終章.リセット・ボタン


 白く輝く王都エレンガルドは、流血と怒号と悲鳴で赤黒く塗りつぶされようとしていた。銀の槍の騎士ヒュンケルトを倒した勇者ダインは大神殿にある最高司祭長マールをつぶれた血袋にして、理性を失った群衆を煽動して残された王城へ押し寄せようとしている。
 王都の各所では暴徒を鎮圧するために近衛兵たちが方盾越しに槍で突いてから重い矛で殴りつけると、頭蓋から血と脳漿をあふれさせて倒れた死体を乗り越えて次なる暴徒を盾で押しつぶす。鉄のたがを絞めるように揺るがぬ兵士の壁は群衆を締め付けていたが、ダインの奇跡に勢いを盛り返すと再び襲いかかる濁流と化す。一度足をさらわれれば甲冑の隙間から目やのどをえぐられて、鎧の上からでものしかかられて金属片になるまでたたきつぶされてしまう。クルトバーンに鍛えられた兵士が一人で十人の暴徒を相手にできたとしても、百人に乗りかかられれば重さだけで肩が砕け胸がつぶれて手や足はへし折られてしまった。

「クルトバーンに伝えなさい。不敬にも勇者ダインを騙る、叛徒どもの頭目を呼んで堂々と一騎打ちを要求せよと。もはや彼が非凡な人間であることを認めないわけにはいきません。ならば最大限の礼を尽くして、ハイランドが誇る最高の武人クルトバーンが彼を迎えるべきでしょう」

 王城の謁見の間で、マールの死に狼狽する伝令をたしなめるようにことさら落ちついた声色で女王エレオナは玉韻を下している。後手にまわった己の判断に後悔がないわけではないが、状況を把握して最善の判断を続ければ挽回は可能と思われた。叛徒どもはあくまで勇者ダインを仰ぐ旗を振り上げており、彼一人倒れればすべてが終わる薄氷の戦いを続けている。だがその一人がヒュンケルトとマールを倒したのであればそれを偶然や油断のせいにするわけにはいかず、力量を正当に評価して確実に倒さなければならなかった。鋼鉄の王クルトバーンであれば子供一人を殺すなど雑作もない、だがそう考えていただろう騎士団長と最高司祭長は子供を相手にして返り討ちにあっているのだ。
 策謀や小細工を駆使する、そのような者を相手にして最も有効なのはむしろ愚直なクルトバーンが得意とするような正々堂々とした戦いである。主君の意を得た鋼鉄の王は、勇者の広場に続く王城の正門をことさらゆっくりと開かせるとあふれかえる暴徒の目の前に威圧的な姿を現した。王城への道が開けたにも関わらず誰一人としてなだれ込もうとはせずその場に足を止める。門の中央に立つクルトバーンの威容は見えない巨大な壁であるかのように群衆の前にそびえ立ち、その姿にふさわしく人々の耳道を圧するわれがね声を響かせた。

「勇者ダインを名乗る者よ!貴様が本物の勇者であるか否か、鋼鉄の王クルトバーンが確かめてやろう!真に勇気ある者は武器と武器で語る。ものども、道を開けい!」

 城門の周囲に群がっていた暴徒たちが一瞬、その恫喝だけで我に返ったように静かになると鋼鉄の王に続く道を開きはじめる。暴動の影に潜んでその様子を見守っていたテオは低い舌打ちの音を禁じ得ない。圧倒的な力に裏づけられた正攻法をもって奇道を討つことが本来、戦いの最上であり弱い者はやはり弱いのである。十回戦えば九回は勝つ正攻法に対してわずか一回の好機をつくるのが奇道であるとはいえ、それを二回三回と続けるには限界があった。
 年若い少年にすぎぬダインが猛々しい鋼鉄の王の前に立てば大斧の一撃で細首を吹き飛ばされることは目に見えているが、出てこなければ彼は口先だけの臆病者でしかない。無責任な群衆が期待しているのはマールを倒したと同じ奇跡をクルトバーンにも見せてくれることで、奇跡は二度起こらぬとは誰も考えず一度できたならまたできるだろうと言ってのけるのが人間というものなのだ。

