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ルキウス・リキニウス・ルクルス(Lucius Licinius Lucullus)



生没 前118年〜前56年

私的評価  統率D 知謀A 武勇A 政治B 魅力C

 ポエニ戦役でカルタゴを下して後の共和制ローマは、東方ギリシアからオリエントへとその勢力圏を広げていくことになります。そしてマルクス・ポルキウス・カトーが警鐘を鳴らしたとおり、歴史と伝統あるギリシアの哲学や芸術に触れ、豊かなオリエントの富を目の当たりにした田舎育ちのローマ人がこれらに魅了されるまでに長い時間を必要とはしませんでした。富める者は地中海全域に到る商行為の拡大によってますます富み栄え、貧しき者は遠方に赴く軍役の負担が増してより貧しくなり、人々の間に富の格差が生まれると元々市民兵で構成されていたローマ軍団は兵役を厭う者と困窮する者の集まりになりさがって著しい弱体化が進み、国境に襲来する蛮族相手に連戦連敗という有り様に堕していきます。こうした窮状は後に登場する民衆派の首領マリウスによる、ローマの軍制改革が行われるまで続きました。
 マリウスの改革は徴兵制を志願兵制度に変えるというもので、これによって軍役のなくなった富裕者は商売に専念できるようになるとともに、貧民や無産の民は仕事と給与を得ることが可能になって、更に彼らが街道網や公共施設の工事を行うことで社会資本の充実を期すことにも成功しました。時代の要請に応えたマリウスの改革はローマが抱えていた問題を一挙に解決してしまいますが、それは同時にローマにおける軍団司令官の権威と権限が強化されるという副産物をもたらします。それは実力のある個人が台頭する時代の端緒となり、伝統ある元老院と新興の民衆派が対立する要因を生み出すことにつながっていきました。

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 ルキウス・リキニウス・ルクルスは独裁官スラの副官として、名将ポンペイウスと並ぶローマの司令官として活躍した人物ですが、彼の名を後世に残したのはむしろ引退後の豪奢な生活と食通ぶりによってであり、現代でも西欧でルクルスと呼べばそれは豪華な食事や饗宴の様子を指す言葉になっています。スラ没後のローマで、オリエントに東征を行い多額の戦利品を持ち帰ったルクルスは帰国後に公職を辞すと、各所に広壮な別荘を建てて蒐集した彫刻や美術品を飾り、学者や教養人を招くと彼らを囲って豪奢な生活を始めました。中でもその食通ぶりは有名で、史書によれば良質な食材を得るために私邸に牧場や農園を構えたり、庭に海水を引き込み魚の養殖を行ったとされています。料理だけではなく部屋の装飾や奏でられる音楽、招待される客人の選定や交わされる会話のテーマまでを含めたものが食事であると考えたルクルスは、一人の食事でさえも簡素なものを出されれば「今日はルクルスがルクルスを招いて饗宴を設けているというのに」と叱りつけたほどでした。
 ある時、ルクルスの同僚であったキケローが冷やかして曰く、何の前触れもなく押しかけたらルクルスの料理番だって軍隊あがりの質素な食事を出すだろうにと言いました。これを受けたルクルスはその場に居合わせたキケローやポンペイウスらを自宅に招待するとただ一言、今日はアポロの間で食事をとるとだけ伝えます。その夜キケローやポンペイウスが目を回した様子は史書に記されてはいませんが、このときの食卓には前菜から豪華な品々が並び珍しいチョウザメやウツボ、孔雀や七面鳥といった地中海各地の珍味が集められました。

