後に七日間戦争と呼ばれる、新生ゼノビア王国最後の戦いは戦端が開かれてから七日間に至る激闘を伝えていますが実際には戦いは包囲網が敷かれるまでに要した一ヶ月ほどの時間を経て、六日間の激闘と七日目の結末によって決着しています。古来より七という数字には神秘的な力があると言われており、それが脚色されて名づけられた事情は否定できそうにありません。
疾風軍団が壊滅して、カノープスが死んだことを伝えられた法皇トリスタンは一見して動じた素振りを見せず王都ゼノビアの守りを固めることを宣言します。ただ一人の支配者が動揺すれば国が揺らぐことは必定で、トリスタンにそのようなことは許されませんでした。
「王都には神聖騎士団が健在である。アヴァロンから雷光軍団を呼び戻し、ランスロットには補助軍を徴募させながら帰還を急がせよ」
王都ゼノビアは東北南の三方が街道と結節して西は港が設けられている交易の中心地であると同時に、長大な防壁に守られている難攻不落の城砦都市でもありました。雷光軍団と疾風軍団を立て続けに撃破した叛乱軍はすでに戦場から姿を消していましたが、寄せ集めの急増軍団でしかない彼らが力を誇示するにはゼノビアに戦いを挑み勝ち続けるしかありません。
この後、彼らが野盗の群れとして周辺を荒らしてまわれば厄介ですがその間に王国は軍団を再編することができて、逆に王都を目指してくれば迎え撃つのが容易になります。報告を聞いている限り彼らは奇道奇策に長けていますが、それにトリスタンが付き合う必要はありません。真理の間に座す、始まりの賢者の言葉を実践するトリスタンは彼一人に任された責務を果たすために堂々と振る舞います。
「人は奇道を好む、それは正道を知らぬ無知が故であるとはウォーレンも言っておる」
そのゼノビアに蟷螂の斧を振りかざしているカロリンは、勝利に意気上がる寄せ集めの急増軍団を率いて今は彼女に協力する商人に供された港湾地に宿営をしていました。トリスタンに思い違いがあるとすれば、叛乱軍の団結はカロリンの奇策と勝利によるものではなく彼女の真摯さに対して向けられていた、その事情を知らなかったことでしょう。
「近日中に王都に向けて出立します。道中の指揮はアプローズ卿にお願いできますでしょうか」
「本気ですか、と言いたいところですが聞くまでもありませんな」
達観した様子でいる「落ちた男爵」アプローズにカロリンは穏やかにうなずきます。王都ゼノビアは難攻不落で多くの物資と装備を抱えており、どれほど大軍を擁してもまともに攻略しようとすれば年単位の時間が必要になるでしょう。苦戦する間に背後から挟み撃ちにされれば壊滅するしかなく、迂遠でも追手から身を隠しながら各地での襲撃を繰り返して王国を疲弊させるのが得策ではないか、アプローズの意見は当然のものでした。
「アプローズ卿の仰るとおりだと思います。ですがもしゼノビアが損害を厭わずに王都の守りだけを固めれば、私たちはただ人々を蹂躙するだけの野盗に堕してしまうでしょう。ルッケンバインの協力でよしみを結んだ商人たちは、長期的な騒乱によって交易が妨げられることを決して望みはしないはずです。足もとを掘り崩しながら戦うことはできない、私たちの地盤はゼノビアの交易そのものにあるのですから」
カロリンの言葉にアプローズは納得せざるを得ません。まったく彼にすれば強欲な商人のご機嫌をうかがうなど腹立たしいことでしかありませんが、叛乱軍はその商人に助けられることで地に足をつけて立っていることができるのです。仕方なく心得たという表情になると、落ちた男爵は姿勢を正しました。
「よろしい、いずれにせよ私は貴女に従うつもりでいる。そして貴女が分散された敵の中枢を突くというのであればそれは策であろうと考えます。だがいずれにせよトリスタンは王都の守りを固めて援軍を待とうとする、それに如何にして対抗するつもりでいるかお聞かせ願いたい」
アプローズはカロリンの心中に策があることを疑ってはおらず、そうでなければ一介の巫女が国を相手に二度も勝つことができるはずもないでしょう。叛乱軍の勝利はゼノビアに対抗する者の存在を人々に知らせ、それは王国に不満を持つ者や単に先行投資を期待する者が協力する土壌となっています。あるいは迫害された信仰を取り戻そうとする者もいるかもしれませんが、カロリン自身は自分の信仰をもはや信じることができません。宗団は滅びてアヴァロンは蹂躙されて、ただの赤毛の娘でしかないカロリンは戦って勝つことによって人々を従えている。それがどれほどの苦悩を伴うかをアプローズは理解することができないでしょう。
話はしばらく続き、これから王都に向かうべき進路について幾つかの進言を行うと没落貴族は一足先に出立すべくその場を去りました。カロリンはひとつ息をつくと今度はルッケンバインを呼んで、精力的な冒険商人に労いの言葉を伝えます。金とスリルを公言する青年にとって、カロリンを助けることはその双方を存分に得られる境遇のようでした。
