監察官カトー(Marcus Porcius Cato Censorius)
生没 前234年〜前149年
私的評価
統率B
知謀A
武勇B
政治B
魅力B
神君アウグストゥスが後の帝政ローマを打ち立てるよりも前の時代、共和制ローマに古くから続いていた伝統として、節度ある荘重さである「グラヴィタス」と社会に貢献する力量である「ヴィルトゥス」の二つは特に、人間の名誉ある徳性として人に讃えられていました。ネロの愛したギリシアの風俗文化が荘重さに欠けるとして皇帝には相応しくないと断罪される一方で、ヴェスパシアヌスがもたらした質実な力量が高く評価された理由はそれがローマ人の信じる名誉ある徳性でもあったからです。そして皇帝ネロの時代からは遡って250年ほども昔、共和制ローマの時代においてこうしたローマ人らしさを最も体現しながら、発展するローマを襲う洗練されたギリシア文化の波に対抗し続けた人物がマルクス・ポルキウス・カトー、後に大カトーと呼ばれることになる人物でした。
ティベリス河畔にある沼沢地につくられた古代ローマは建国当時、王を元老院が支える王国として始まりましたがやがて王が打倒されると、元老院が二名の執政官を選んで共同で統治にあたる共和国として発展を遂げました。カトーの家はローマ建国時にラテン人と融合されていたサビーニ人の血を引く家系であり、彼の父や祖父の代から軍人として武勲を立てていたと言われていますが、マルクス・ポルキウス・カトー自身は元老院では平民出の新人として迎えられています。共和制ローマでは国政を担う元老院議員が閉鎖的な貴族階級となることを避けるために、公共奉仕や軍団での活躍を行い名を遂げた者を積極的に迎え入れる制度があり、カトーもそうして迎えられた「新しい者」の一人でした。
マルクス・ポルキウス・カトーは頑健で鍛え上げられた肉体に赤毛と青い目を持った外見をしており、カトーの家名はその赤毛に由来するとも、抜け目のない力を持つものを示すカトゥスの語に由来してつけられたとも言われています。青年時代のカトーは17歳の頃にカルタゴを相手取った第二次ポエニ戦争、通称ハンニバル戦争に従事して戦場で重い荷を担ぎ、いくつもの戦いに参与して全身に無数の傷を負いました。身体を鍛え、軍務に従事する肉体を保つため以上には肉や魚を食べず、酒を飲むのであればいっそ水や酢を飲んだとも言われています。やがて戦争が終わり、故郷に帰ってからは自ら農地を耕して質朴な生活を営みながらも、知人に頼まれて法廷で論戦を行うことも度々でした。
そんな赤毛の青年カトーが政界に進出したきっかけはまったくの偶然によるものだと言われています。ある時、ローマの発展と拡大に伴う頽廃を憂いていたルキウス・ヴァレリウス・フラックスという老元老院議員がカトーの農地の近隣に居を構えました。洗練された文化を厭い、惰弱な風俗風習を忌み嫌っていたフラックスはカトーの評判を耳にすると、戦傷だらけの身体に粗末な服を着て畑を耕していた赤毛の青年をたいそう気に入ります。古来から伝わる「グラヴィタス」と「ヴィルトゥス」を体現し、嘆かわしい都会かぶれの風潮に対抗する後継者を求めていた老元老院議員は青年にローマ入りを勧めました。そしてフラックスの尽力によって政界に入ったカトーは公正な手腕と迫力ある弁舌によってたちまちのうちに財務官に法務官と顕職を保ち、やがて執政官や監察官へと名誉あるキャリアを重ねていくことになるのです。
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清廉で厳格なカトーの手腕はすぐにローマ人の知るところとなり、財務官の時代にはローマ最大の権門にしてザマの会戦でハンニバルを倒した名将スキピオ・アフリカヌスに従軍してリビアへ赴くと、スキピオが兵士に賜金を配る様子をまるでお祭り騒ぎのようだと告発して高名な将軍を堂々とローマに召喚します。自ら軍団長としてヒスパニアやアカイアに向けて軍勢を率いた時にも兵士への配給は厳格に守り、戦勝時に報酬を与えるときでも自らの取り分は気にもせずに「儂は金を競うなら勇気を競いたい」とうそぶいたと言われています。
古来の美徳を重んじるカトーは家庭でも良き夫にして良い父であり、子供が産まれて妻が赤子を世話するときには常に傍らにあり、わかりやすいように大きな文字で歴史の本を書くと、自ら読んでこれを教えることもありました。奴隷や家財を厳格に管理していましたが、美しい奴隷よりも丈夫な奴隷を称賛する一方で役に立たなくなれば容赦なく売り払うといった即物的なところもあったようです。どれだけの顕職を歴任しようと高価な衣服にも豪奢な饗宴にも興味がなく、手に鍬を持って奴隷たちと並んで畑を耕すカトーの姿は他者の驚嘆の的であり続けました。彼の子も夭折こそしてしまいますが、勇気と厳格さを父からしつけられていた青年はマケドニアの王ペルセウスとの戦いで武勲を示すことになります。
カトーは彼を抜擢したフラックスとともに執政官を務めると、不品行な市民や元老院議員を数多く告発します。ギリシアからもたらされる奢侈品を抑えるべく、ぜいたく品に対する税金を十倍に引き上げようとしたり、その後監察官となってからも多くの反対勢力に憎まれながら強硬な改革や容赦のない厳格な取締りを推し進めました。もしもローマに悪徳がはびこったのであればこれを掣肘する必要があり、逆にローマが悪徳によって拡大したのであればここらで善行に立ち返っても良いだろうと言いながらわずかな不法も見逃さず、無断で引き込まれた水道を断ち、公有地を占拠する建物があれば平然と取り壊すことさえやってのけたのです。