「LEMOR」

 夏至祭の高く強い日差しの下で、大きく開かれている城門の奥に、人間の手には余る大斧を軽々と手にした鋼鉄の王が横合いの風に身をさらしながら堂々たる姿を見せている。クルトバーンをよく思う者の中にも悪く者の中にも、この男が勇敢な戦士であり臆病と無縁であることを否定できる者はいなかった。

(さてどうしたものかね。勇者ダインよ)

 テオが知っている三十年前の勇者であれば、困難にもあえて立ち向かいそれが仲間たちに勇気を与えただろう。大魔導士ポールの弟子であるダインはどうするか、敵が用意した舞台に引きずり出されようとしているこの状況、だが視点を変えれば堅牢な城門が開いてハイランドを支えた英雄の最後の一人が現れたことはまたとない好機でもある。彼らの目的はヒュンケルトとマール、クルトバーンの三人を倒して群衆と女王を対峙させることであり、すべての柱を倒して王国の地盤を崩すことだった。
 突然、城門の周囲にざわめきと歓声が上がり、身を隠していたテオも正面に立っていたクルトバーンも何ごとかと首をめぐらせる。群衆が向けている視線は広場でも城門でもなく奥に入った王城の正面、普段は女王が群衆を相手にして玉韻を下賜するために立つバルコニーの上に集められていた。そこにはいつの間に姿を現した勇者ダインが右手に短い剣を、左手にはヒュンケルトの槍を掲げて彼自身が城の主であるかのように立っている。威風堂々たる鋼鉄の王を見下ろす勇者の姿は、眠りかけていた暴徒たちの狂熱を再び覚ますのに充分だった。

「勇者ダイン!貴様、なぜそこに!」

 思わず口をついた、それはクルトバーンらしい正直な言葉だがおそらく彼よりもよほど冷徹なヒュンケルトであれば言わなかったろう言葉である。視点を広場から城内を見る群衆の目に移せば、開かれた門の奥に立つクルトバーンの背後、バルコニーから見下ろすダインの姿はまぎれもなく少年を鋼鉄の王に勝る勇者に見せていた。戦う相手をおとしめるような真似はクルトバーンにはできないが、命がけで演技と手品を見せなければならないダインは鋼鉄の王が出し抜かれたと思わせるていどの演出は当たり前にやってのける。再び騒ぎはじめた群衆を鎮めるためにも、クルトバーンは勇者を倒すべく城に入らなければならなかった。駆け出した鋼鉄の王に続いて、開け放たれた城門から人々がなだれ込んでくる。
 群衆に押されるように走るクルトバーンだが、こしゃくな小僧一人を討ち取れば狂熱は冷めて暴徒どもを支える大義名分は打ち砕かれるだろう。それは女王エレオナが考える通りであり、忠実な近衛団長は主君の命令を果たすことだけに全身全霊を傾けている。最大限の礼を尽くして勇者ダインを堂々と討ち取る、たとえ相手が多少の奇術や小細工を弄したとしても非力な剣で鋼鉄の王の分厚い鎧と肉体を貫くことは難しかった。岩のかたまりに剣を突き出しても剣が折れるだけなのだ。

 無能だからこそ時として誰よりも頼りになる、それがクルトバーンであることを正しく評価していたのは獣王遊撃隊長のテオと女王エレオナその人だったろう。彼よりも強い者にとってクルトバーンはとるに足らない相手だが、彼よりも強い者など今やハイランドのどこを見渡しても存在しない。力で彼を傷つけられる者がハイランドには存在しない。
 ダインが城内に現れたならば、城門前の広場で行うはずだった一騎打ちの場所が変わるだけである。彼は崇拝する女王の命令に従うべく全力で王城に駆け込むと、目の前にまっすぐ続いている大理石の通廊を巨体に似合わぬ速さで駆け抜けた。通廊の向こうにある石段を上れば、そこには勇者ダインが彼を迎え討つために待ち構えているはずだった。たとえ非力そうな少年が相手でも礼を尽くして戦うべく、大斧を握る右手に無双の力を込める。

