ぱられるわーるど/ひなたで過ごす


 めずらしい生き物を見つけるということはめずらしい遊びを見つけることと変わらないのだと思います。たいていは家の外に、塀を乗り越えたむこうだとか茂みをくぐった中だとか、川の飛び石をわたった中州なんかにもそうしためずらしいものはあふれていますけれど、たまには図書館に並んだ本の中にそうしためずらしい遊びを見つけることだってあります。子供が本を嫌いだ、なんてのは本を嫌いな大人のかんちがいでしかなくて、元来好奇心が嫌うものなんてないのですから。
 ただ、本の中でも事典だとか図鑑だとか、知らないものがたくさんあふれている本のほうがより好きだと思うのは当然だったでしょう。そんな知らなかったものを、どこかで見つけることができたらなんてすばらしいのだろうと思いながら。

「今日はどこに行く?」

 本を読んだからそこに行こう、というのはあまり子供たちが考えることではありません。本で読んだだけの、まだ見たこともないものというのは子供にはあまりにも多すぎて、いちいち順番に探していく暇なんてないのです。その日は天気が良かったんで川に行こう、と女の子が言って、それで川に行ったときにたまたま図鑑で見た世界がそこにあることを子供たちはとつぜん思い出すのです。
 そしてそんな世界が魚の一匹であることだってありえるでしょう。一見、おんなじに見える魚にいくつもの種類があるということを、本が嫌いな大人の幾人が知っているのでしょうか。川や田んぼの用水路を泳ぐフナにいくつもの色と種類があるということ。本が嫌いで川にも田んぼにも行かない、大人は子供が知っていることを何も知らないでも平気でいられるものなのです。

「あ、キンブナだ」
「めずらしいなあ」

 キンブナとギンブナ、それからゲンゴロウブナがこの国にふつうに見られるフナですが、中でもキンブナは珍しくて30匹いたら1匹は金色、くらいに思われています。
 ただ、銀色の中にある金色が当たりというにはキンブナの金はずいぶん泥に似た色をしているのであまりありがたみはないかもしれません。コイに似た泥の色よりも、よく光る銀色は子供の目でなくてもきれいに見えますから。当たりというなら中には金魚のように赤い色をしたヒブナというものもいたりしますが、さすがにそんな魚を見かけるというのはそうあるものではありません。めったに当たらない当たりくじでは、飽きっぽい子供にとってはかえってありがたみが薄れるというものです。

「あれ、これは…?」

 少年の家にある物置からくすねてきた網かごを引き上げて、中に入っている小さな魚や貝の中に彼らがまるで知らない生き物がいるというのはめったにあることではありません。たいていはモツゴやモロコ、運が良ければ沼エビが入っていることもありますが、それでもときには奇態な生き物がまじっていることもあるでしょう。
 それはモツゴによく似た小さな魚で大きさは大人の指くらい、クチボソとも呼ばれる細い顔もよく似ていましたが、太い縦じまが一本身体の横に入っていました。魚の縦よこのしまというのは頭を上に、しっぽを下にして横むきになっていたら横じま、縦になっていたら縦じまというのがふつうです。水草に隠れる必要のある魚のなかには横じまの魚がいることもたまにありましたけれど、縦じまの、背が白くて一本だけのしまがある魚というのはあまり子供たちの記憶にはありませんでした。何より魚の背中というものは、水面から見えないために黒くなっているものなのですから。

「縦になっておよぐのかな?」

 好き勝手な考えを語り合う、それも知らないものを探す楽しみのひとつです。つかまえた魚は持ってかえって、水槽で飼うこともありました。小さい魚は川に返すのが子供たちのルールでしたけれど、めずらしい縦じまのモツゴともなればそうした話は変わってきます。ポケットにねじこんでいたビニール袋に水と魚を入れて、その魚を持ちかえることにした少年は陽光に消毒した水に薬をいれて、魚を放しました。水道水は陽にさらす必要がありましたし、川の魚は薬にいれておかないと思わぬ虫がついてしまうこともあるのです。
 水草まで植えられた水槽で、泳いでいる魚はやっぱり縦じまでしたし縦になって泳いだりもしませんでした。けっきょく、その後何年もその魚は少年の家の水槽を泳いでいましたが、思い出したときにたまに調べる本の中にもその魚を見つけることはできなかったのです。

 縦じまのモツゴに似た魚、それがわりとめずらしいモツゴの亜種であることを知ったのは、少年の水槽から魚がいなくなってから何年か経ってのことです。縦じまの魚は水草に隠れるために縦になって泳いだりはしませんでしたが、川底を横向きに流れる水草に隠れるには都合がいいことを知ったのはそのときのことでした。

 それがどんなにかんたんなことであっても、思い出すのも、見つけるのもたいていは後になるものです。
 だからこそ、子供たちはいま見ているものをずっと覚えていようとするのですから。


おしまい

                                      

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