだ。ダインが救ってくれたこの世界に、ダインがいないとは世の中はあまりに不公平ではないか。ああダイン

『ポールが泣きながら詫びたあとで、決して忘れぬようにとわしに言っておった言葉を思い出している。戦いが終わったらいつまでも島に残らず、ダインがそうであったように町で人と暮らすように、そうでなくとも人の近くで人と一緒に暮らさなければならないと。ダインの思い出が残るデミルーンを捨てろとは、何と無情なことを言うのだろうか。わしだけではなく、ダインの友人だった怪物たちにとってもこの島は皆が平和に暮らす最後の楽園なのだ。賢者アーベルがかけた破邪の魔法もあるのだから、わしらが人を襲い人と争うことはあり得ない。ポールとてダインを失ってつらいのだろう、おかしなことを言っても仕方がないではないか。今はせめてポールが持ってきてくれた、ダインの短剣がここにあることを感謝しよう

『デミルーンが燃えておる。皆も殺されてしもうた。島の木々は焼かれて錆びた鉄や塩が埋められて二度と使い物にならないよう念入りに壊されている。人間はわしらの仲間ではなかった、否、わしらが人間の仲間になろうとしなかった。島を訪れた騎士団の男は言っていた。伝説の戦いで大魔王ハンが現れたとき、テオやクルトバーンは自らの意思で逆らったがデミルーンの怪物は破邪の魔法がなければ人々に襲いかかっていただろう。わしらを押しとどめたのは魔法であって自制ではないし、破邪の魔法をかけたのも人間であって怪物ではなかった。
 魔王軍の支配を抜け出して、人間と対等につきあおうとした怪物は尊敬に値する。だがデミルーンにいる怪物は人間にとって魔王軍の同類でしかない。もしもまた別の大魔王が現れて、そのときに賢者アーベルがいなければわしらはためらわず人間に襲いかかるだろう。そんな連中の手を誰が握れるというのか。
 ポールの言葉が今さらわかっても手遅れだった。それはポールのせいではなく、彼に言われずともわしらが自分で気づかなければ意味はないのだ。テオやクルトバーンにはできたことが、わしらにはできなかった。ポールは彼に許された範囲でわしらにそれを教えようとしたのに、ダインを失ってつらかったろうあの子の心をわしらは無駄にしてしまった。右手に剣を、左手にたいまつを持った騎士団の男はわしらを蔑むように言っていたが、彼の言葉は嘘ではない。怪物は人間の友人になることができるがわしらは怪物でも人間でもない、命じられれば友人でも家族でも襲うけだものなのだ』

 日記はそこで終わり、包みをほどくと中には肘から手の先くらいまでの長さの、よく手入れされた短い剣が入っていた。それが当時のエレオナ姫から少年ダインに贈られた、ハイランドに伝わる短剣であることを老戦士は知っていた。

 デミルーンはかつて魔王軍の一員であった怪物たちが戦いを嫌って逃げてきた場所か、さもなければ平穏な暮らしをしているうちに戦いを嫌うようになった怪物たちの島だった。だが伝説の戦いよりも以前、デミルーンを訪れた老戦士たちは怪物の噂を聞いて海を渡っている。何も知らぬ人にとってデミルーンが怪物の島でしかないことを忘れるわけにはいかない。
 ダインが生きているうちはそれでもよかった。勇者ダインの生地に兵を向けることは勇者に剣を向けることであり、そのようなことができるわけがない。だがダインがいなくなればデミルーンは怪物の島に戻り、しかも彼らは大魔王が現れれば人間に襲いかかる連中である。島は破邪の魔法で守られているがそんな魔法がいつまで保つのか。ハイランドはダインがいなくなったデミルーンを放置できないし、それは魔王軍の残党狩りと何も変わらなかった。大魔王と勇者が倒れて世界が復興へ向かおうとしている中で、人間と手を結ぶことを拒否する怪物の島を女王ならずとも討伐せぬ理由はなかった。

 日記の最後の部分には書きかけて消した、鬼面道士ブルスがダインの親友ポールへ詫びようとした言葉の断片が残されていた。ダインが死んだ悲嘆の中で、ダインが死んだからこそ危難にさらされるだろうこの島に、遺品である短剣と警告、そして何よりも息子の死を伝えるためにポールはブルスを訪れたのだ。友人として育ての父に伝えるべき言葉を伝えようとした、そのポールの思いを受け取ろうとしなかったブルスには詫びる資格もない、鬼面道士はそう考えたのだろう。
 時間をかけて残りの羊皮紙に目を通した少年は、勇者ダインの伝説に語られることがなかった人々の思いを知り、三十年前から現在までを繋いでいる隠された道の存在にかろうじて手をかけることができる。女王エレオナがハイランドを築くために何をしたか、そのために何が必要で何が邪魔だったのか。帰ってこなかった勇者ダインの名を利用しなければ世界が救われることはなかった、少なくともハイランドの女王エレオナが世界を救うことはできなかった。

 女王が考案したシステムは中央集権により復興を進めながらそれを阻害されないように周辺を制圧し、発展の中で生まれてくる不穏分子には追放する場所をつくって統治の効率を最大限に高めること。世界を豊かな王都と貧しい辺境に分断したことは道義としては間違っているのかもしれないが、王都を復興させた後で少しずつ人を受け入れていくこともできる。少なくとも若い女王が存命のうちに救うことができる人の数は皆が思うよりもずっと多いに違いない。
 だが助けられる者を助けるためには、そうでない者は見捨てるしかない。勇者のいない女王にはその方法しかできないが、それに賛同できず、だからといって邪魔をすることもできずに隠遁したポールのような者もいた。見捨てられる者たちとともに生きることを選んだポールの選択はいかにも彼らしいが、女王にとっては今の段階で辺境の人間が自活して権利意識を強めるようなことがあれば王都の復興に悪影響を与えかねない。民衆が無知だからこそ栄えているハイランドは、未来永劫そうでないとしても今しばらく皆が女王と勇者の名に盲目的に従ってもらわなければならない。自分たちが犠牲の上に生き延びていることを、女王は知っているが民衆は知らないのだ。

 だから女王エレオナはポールを生かしてはおけなかった。ポールが愚かでただお人好しなだけの人間であれば、彼が辺境の人々とともに汗を流してやがて死ぬことを女王は止めなかっただろう。だが大魔導士ポールに彼の知識を隠してまで「人を助けない」ことができるわけがない。そしてポールの影響を受けた者が完成されすぎたハイランドに疑問を持ち、やがて疑問が抵抗を生んで対立から争乱に至ることは目に見えていた。ダインが生きていれば両者の間に橋をかけることができたかもしれない。勇者ダインは死ぬべきではなかった、だがそれは彼らの責任ではない。
 少年の目は三十年間の人の営みを眼前にあるもののように見ることができる。だが少年にとって重要なのは誰が先生を殺したのか、なぜ先生が殺されねばならなかったのか、その理由だけだった。


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