 その瞬間、全力で走るクルトバーンの目の前に何か細長いものが現れたと思うと彼のあごから脳髄までを貫いていた。

 石突きを階段に当てて支えていた、鋭い銀の槍が鋼鉄の王の突進によって大理石を削る不快な音を奏で、その所有者であるダインとともに魔法によって消えていた姿を現したときクルトバーンはすでに息絶えている。非力な少年の力で鋼鉄の王を貫くことができるはずがなく、ハイランドにそのような者がいるとすればただ一人クルトバーンだけだった。
 駆け出した鋼鉄の王に続いて城内になだれ込んだ人々が目にしたのは、勇者ダインが突き出した槍によって首を貫かれたクルトバーンの姿である。人々の目の前で、鋼鉄の王クルトバーンすらも討ち取ってみせた勇者に群衆はのどが枯れるほどの絶叫を上げるとハイランドを支える最後の柱もついに失われた。生命の糸が切れたクルトバーンの巨体が床に崩れ落ちるのと、爆発的な歓声が王城の壁を振るわせたのはほぼ同時のことである。

‡ ‡ ‡

 銀の槍の騎士ヒュンケルトは首級を取られ、最高司祭長マールは奇跡を起こすことなく潰されてしまい、鋼鉄の王クルトバーンは一騎打ちで倒された。ハイランドを支える三人の英雄を倒したのは勇者ダインであり、それは伝説の勇者が統一国家ハイランドを治める処女王エレオナを否定したことを意味している。

「クルトバーンも、倒されたか・・・」

 女王はつぶやくと一瞬、自失した姿を見せるがそれはまさしく一瞬だけのことだった。暴徒に蹂躙されている王都エレンガルドで、美しく気高い女王が座す王城は血と炎の大海に孤立する岩となっている。岩を支えていた三本の柱も崩れており、残された狭い足下に動乱の波が打ち寄せて玉座を濡らしはじめている。この期におよんで脱出や逃亡は不可能だが、誇り高き女王は最初から自分が不名誉な逃亡者として玉座を捨てることなど考えてもいなかった。
 ここに至ってエレオナが取りうる道はただ一つ、ダインを自ら迎えて講和し、彼の権威を認めた上でともに手をとって共同で国を治めることである。それは荒唐無稽に聞こえるかもしれないが実のところ最も賢明で現実的な選択肢であり、女王エレオナは圧政者だが暴君ではなく彼女一人の手で国が栄えていたという事実がある。彼女に罪をつぐなわせる方法は一つではないが、彼女がいなくなれば世界は繁栄を捨て去らねばならないだろう。

 女王の権限を大幅に削って政治的な改革を行い、奴隷階級に縛られたホープの人々を解放する。王都の人々にとってエレオナは厳格さが嫌われていただけで八つ裂きにすべき悪魔ではなく、世界に復興と繁栄をもたらした彼女を崇拝する者も決して少なくはなかった。彼女を処断すれば今度は彼女に同情が集まり、女王派とでもいうべき人々が生まれて新たな対立の火種が残るだけである。エレオナは人が思うほど地位には執着しておらず、ダインの伝説とエレオナの統治が記録として残ればそれで構わなかった。もともと彼女が望んでいたものは三十年前に失われて二度と帰ってこないのだから。
 勇者ダインが暴徒たちの先頭に立ち、王城の石段を上ってエレオナのいる謁見の間を目指している、その報を受けた女王は人払いを命じると自ら勇者に対することを決める。それはむろん賭けだが決して無謀ではなく、彼女の人を評する目には新しい勇者ダインは思慮深さと大胆さを兼ねたむしろ大魔導士ポールに近い人物だと映っており、このような人物を例えば賄賂や甘言で誘えば愚の骨頂だが、きちんとものの道理を説けば何が正しいかを理解させることができるだろう。

 女王が築いたハイランドの地盤は世界の隅々までを支えており、仮に今、女王が倒れれば中央集権であるハイランドの統制は失われて暴走した民衆が蜂起する中で神殿の兵士と近衛軍団、騎士団が対立して流血と破壊の宴を止める手段は長く失われることになる。反対に誰であれ女王の権限を譲られる形式をとれば彼女の組織と制度をそのまま利用して新しい世界の安定と安寧を早期になしとげることも不可能ではない。ダインが女王に求めるのは降伏であって処断ではないはずだった。