「人が財布のひもを緩めるには祭りが一番。そして祭りがもうすぐ終わりそうだと思えば出遅れた連中は更に金を惜しみません。今なら煽るだけ煽ればいくらでも欲しいものを用意させてみせますよ」
陽気で悪意のないルッケンバインの言葉に、カロリンは微笑んで彼女の要望を伝えると豪快な青年がさすがに鼻白みます。王都ゼノビアを一月は包囲できる資材と食料、それだけでも膨大な量ですがカロリンが本当に望むだけの「包囲」をしようとすればそれこそ町が一つ建てられるほどの物資が必要で、そんなものが容易に手配できる筈がありません。ですが若いルッケンバインはそれを無理だ、とは決して言わない人物でした。
「それだけのものを建てるなら人も雇った方が早いでしょう。そのぶん給料と食い物がもっと必要になりますがね」
金はいくらでも作ることができる、それがルッケンバイン流ですが食料は必ずしもそうはいきません。多くの人を長く雇えば麦を詰めた麻袋もそれだけ必要になりますが、ルッケンバインは買っても足りない分をいっそ周辺から集めれば早いと考えます。王都の周辺には当然ですが村や集落が点在していて、それぞれが穀倉地帯を持っていますが叛乱軍が王都を囲えば周辺は戦地となり畑は荒らされて収穫どころではなくなります。どうせ荒らされるなら叛乱軍が買うといえば、彼らとて冬を越すために首を縦に振るしかありません。どうせ断っても王都から年貢に取られるのがせいぜいで、それなら金に替えたほうがましというものでしょう。
叛乱軍と取引をしたといえば彼らも具合が悪いから、宗団の名前で麦を買いましょうとルッケンバインに言われるとカロリンは承諾してもう一度頭を下げますが、それは退出する青年に表情を見せないためだったのかもしれません。幼い頃から神殿に仕えた暁の巫女がどれほど信仰を蔑ろにしているか、カロリンは言いようのない恐ろしさを感じていますが後戻りができないなら倒れるまで走り続けるしかないのです。
「下されるべき罰があるなら、いずれ訪れるでしょうから」
叛乱軍が出立、王都に進軍を始めましたたとの報に法皇トリスタンは彼の玉座で一人思案します。アヴァロンに取り残されているアッシュと神聖騎士団長ランスロットが戻るには時間がかかり、他の将軍や指揮官はすでに誰もいませんでした。トリスタンは自ら王都にある神聖騎士団を率いるとアッシュには雷光軍団の帰還を促し、ランスロットには周辺都市から補助軍を徴募させて叛乱軍を挟み撃ちにするつもりでいます。
伝令からの報告では叛乱軍は宗団の旗を掲げて、当初思われていたよりもはるかに人数を増して王都への道を進んでいます。カストラート海での勝利とトリスタンの統治への不満の双方が彼らを助けていることは疑いありませんが、勝利とは所詮一時的なもので不満が存在しない世界は存在しません。滅ぼされたアヴァロンの生き残りが、宗団の旗を掲げるのも正当な行為ではあるでしょう。
「彼らは余に対抗するに大義名分が欲しいのだ。気の毒な者たちではあるが、愚かな者たちでもある」
トリスタンは軽く眉根を寄せると叛乱軍を哀れみます。どのみち数日が数ヶ月でも寄せ集めの軍勢に王都を陥落させることはできず、いずれ訪れる援軍を待てばことは決まります。トリスタンはランスロットとアッシュに改めて伝令を送り、王都の守りは王に任せて整然と軍勢を揃えて帰還せよと促します。今度こそ、この戦いを最後にして新生ゼノビアは不毛な争いから解放されることになるでしょう。
伝説の戦いが終わって後、忌まわしい疫病が国を害してから混迷する国を救うためにトリスタンは信仰の力を借りる必要がありました。新旧の宗派が割れていた本山は争いの原因になりかねず、王は旧派の太陽教を討つと残る新教も閉じさせて、彼自身がすべてを統べる法皇として君臨します。王権を脅かす古い信仰も英雄への崇拝もゼノビアには不要であり、皆がトリスタンに従うことで彼は国を救うことができるでしょう。
「非常においては非常の才が必要になる、ウォーレンもそう言っておる」
これだけ崩壊した国を建て直すには強権が必要で、ただ一人の人間がすべてを成し遂げた後で後継者に権限を分ければ健全な国が残ります。国を興すには英雄の力が必要だが、役割を終えれば凡庸な人間が歴史を綴る。かつて英雄を手にかけたトリスタンには自分がその境遇になれば従容と受け入れる覚悟すらありましたが、今は世界を救うのが先で尖塔の賢者ウォーレンが記した歴史を書き換えることはできません。
「そうだ、ウォーレンも言っていたではないか・・・」
進軍を続けている叛乱軍の目論見は可能な限り物資や人員をかき集めて、援軍が来る前に王都を陥落させてしまうことです。宗団の旗を掲げている人々は実際には迫害された神殿の者だけではなく、旧ゼテギニア帝国の貴族やその家の人々、叛乱軍の勝利に惹かれた無鉄砲な若者たちやルッケンバインに雇われた兵士や工夫たちも含まれていました。