ですがこうした強引な手腕で統治を行うカトーを人々は支持し、反対派も彼を告発することはできても追放や失脚させることは遂にできませんでした。カルタゴをはじめとする周辺諸国に対する戦勝による賠償金の受け取りや、国土の拡大に伴う交易の増加によって急速な繁栄と発展を続けていたローマにおいて、豊かさがモラルの低下をもたらしている中でカトーだけが正しいのだということを人々は認めざるを得なかったのです。カトーがフラックスとともに監察官に立候補をしたときも人気取り政策を唱える対立候補を後目に、ローマは厳しい医者による大がかりな粛正を必要としている、とまで説いた彼に市民は票を投じました。また、当時ギリシア語による学問が評価されていた時代にも、ギリシア嫌いのカトーは頑なにラテン語による「農業論」や「起源論」の執筆を行います。他にもカトーは対カルタゴ強硬論者としても知られており、シチリア島を越えた数日の距離に敗戦後も強国の力を維持しているカルタゴが存在する危険を吹聴して止まず、演説の最後には必ず「ところでカルタゴは滅ぼされねばならないのだが」と結んだことは有名です。カトーの意を受けた訳ではないでしょうが、その後カルタゴは第三次ポエニ戦争によって焦土となるまで滅ぼされると、かのユリウス・カエサルが再建するまでこの町の歴史は消滅することになりました。
と、ここまでに記されるマルクス・ポルキウス・カトーの生涯は彼の印象を気難しくて頭の固い、頑迷で反動的な老人のように思わせてしまうことでしょう。ですが実際のカトーは当意即妙の才にあふれた、陽気で豪快な毒舌家であって寸鉄人を刺す警句が議会で爆笑を誘うことすらしばしばであったと言われています。度を越した小麦の配給を求める市民に対した時の第一声では「さて、耳を持たぬ胃袋の皆さん」と呼びかけたり、怠惰な生活をしている政敵を蔑む時には「彼の母親が息子の有名を願うのは祝福ではなく呪いのようなものだ」と延べ、不品行な老人には「これ以上年と恥を重ねるのはおやめなさい」と嗜め、並外れて肥った騎士を指して「喉と尻と腹で出来た骸がどうして国の役に立つのか」と彼の馬を没収し、悪評高い男との論争に出れば「儂は悪口を述べる口とそれを聞く耳において君の足元にも及ばないが」と切り出しました。直截的で攻撃的なカトーの論調は常に多くの敵をつくりながらも、歯に衣をきせぬ言動と後ろ暗さのない態度は同時に多くの支持者をもつくりだしていたのです。
女性は家の内を、男性は家の外を守るというローマ古来の信仰を重んじるカトーは女性の政治参加に対しても批判的で、いわゆる活動家的な女性や文化的な女性たちから嫌われていたのはしごく当然のことだったでしょう。ですが彼が難詰する相手は女性よりもむしろ頼り甲斐のない男性諸氏に対してであって「儂らがきちんと政治を治めていれば彼女たちが家から出てくることはなかった筈なのだ」と同僚議員たちを叱責しています。心よりも口が達者な者とは親しくなれないと言い、軍団には略奪する手と逃亡する足といびきを立てる口は必要ないというカトーは昔ながらの健全さを誰よりも愛し、自ら実現し続けた人でした。このカトーの数少ない彫像は健全さを象徴する健康の女神、サルスの神殿に「国を正しく復しめたカトーの像」として納められています。
マルクス・ポルキウス・カトーが望んだ国家ローマの発展はあくまで国家ローマの健全な発展であり、洗練されたギリシア文化が自分たちのような田舎育ちの成金地主を頽廃させてしまうだろうことを当時、彼ほど予期していたものはいません。ギリシアに汚染されれば我々は滅びるとの警句を残し、ギリシアの哲学者や教師、医師らがローマを訪れた折りに若者たちがこれを歓迎する様にも、若者が若者である時代には弁舌よりも軍務を重んじるべきであると警鐘を鳴らしていました。
その後、カトーの意に反して国家ローマが洗練された文化によって発展していく様子を見れば、カトーの望みが単なる反動的な保守主義であって現実に相応しいものではなかったと評することはできるでしょう。ですが同時に、その後のローマが内包することになる社会不安は正しくカトーが懸念した洗練と富によって産み出されていくものであり、ユリウス・カエサルが共和制を破壊することによってのみようやく解決することができたことを思えばカトーの不安は的確に現在と未来を捉えていたとも言えるのです。後に共和派の大弁論家キケローが唱える古き良きローマの姿は、カトーが望んだローマの姿そのものでした。
発展と拡大を続けるローマ軍団がギリシアの方面に向けて出立し、美しい彫像や絵画や宝飾品を抱えて凱旋、人質として迎えられる洒落た容貌をした知識人たちに民衆が集まり心を奪われていく様を見て、カトーはどのような思いをしたことでしょうか。健全な毒舌家であるカトーを現すに最も相応しいエピソードとして有名な、公衆の面前で奥さんを抱擁した元老院議員マニリウスを告発した際に、彼が述べた演説があります。
「人前で女房を抱いていいのは雷が鳴っているときだけだ。だから儂らは雷神にして主神ユピテルを信奉する」
厳格さにユーモアを忘れなかったカトーは晩年になっても政界から身を引くことはなく、80歳を超えてなお多くの弁論や告発を行い、自ら訴えられることもありながら85歳までの生涯を現役であり続けたそうです。
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