 大魔王と勇者が倒れて無責任に放置されてしまった世界で、人々は勇者のかわりにエレオナが自分たちを助けてくれるのだと信じていた。彼女がそれに応えてやった理由は今ではもう分からないが、それをしなければ世界は混迷の底に落ちて勇者の伝説ではなく悪夢の始まりとして人はダインの名を記憶したに違いない。あるいはエレオナもそこまで考えてはおらず、ただダインが助けようとした世界を彼のかわりに助けようとしただけかもしれなかった。
 けだものが暮らすデミルーンを討伐したことは誤りではなく、テオやポールを処断したことはやむを得ない。女王のただ一つの罪は階級制を敷くためにホープの無実の民を殺させたことで、これだけは弁解ができないと思っていたがその後は罪人以外をかの地に送り込んだこともなかった。罪も犯し犠牲も出たが、それなく世界を救うなどエレオナでなくてもできたはずがない。

 謁見の間に続く、磨かれた大理石の床に響く靴音がエレオナの耳に届くと女王は広間の入り口に立つ三十年ぶりの勇者の姿を認めた。その姿はダインのそれを模していたがエレオナ姫が知っている少年にはほど遠く、面持ちが似ているわけではないが表情はどこかポールやテオに通じるものがある。

「よくぞここまで参られた。魔法を使う勇者よ、ハイランドに何をお望みか」

 女王の所作はそのすべてが優美で格調高く、客人を招く指先にも口を開いた言葉の端にも人を圧せず人に媚びず、それでいて人を従わせる静かな威厳があった。滅びた世界をただ一人で、わずか三十年で救い出した彼女は尋常な存在ではなく、大魔王から世界を救ったのが少年ダインとエレオナ姫であることは数百年を過ぎた後の人間たちも認めるだろう。
 だがダインはエレオナの呼びかけに耳を傾けるでも、あるいは問答無用に襲いかかってくるでもなく謁見の間の入り口に立ち止まったまましばらく女王を見据えてから、言葉を交わすこともなくただ一言の魔法の旋律を唱える。

「MOSYAS」

 エレオナが見守る前で、勇者の姿は気高く美しい女王のそれに変貌を遂げた。そして鏡の向こうにいる彼女が宣告するかのように哀れみのある笑みを浮かべると、玉座を前に立つ女王をその場に残して悠然ときびすを返す。右手には勇者の短剣を握りしめたまま、恭しいほどに静かな、だが迷いのない動作にエレオナはダインの真意を理解すると得心したように深く息を吐きながら彼女の玉座に腰を落とした。

「そうか。勇者の望みは余を殺すことであるか」

 すぐにでも押し寄せてくる暴徒の群れに対して、女王の姿をしたダインは好きなように振る舞うことができるだろう。後は魔法を解くだけで怒り狂った人々が謁見の間になだれ込んでくる、それ以上の詳しい方法など聞くだけ無駄だったし説明する必要もなかった。
 勇者はすべてを理解した上で女王を殺し、その後ハイランドに訪れるだろう混乱も承知している。テオの組織や暴走した民衆、生き残った勇者もそれをまとめあげることなどできない。その上で彼はエレオナを殺さずにはいられない、ならばその目的は私怨以外のなにものでもなく、ただ個人的な事情で女王は殺されてしまうらしい。いっそそれもよかろうと、最後に残された玉座に女王は深く深く身を沈める。ここに座って以来、彼女が一人きりでなかったことなどない。鏡の中の女王は哀れんだ笑みを浮かべていたがそれは彼女に対してではなく、勇者と女王がこれだけのことをしても救えない人々の愚かさを哀れんで笑うのだ。あの少年なら孤独なエレオナと話をすることができたかもしれないが出会うのが三十年遅かった。

「余にできることはすべてした。後はあの世とやらでダインに文句を言うだけだ」

 そのときのエレオナの顔は三十年来見ることがなかった穏やかなものであったろう。自らを処女王として気高く美しい姿を保ち続けるために様々な措置を施さなければならなかった彼女はもう人知れず眉間にしわを寄せる必要もなくなった。三十年に渡って世界を統治した犀利な頭脳は彼女が若かったころのダインの記憶を浮かべていればよく、閉じたまぶたの裏には彼と二人で臆病なポールをからかった姿が映っていればよい。騒々しい泥靴の音を立ててなだれ込む群衆など、すでに彼女の意識にはなくこん棒でたたきつぶされて無惨なひき肉へと姿を変え、最後にこびりつた染みだけが残るころにはエレオナの時間は三十年の昔に戻されて女王など世界のどこにも存在しなかった。