「うちは兵士は素人ですが工夫はベテランを揃えましたよ。仕事が終わればいなくなっちまう連中ですがね」
「構わん、大勢いても食い扶持が増えるだけだ」
「まったくです。何しろその食い物を用意するのも俺なんですから」
冗談に混ぜ返しているルッケンバインですが、無茶としか思えない仕事を強引に成功させてしまう働きぶりにはアプローズも舌を巻くしかありません。まったく、滅びたゼテギニア帝国の貴族連中もこの青年くらい精力的なら彼らの境遇はもう少し違っていたのではないかと思いますが、ルッケンバインに言わせれば貴族も平民も関係なく自分で生きる甲斐性のない人間には生きる価値などないということでした。
「それは商人としての一般的な意見か?」
「さてね。商人だとか貴族だとか、それに暁の巫女だって俺にはどうでもいいことです。少なくともあの嬢ちゃんは自分の足で立ってますし、ついでにいえば落ちた男爵様もそうですよ」
「ついでに、か。褒められたと解釈しておこう」
寄せ集めの兵士と雇われた工夫たちの集団は王都に続く街道を進み、夕闇の帳が空に下ろされると街道を外れて簡易な陣営地で夜を過ごします。カロリンは夜半の天幕を出て、空を見上げると鋭い月が自分を貫く剣に見えて自分の両肩を抱きました。月が見下ろしている陣営地で、一人苛まれているカロリンに気が付いたアイーシャは後ろから静かに近づくと妹のような娘の肩に軽く手を置きます。暁の巫女はそれに振り向くでもなく、うなだれるように下を向くと呟きました。
「信仰なき者が宗団の旗を掲げて血を流そうとしています。私はもう暁の巫女ではありえないのに」
人々から聖母と呼ばれたアイーシャは、自分がたった一人の娘を救う言葉すら持っていないことを恥じました。たとえこの世界に全能の神様が存在したとしても、背教者だけは決して救うことができません。その深刻な矛盾を解決する方法は神よりも人の内にしかなく、カロリンを背中から強く抱いたアイーシャは彼女が伝えられることだけを伝えました。それが王都ゼノビアに至る、最後の夜のことです。
「貴女の行為が正しいか否か、それは私には分かりません。ですが私は、アイーシャは必ずカロリンを助けます」
翌日、王都ゼノビアの眼前に到着した叛乱軍は北と南と東にある三つの門前に陣営地を広げると後続する人々が次々と流入してその数を増しています。門の内側にはすでに兵士たちが割り振られていて、王都を守るに相応しい壮麗な鎧と剣の群れが集められていました。長大な城壁は崩すことも越えることもできる筈がなく、難攻不落のゼノビアが陥落するとは王ならずとも思えません。街道と港に面した交易の拠点でもあるゼノビアには蓄えられている物資も多く、数ヶ月が数年になったところで彼らに恐れる理由はありませんでした。
ゼノビアでは法皇トリスタンがこの際に叛乱軍をすべて処断、根を断って毒草を絶やすつもりでいることは明らかです。人民には布告を出して門の閉鎖と防衛を宣言すると、神聖騎士団員に加えて衛士や警備兵はもちろん消防団員までかき集めた数は叛乱軍を軽く凌駕するものとなりました。ですがすぐにでも門前から攻め込んでくるかと思えた敵に動きはなく、三つある門前の一つではルッケンバインとアプローズが言葉を交わしています。
「本当に、こんなことを呑気にやらせてもらえますかねえ」
「怖いなら急ぐことだな」
工事を率いているルッケンバインにアプローズが笑います。叛乱軍はルッケンバインが用意した大量の資材と工夫を駆使して城壁に囲われた王都を更に外側から囲う、長大な塁壁を築こうとしていました。王都は交易の中心であり、西の港を除く三方を壁で囲えば陸上からの往来は途絶えます。
塁壁はまず王都を囲う、深い塹壕を掘ると掘った土を壕の内側に盛って土手を築き、その上に人の背の三倍ほどもある櫓が建てられます。櫓は厚い板と屋根のある通廊で繋げて壁にすると、獣の皮や海水を染み込ませた土をかぶせて燃えにくいようにしてから逆枝や鉄釘、焼いて固くした杭を植えて人も馬も近づけぬ囲いが築かれました。それは突貫でこそありましたが資金と人員を惜しまずに投入された成果でした。
「王都には援軍を待つ備蓄も余裕もある。うっかり誘い出されて城内に侵入されるほうがよほど恐ろしい筈だから、彼らも嫌がらせに矢を射るのがせいぜいだろう」
「いやいや矢だって気分のいいものではありませんて」
とはいえ城壁から遠く射る矢が当たるものでもなく、みるみる塁壁が築かれると叛乱軍は更にその外側にも同様なもう一重の壁を築いて塹壕を掘りました。それが王都を攻めるための攻城壁ではなく、王都を封鎖すると同時に援軍を防ぐための防壁であることを城内にいるトリスタンはすぐに理解します。やがて王都を囲う二重の壁の間は叛乱軍が行き交うための陣営地と化していきました。
「成る程、奴らの腹積もりは分かった。悪くはないが愚かな考えだ」
叛乱軍が城砦都市である王都ゼノビアを封鎖した、その目的は包囲戦による攻勢を篭城戦による守勢に入れ替えることで戦いを優位に運ぼうとするものです。アヴァロンやカストラートでの戦いを思えば、自ら戦況を作ることで積極的に主導権を握ろうとする叛乱軍の手腕は認めざるを得ません。包囲されたトリスタンが状況を変えるには攻勢に出るしかなく、周到な準備をして篭城した相手を攻めることになれば危険を伴わずにはいられないでしょう。
「援軍が来れば我らも攻勢に出る、それは彼らの思惑に乗ることになる。だが乗ったと思わせて乗せることは軍略の最善であるとはウォーレンも言うところである」
トリスタンは叛乱軍の工事を多少の妨害をしただけで静観しつつ、王都の守りを固めながらランスロットとアッシュの援軍を待っています。敵に時間を与えるならこちらも充分な時間をかけて軍勢を用意できる筈で、すべてが揃えば総攻撃に移ることができるでしょう。
「そうなれば叛乱軍も死にもの狂いで応じざるを得まい、だが我らが死にもの狂いで攻める必要はないのだ」
まず援軍に背後から攻めさせて、耐えられなくなったところで王都からも攻勢をかける。戦いが本格的になる前に後退して再び援軍に背後を攻めさせる。これを延々と繰り返せば数にも物資にも限りのある叛乱軍がいずれ潰えることは確実です。熟達したランスロットとアッシュが補給を怠るとは思えず、王都は陸路が塞がれても港湾施設が健在で、補給は困難であっても不可能ではありません。そして港に面した倉庫には王都の人民を二年は養えるほどの膨大な物資が蓄えられていました。トリスタンにすれば王都を包囲した叛乱軍を逆に包囲して彼らが潰えるのを待てばよいのです。
「念のため、城門に近い倉庫にある物資は港に移しておけ。これは伝説のオウガバトルの終章である。余と共に戦う人民はすべて英雄として後代に名を残すであろう」
かつて赤毛の英雄と共に伝説の戦いを率いた法皇トリスタンは、その終幕となるであろう戦いに人民を鼓舞します。こうして二枚の壁を挟み、王都の城壁に篭るゼノビアと塁壁に隠れる叛乱軍がにらみ合うことになりました。互いの間では弓や投石、馬を駆っての小競り合いこそ幾度か行われますが、本格的な衝突は起こらず双方が壁を強固にすることに日を費やします。王都に蓄えられている膨大な資材は充分に足りていましたが、叛乱軍が揃えた物資の量も相当なものでした。
「よくも急造でこれだけの壁を築いたものだ」
左右を高い塁壁に挟まれた、叛乱軍の陣営地を馬を連れて悠々と歩きながらアプローズは呟きます。すでに工夫たちのほとんどが引き上げており、一月足らずでこの莫迦げた壁を築いたルッケンバインに感嘆するしかありません。叛乱軍を統括するアプローズにしてみれば、この塁壁のおかげで少ない軍勢を効果的に動かして王都を囲うことができるでしょう。感心する没落貴族の賛辞を受けると、彼らの陣営地を視察していたルッケンバインは足を止めて人好きのする笑みを浮かべました。
「ここまでが俺の仕事ですからね。戦いが始まれば商人の出番はありません、後はせいぜい男爵様に働いてもらいますよ」
「構わん。貴様はせいぜい赤毛の娘と陣営の奥に控えているがいい」
それが暗に彼らの司令官である、カロリンの護衛を頼んでいるのだということをルッケンバインは気づいています。左右を塁壁に挟まれている戦場のただ中にあって、安全な陣営の奥とやらが存在する筈がありませんでした。
伝説の戦いで滅びたゼテギニア帝国の没落貴族も、法皇トリスタンに迫害された宗団の者も、金で雇われた兵士も含めた寄せ集めの叛乱軍は暁の巫女カロリーナに従っており、未だ年若い身に重すぎる責任を背負わされたカロリンのために剣を抜くのも悪くはない。かつて伝説のオウガバトルで打倒されたアプローズと、ろくでもない父親を失ったルッケンバインは乾いた空を見上げます。
「今夜は、月が綺麗になりそうだ」
「まったくですな」
王都を囲う塁壁が完成して、最初の満月の明かりがゼノビアを明るく照らします。港湾の潮は大きく満ちて、係留された多くの船はその船体を休めていました。叛乱軍によって陸路が封鎖された王都では交易を港に頼っており、戦時のため制限がかけられてはいましたが最低限の流通を途絶えさせることはなく、小麦や油脂、資材の多くが係留された船の中と周辺の倉庫に蓄えられています。
その月明かりに照らされた海面を黒塗りの船団が疾駆して、急造された船体は黒い帆を順風に膨らませながらいざとなれば全力で漕ぎ進むべく舷側に櫂を掲げていました。船団の先頭にある船の更に突端に立っているのは叛乱軍を率いる「蛮人」ウーサーで、船の半数は荷の重さで海面に沈みかけて、半数は逆に船底まで浮き上がりそうなほどに軽快な様子でしたが熟練の船乗りが操る船は互いに速度を合わせて乱れがありません。
「風も儂らの味方をしている、後は目的を果たすだけだ」
黒塗りの船団は月明かりの下を矢のように進み、舳先に立っているウーサーは組んでいた太い腕を解くと灰銀色のあげひげをしごきました。