‡ ‡ ‡

 大魔導士ポールの仇討ちのためだけに巨大な王国を滅ぼして多くの血を流し、人々を犠牲にした少年の旅はこうして終わりを告げる。三十年に渡ってハイランドを支えてきた柱はすべて倒壊し、ダインブルグの東西に分断されていた世界は煮えたぎる混沌に放り込まれて大陸には長く暗い死神の時代が訪れることになる。それが収まるまでにはこれまで以上に多くの血が流され、歴史と文明は大きく後退して人間が編み出した知識も技術のことごとくも忘れられる。だがそれは少年と人々が選んだ、時を止めてもう一度やり直すための安易な結末だった。

「どうやら終わったな。だが、始まるまで長い時間がかかりそうだ」

 女王の死とエレンガルドの陥落、そしてハイランドの崩壊を知ったテオは疲れたように息をついて首を振る。三十年前、大魔王ハンに支配されることを望まなかった人々が選んだのは自分の手で何一つなすことなく勇者ダインに助けてもらうことであり、ダインが倒れて後は自分は何もせずに女王エレオナに助けてもらうことだった。すべてがもとに戻されたがゲームを最初からやり直すことはできず、勇者や女王が引き受けるばかりで誰も流さなかった血は後代の人間がかわりに流すしかない。世界は平等ではないがそうであれば勇者など必要なかった。
 今度こそ魔王でも勇者でもなく、そして女王の手にもよらず人々は自分たちの手で自分たちを救い出さなければならない。そこでは大魔導士の操る魔法の技も勇者が掲げる伝説の剣も役には立たず、大地を掘り起こす梳や鍬が、獲物を狩る弓や網が、そして人と人が交わす銀貨や銅貨が生きていくために必要な道具となる。だがそこにたどり着くまでに掘られた流血の壕は深く、刀槍の塁壁は高く多くの犠牲を要求するに違いない。それは三十年前に勇者や女王に肩代わりしてもらったものだったのだから。

 王都エレンガルドはその名を冠した主を失い、かつて美しかった大理石の町並みは瓦礫と死体が転がる災厄の中心地となっている。目の前で繰り広げられていた破壊と放火と略奪の祭りはその狂熱も冷めかけていて、人々は今さらのように茫然自失として自分たちがしでかしたことに目を背けるか息をひそめて二度と現れるはずのない勇者の姿を探していた。
 勇者ダインを名乗る少年と彼を助けた老戦士は行方をくらまして、その後生きているかも混乱の中で死んだのかも知る者はいない。大魔導士ポールは自分の仇を討つために世界を滅ぼした少年を決して許さないだろうし、少年も師父に許しを乞おうとはしないだろう。伝説は魔王を打ち倒した勇者と世界を助けようとした女王の正義を語り、それを滅ぼした少年を大魔王ハンに勝る諸悪の根源として記録するかもしれない。そして最後にただ一人残されたテオドールがすべきことは、せいぜい人々が生き残って少年の悪事を書き残すことができるように祈ることである。

「もう手は貸さんよ。俺の手は一本しか残っていないんだ」

 見捨てられて生きていけないなら死ねばいい。だが理不尽な世界への怒りが残っている者がいれば、生き残って神様につばを吐きかけようとするだろう。それは数十年あるいは数世代後のことになるかもしれないが、今度こそ勇者も魔法使いもいない世界を人々は自分の足で歩くことができる。すべては終わり、伝説にも新しくはじまる苦い歴史にも居場所がなくなった鼠もまた彼が生きてきた薄暗い瓦礫の闇へ姿を消して二度と現れることがなかった。

 倒れたハイランドには自らを犠牲にして世界を救おうとした勇者と女王の伝説が残った。失われたホープには大魔導士の教えを受けた少年のささやかな知識と自由への欲求だけが残った。それがこの世界に何かを残すことができた、ダインとエレオナとポールの遺産である。


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