「暁の巫女は篭城戦では砦を捨て、海戦では船で挑まず、城攻めには船で戦おうというのか。面白い娘だ」
満潮に多くの船が繋がれている、ゼノビアの港の様子がウーサーの視界に入ります。月明かりを滑る黒い船団の姿に港湾警備の兵も気づきますが、ウーサーは気にした素振りもなく更に勢いをつけるべく船団を疾駆させました。小さな哨戒の舟が出て、勇敢か無謀にもはだかりますが勢いのついた船団を止められる筈もなく、ウーサーと船乗りたちはあらかじめ体を船に縛りつけるかしがみついています。
「全員、踏ん張れぇ!」
われがね声が夜空に響き、黒塗りの船団がゼノビアの港に次々と突入していきます。軽い船は港に乗り上げて付近の建物や倉庫にまで飛び込み、重い船は係留されている船に激突すると大破して大波が港を洗い、周囲には悲鳴と怒号が響きます。ウーサーの船団も修復ができぬほどの損傷を被りますが、すばやく港に降りると半壊した船に積まれていた荷材を海に流しはじめました。
それは先のカストラートでゼノビア船団が用いたような、水に浮き上がる尖らせた杭と水に沈む鉄釘を繋いだ鎖であり、または汚物を詰め込んだ樽でした。そして港に乗り上げた船では硝煙を含ませた藁に火がかけられて、周囲にはすでに黒い煙が立ち込めています。彼らの目的は港を占拠することではなく、封鎖することでもなく、利用不能なまでに徹底的に破壊することでした。混乱する港の様子は王城にいるトリスタンにも届けられて、夜半の凶事に王は声を高めます。
「何が起こっておる!何が起こっておる!」
トリスタンは決して油断をしてはいませんでしたが、目の前にいる敵と長大な塁壁そのものが港への襲撃から目をそらす派手な陽動であるとまでは気づませんでした。焦慮のままに夜が明けて、港の惨状に人々は声を失うしかなく、王都を支える港にはかつて船であったものの残骸が無残に漂い、隣接する倉庫は潰れて備蓄されていた物資は火をかけられるか瓦礫と汚物に埋まっています。異臭が流れている海面には鉄釘と杭を繋げた鎖が沈められていてもはや港として利用することは不可能でした。
月夜の惨状を演出した加害者たちは壊れた船に未練も見せず、積み込んでいた筏で逃げると叛乱軍の陣営地すでに合流しています。愕然とする王の背後に、積み荷を失った商人と蓄えられていた物資が失われたことを知った民衆が集まり出して刻一刻と人数を増していました。王都の倉庫がすべて潰えたわけではなく、未だ被害を受けていない箇所も多くありましたが人は危難に直面するよりも危難に直面したと思い込んだときに平静を失います。多量の物資が失われたという事実と、街道と港の双方が閉鎖されたという事実は未来の深刻な危機を人々に誇張して想像させるに充分でした。
「これが、彼奴らの目的か」
唇から血をにじませながら、トリスタンは叛乱軍の目的が王都を封鎖して補給を断つことではなく、補給が断たれたことを王都の民衆に知らせることにあったことを理解します。彼らは当初から苦境にあったのではなく、当初は順境にあったものが奪われたその落差に衝撃を受けずにはいられません。
「民衆を鎮めるのが先である。王都の備蓄は未だ健在であり、蓄えられている小麦を供出するが騒乱が起きている地区にはその資格を剥奪しても構わぬ。早々に布告を出して倉庫を開くとともに全軍に伝達、各隊を軍神の広場に集結させよ!」
ひと息に言い切るとトリスタンは愛馬のきびすを返して王城へと戻ります。人民を抑えるために、もはや攻勢に出るしかないことをトリスタンは知っていました。叛乱軍が掘った塹壕や植えられた罠、厚い塁壁を相手にして多くの犠牲が出ることを承知で彼らは出撃しなければなりません。その叛乱軍の陣営地では、帰還したウーサーたちが歓呼で迎えられています。
「恐ろしい娘だ」
アプローズの呟きには答えず、カロリンは意気上がる兵を更に鼓舞するべく聖剣と聖杯を手に取ります。彼女の象徴である赤毛をなびかせ、深紅の大布を外套のように羽織ったアヴァロンの総司令官は演壇に立ちました。
「港と隣接する倉庫が壊滅しても、王都の各所には未だ蓄えられている物資や食料が豊富にあるでしょう。ですが王都には多くの人々が暮らしています。補給を断たれて、あとは物資も食料も減るだけとなれば兵士は耐えられても民衆は耐えることができません。なぜなら王は人々に安全と食料の二つを保障する存在でなければならないからです。
王は民衆を鎮めるために、貴重な残余の物資を供出しない訳にはいかないでしょう。それは一時の熱を冷ますことはできますが、街道と港の補給が断たれている王都で民衆の不安が消えることは決してありません。そして物資を民衆に与えざるを得ない状況は、今度は兵士の不満を呼ぶことになります。彼らが守るべき人々が、彼らの苦労も知らず求めるままに貴重な物資を食いつぶしていくのですから。
王は早々に城を出て私たちを攻めざるを得ないでしょう。それは補給が断たれて物資が尽きるからではなく、民衆と兵士が割れてゼノビアへの忠誠を失うことを恐れるために。そして私たちはあの巨大な王都を攻略するのではなく、塁壁を守りながら彼らが潰れるのを待てばよいのです」
暁の巫女は軍勢を振り分けると「塔」と名付けた一軍をアプローズに、「力」と名付けた一軍をウーサーに、そして「審判」と名付けた本隊は聖母アイーシャや若いルッケンバインと共に自らが率いることを決定します。全軍を合わせた数は王都を守る兵士に比べてもずっと少なく、いずれ来る援軍を合わせれば比べるべくもありません。激戦地となるだろう南の正門にはアプローズの塔軍団を、東には本隊である審判が陣取って北はウーサーの精鋭が力軍団と共に守ります。
「各軍団は伝令を保つこと、どのような戦況になっても各所の哨戒は怠らないようにしてください。敵は包囲網を破るためにこちらの注意が薄い箇所を探そうとする筈です。
私は皆さんに古来からの神々の加護も、伝説の英雄の救いも望みません。ですが暁の巫女は必ず皆さんを助けます」
それはアイーシャがカロリンに告げた言葉でもありました。誰も信じていない神々や英雄の恩寵を捨てて、彼女たちは人間の手で奇跡を起こさなければならないのです。
本格的な戦闘が始まったのはその翌日、ウーサーの船団が港を破壊した二日後からでした。南の正門を守るアプローズと塔軍団はゼテギニア帝国の旧貴族を中級指揮官に据えると、同門故の統率力を活かして槍を掲げ剣を振るいます。
「伝説はゼテギニアではなくゼノビアが滅びることで終わる!彼らの終幕を見届けようぞ!」
叛乱軍を打ち破ろうとするトリスタンはもともと王都に篭り、背後からランスロットとアッシュが率いる援軍が到着したところで挟み撃ちにするつもりでいました。その意図はカロリンによって阻まれてはいましたが、援軍が到着すれば挟み撃ちにするという当初の目論見まで崩壊した訳ではありません。
「順番が変わっただけである。援軍が来てから攻めるのではなく、攻めながら援軍を待つだけだ」
トリスタンは強腰でそう言うと、北と南と東の城門に軍勢を分けて包囲網を打ち崩すように伝えました。狭い城門にすべての兵士を集めることはできず、一方で軍勢を分けても味方は多勢で一斉に襲いかかれば少数の叛乱軍は部隊を分散しなければなりません。一ヶ所が崩れればそこからなだれ込んで敵を蹂躙することもできる筈で、王都にはランスロットもアッシュもいませんが犠牲が増えて戦いがなし崩し的に大きくなるのを承知でトリスタンはすべての城門に兵力を投入しました。
「前進せよ!味方のためにただひたすら前に進め!」
無謀な前進を強要される最前列の兵士たちは大盾と兜で身を守りながら、一歩一歩押し出されるように城門を出ると塁壁へと進みます。叛乱軍は壁の前面に深い壕を掘って水を流し、塁壁にも壕にも地面にも逆枝や鉄釘や杭を打ち込んでいましたから、王都の兵士たちは次々と足を貫かれて叫び声を上げると後ろから迫る味方に踏みつぶされました。叛乱軍は塁壁の上から矢を放ち石を放るだけではなく、新しい鉄釘を投げて足の踏み場を奪おうとします。
城門前の狭い戦場で王都の兵はただ愚直に攻めるだけで、高い城壁と狭い城門が巨大な攻城兵器を妨げる上に、高い櫓を組んで敵が王都に攻め入る足がかりを作ることもできません。攻め続けて犠牲を出し続けながら結局は援軍を待つしかない、心中では誰もがそれに気が付いていましたから積極的に無駄死にをする者がいる筈もなく士気も勢いも強まりようがありませんでした。死体を踏み越えて壕に落ちながら塁壁に取りついても、降り注ぐ矢の雨と突き出される槍の林が彼らを迎えます。
「死体は壕の向こうに放り投げろ!倒れた敵でもう一つ塁壁ができるわい!」
あえて残酷な表現でウーサーが叫んでいる、叛乱軍も決して順境ではなく少しずつ埋められようとしている壕と崩されようとしている壁を昼夜なく補修しなければなりません。敵の援軍はすでに上陸すると王都ゼノビアを目指して街道を進んでいるらしく、遠く数本の烽火が叛乱軍にも見えるようになってその事実は王都にも知られていました。おかげで彼らが到着するまで争いは勢いを弱めましたが、叛乱軍は塁壁を直しながら背後の守りを更に厚くしなければならず休む暇など一時もありませんでした。遂に姿を見せ始めたランスロットとアッシュの援軍は、見えているだけで王都にいる全軍に匹敵する数に思えます。
「陣営地と攻城器の設営を急げ。準備ができ次第叛乱軍を覆滅する」
神聖騎士団長ランスロットの指揮によって、塁壁を攻めるための陣営地と攻城器が築かれます。塁壁の内側とは違って外側は戦場も広く、巨大な兵器を並べる場所にも欠きません。包囲軍はランスロットとアッシュの二軍に分かれると一方が東から、一方が南から攻略を試みます。状況は圧倒的にゼノビアに有利な筈ですが、港を封鎖されたトリスタンの軍勢が既に戦端を開いていたことが当初の予定とは異なっています。烽火は見えても伝令を送ることはできず、結局彼らは当初の目論見通り王都が呼応してくれることを期待しながら準備を行うしかありませんでした。
こうしてカロリンたちは内からは王都の、外からは包囲軍による攻勢に晒されることになります。合わせれば叛乱軍の三から四倍にはなるでろうゼノビアの軍勢は、互いに連携が不充分な欠点こそあれ塁壁のあちこちに攻勢をかけるとアプローズやウーサーも味方を割いて自分の戦線を守らざるを得ませんでした。
「第八砦に襲撃!第十一砦にも襲撃!」
「審判の本隊が向かいます!半刻耐えるように伝えてください」
総司令官のカロリンが率いている審判軍団は精鋭でこそありませんが、人数は最も多く何よりも暁の巫女がいるので士気は常に高くありました。王様でも将軍でも暁の巫女であっても、兵士を戦わせるには彼らが誰のために戦うのかをはっきりと見せなければなりません。深紅の大布と赤毛が風に煽られて、カロリンは指揮杖である聖剣を陽光にかざしながらたびたび兵士たちを励ましています。二度の戦いでゼノビアを打ち破り、三度目の戦いでも敵を追い詰めている暁の巫女を兵士たちは忠誠よりも信仰の対象として見ていました。
最も戦いが激しくなっている場所はアプローズの塔軍団が守っている南の正門ですが、東と北の攻勢も弱まる気配はありません。外側からはランスロットとアッシュの援軍が塁壁を叩き、叛乱軍も圧倒的な大軍を相手にして犠牲を出すようになっていましたが執拗に守り続けて突破を許してはいませんでした。本格的な戦端が開かれてから既に五日が過ぎようとしています。
「先人の犠牲の後に登ることができた山があるとはウォーレンも言っておる」
戦況が変わったのは六日目、真理の間にある信頼すべき賢者の名を挙げるとトリスタンは王都の兵士すべてを集めます。それまで互いに遮られていた援軍との間に、破壊された港から小舟を送ることで遂に伝令を送ることに成功するとトリスタン直々の筆で記された書状が渡されます。王都の動きに呼応して、塁壁の外にあるランスロットの補助軍とアッシュの雷光軍団もそれぞれが動き出しました。
双方が連戦による疲労と損耗を重ねている中で、ゼノビア軍は整然とした隊列を揃えて武器を構えると日の出とともにランスロットが南から、アッシュが東から、そして王都でも二つに分けられた軍勢が南と東の二方から出陣します。全軍の攻勢が二箇所に集中すると彼らは盾を頭上に構えた工兵を先頭に立てて壕と罠を埋めるべく前進し、獣皮を張った屋根のある移動通廊に隠れた歩兵がその後ろから続きます。
数日に渡る戦いで塁壁の各所は崩されかけて方々には火がかけられ、頭上から落ちかかる石や矢を浴びながら埋められつつある壕に通廊を渡すとその下を通った兵士たちが塁壁の根元にへばりつきました。内側と外側からの執拗な攻撃はいっそう激しくなり、それでも叛乱軍は耐えていましたが北門を守っていたウーサーの力軍団も仲間を助けるべく激戦地へと移動します。これがトリスタンの狙いでした。
「第三軍を出す!王の軍勢が戦いを決するであろう!」
法皇トリスタンが自ら率いる第三軍が、王都に残る残余の兵士すべてを駆って北門を出たのは正午ちょうどのことでした。叛乱軍がカロリンの姿に励まされるように、ゼノビアの兵士も戦場に出るトリスタンに鼓舞されると拳を突き上げます。悪戦していた戦いにようやく援軍が訪れて、王が直々に出陣すればいよいよ戦いが決するのも近いでしょう。兵数で勝るゼノビアはそれまですべての門に攻勢をかけていましたが、ここに来て叛乱軍を誘い出すと守りが薄くなった一ヶ所に攻めかかります。
北を守っていたウーサーの力軍団も全員が他に移動していた訳ではなく、守備隊が残されていましたがこのまま長く持ちこたえることはできないでしょう。ウーサー自身は早々に北門に戻り、本隊である審判からもカロリンが自ら北の戦線に向かいます。叛乱軍の動きが慌ただしくなったことは対峙するトリスタンにも分かりました。
「好機である!雷光軍団は兵を分けて南北に戦力を集結させよ!」
その指示はトリスタンの書簡であらかじめ伝えられており、雷光軍団を率いて東を攻めていたアッシュは軍勢の一部を北に、残るほとんどを南に振り分けてランスロットと合流します。南と東の二方向からの攻勢を北と南の二方向に変える、両者は端と端に分かれていて守るには遠く陣営を駆けなければならず、叛乱軍は北へ走りながら離れた南の正門を守らなければなりません。
これで勝てる、とはトリスタンならずともゼノビアの多くの者が思いました。南の戦線でアッシュを迎えたランスロットは叛乱軍の総司令官が北門に移動したという報告を確認すると、このまま司令官が欠けた敵を攻めるとして攻勢を強めます。それでも頑強でいる叛乱軍の守りに心中感心しつつ、いよいよ塁壁に近づきますが味方の勝利を督戦する彼らの面前でにわかに動揺が広がります。
「塁壁に叛乱軍の旗が、総司令旗が上がっています!」
塁壁の頂上、赤く染められた旗の下に赤毛と深紅の大布を翻している女の姿を見て彼らは我が目を疑いました。トリスタンが自ら出馬した北門を放置して、総司令官が南に現れるとはありえないとは言えずとも意外な決断です。実のところ、数で劣る叛乱軍の勝機はトリスタンを誘い出して直接打倒することだと考えていたランスロットは、だからこそ王の出陣そのもので主戦場である南門から敵は引き離されると考えていました。一瞬、集まった耳目に答えるかのように赤毛の巫女が宣言します。
「王は討ち取られた!ゼノビアは既に潰えたのだ!潔く軍を退きなさい!」
同時に塁壁から光り輝く鎧と法皇の外套が投げ出されると、泥下の壕に落とされます。ランスロットもアッシュも敵の奸計には苦杯を舐めさせられており、唐突な戯言を信じることはできませんが、そうであれば総司令官が北門に向かわずにここにいる理由は説明できるでしょう。奸計に長けた彼らがトリスタンが北門を出た最初の攻勢で王を捕らえ、すぐに南に転じることはできるかもしれません。何しろ彼女は雷光軍団を翻弄して疾風軍団を海に沈めた娘なのですから。
それにしても莫迦げている、そう思いながらランスロットとアッシュは攻勢をとどめると一旦軍勢を退かせます。包囲軍は数で圧倒しており決着を急ぐ必要は少しもなく、無謀に攻めて穴に落ちるよりも慎重に戦っていずれ叛乱軍が潰えるのを待てばよい筈でした。今日の攻勢は失敗するかもしれませんが、明日にも明後日にもやり直せばよいのです。
「敵の戯言に耳を貸す必要はない。だが虚言であれ臣下はまず王の身を案じるべきであろう」
トリスタンが死んだなどという世迷言を信じずとも、トリスタンの身を案じもせずに戦い続けるのは臣下の道に反する。その言い訳にランスロットもアッシュも兵士たちも飛びつくと、急ぐ必要もない戦闘を中止して陣営地に戻ります。もう一度王と書簡を交わすとなれば日はかかるかもしれませんが不可能とは思えません。
彼らは塁壁に囲われた戦況のすべてを見ることはできず、北端に分かれていた包囲軍にも戦いの中断と後退を伝えます。北門ではウーサーの力軍団が来援に駆けつけると審判軍団も遅れて到着していましたが、彼らの先頭にも総司令官の旗がなびき馬上には深紅の大布を翻した赤毛の娘が指揮杖である聖剣を振るっています。カロリンの傍らには彼女を守るルッケンバインと少数の護衛が従っていました。
「矢の的になる!後ろに下がった方がいい!」
「兵士たちも矢の的になっています!ならば私も的になるべきです!」
下がる場所などない戦場で、カロリンは誰よりも危険に身を晒してなお毅然とした姿を捨てません。兵士たちは彼らが生命を賭して戦う対象が自分たちのすぐ隣にいることを知ると一歩も退かずにトリスタンの軍勢を弾き返しています。南の戦線では赤毛に扮した聖母アイーシャが虚仮脅しで敵を欺くことができたとしても、味方を鼓舞できる者はカロリン本人しかいません。数本の矢が身をかすめても怯むことすらないカロリンは、味方を死地に赴かせる自分が怯えるなど許されないことを知っていました。
満を持して北門に打って出た法皇トリスタンは、叛乱軍の抵抗が思った以上に頑強なことよりも味方の援軍が一向に攻勢を強めた気配がないことを疑います。彼らも塁壁に阻まれた味方の様子を窺い知ることはできず、ランスロットとアッシュに書簡が正しく伝わったのかを確認することもできません。書簡が奪われたか改竄されたか、一時は相手の背後を脅かした援軍が勢いを減じていることこそトリスタンが無様に誘い出された証拠ではないか、新生ゼノビア王国ですべてを双肩に担うトリスタンが危地に晒されるなどあってはならないことでした。
「ランスロットとアッシュは何をしているのか!賊を背後から脅かすこともできぬのか!」
援軍はすでに全軍が退きはじめており、であれば彼らはトリスタンが誘い出されて無様な攻勢に出る恰好となっています。援軍は王を助けず、王は援軍を信じることができないままやがて日が傾き、破壊された港が闇に包まれ始めると遂にトリスタンは馬を返して城壁内に軍を戻しました。
しかし、ランスロットとアッシュはもちろんトリスタンも気が付いてはいませんでした。王都が包囲されて援軍が訪れて、いよいよ王が自ら打って出た戦いで彼らは兵を退くことになりました。トリスタンにはそのつもりがなく、ランスロットとアッシュはそれで構わないと思っていたかもしれませんが、王都にいる民衆の目には満を持して臨んだ決戦が王の退却によって幕を閉じた、戦いに敗れたという事実だけが映っていたのです。そして、彼らは補給が断たれたと思い込んでいる者たちでした。
六日目の夜が明けて、七日目の朝。
王都ゼノビアでは絶望に駆られた民衆が大規模な暴動を起こすと、彼らの王にして最高司令官である法皇トリスタンは人民の剣に倒れて城門はカロリンたち叛乱軍の前に開かれました。