 一回の食事が庶民の十年分の年収に匹敵したというルクルスの食事を歴史家プルタルコスは成金趣味と断じていますが、一方で彼はルクルスが自分の富をまるで未開の蛮人を軽蔑するかの如く散財していたとも記しています。ルクルスの食事はルネサンス期の絵画などでもその豪奢ぶりが伝えられ、キリスト教がローマの悪徳を断罪するための材料として用いられていますが、王侯にも匹敵するルクルスの洗練された衣装や会話、豪奢な装飾品や料理、深遠な会話や哲学の数々はギリシアやオリエントがローマにもたらした恩恵と発展の現れでもあったのです。文化人にして植物学者でもあったルクルスは桜や杏をヨーロッパに移植した人物でもあり、蒐集した蔵書を集めて私営の図書館をも設立しました。内乱や政争に明け暮れるギリシアやオリエントの貴重な書物や美術品が現代に残された、その功績の一片がルクルスに帰すことは疑いようのない事実だったでしょう。
 歴史上のルクルスは豪奢な美食家として、または私設図書館を建てた文化人としてその名を残していますが、一方で軍勢を率いる司令官としてのルクルスの名はあまり知られておらず、ポントスの王ミトリダテス六世を討伐しようとして果たせず、名将ポンペイウスに引き継いだ記録が残されるのみとなっています。ですがこのルクルスこそが当時、ポンペイウスのわずか半数の戦力でオリエントの諸侯軍勢を圧倒し続けた無敵の司令官だったのです。

 紀元前118年に生まれたルクルスは彼の上官であったスラに従い、第一次ミトリダテス戦役では海軍の編成を一任されています。この時期、民衆派の首領マリウスの手で国賊と指定されていたスラはルクルスを誰よりも信頼し、ルクルス自身スラを見限るよう民衆派に誘われても耳を貸そうとすらしませんでした。やがてミトリダテスを下したスラはローマへ帰参すると独裁官となりますが、ルクルスはその名代として戦役後のオリエントの統治を託されるとその地に残ります。スラが逝去した時には彼の著作である「回想録」を贈られ、遺言状の執行人にも指名されたスラ第一の忠臣は、混乱に乗じて再挙兵したミトリダテスを相手の第二次戦役に赴きました。当時ポントスではルクルスに先んじてミトリダテス討伐を図っていた同僚コッタが惨敗を喫していましたが、ルクルスは多くの戦利品よりも一人のローマ人を救う戦いへ赴くのだと言ってポントス軍を相手に連戦連勝、再びオリエントの平定に乗り出すと無法に収奪されていた属州民の借金を整理し、わずか四年で当地を復興させることに成功してしまいます。当時、スラの後継者に相応しいのは彼と若いポンペイウスの何れかであろうとは衆目一致の声でした。
 ですが混乱に乗じた高利貸しによって莫大な利益を手に入れていた周辺の商人や富裕層はその機会を奪ったルクルスを憎み、元老院に陳情すると彼の東方遠征への援助を断ち切らせてしまいます。突如支援を失い、オリエントの地で孤立したルクルスに向けてこれを好機と見たミトリダテスは隣国アルメニアの王ティグラネス二世を味方につけると十二万五千の大軍を率いて進発、ポントスとアルメニアの双方に対して軍を二分せざるを得なくなったルクルスはわずか一万五千の兵力でアルタクサタの平原に出ると、アルメニア軍に対峙しました。諸侯を率いて陣幕を並べた王ティグラネスは布陣するローマ軍を前に嘲笑して、

「講和を求める使節にしては威勢がよいが、戦争を挑む軍隊としては何と見すぼらしい連中か」

 ところがこのアルタクサタの会戦でルクルス率いるローマ軍団が完勝、アルメニアの戦死者十万に対してルクルス側の犠牲者五人という史上前例のない結末に終わります。ミトリダテスを相手にした時には持久戦で疲弊を誘っていたルクルスがこの時は速攻によってティグラネスを圧倒、その鮮やかさはポントスの援軍がたどり着く暇もないほどでした。その後も「戦えば必ず勝つ」ルクルスの軍は黒海を越えてカスピ海にまで到達し、その戦果は師匠のスラや当時海賊鎮圧に功を上げていた名将ポンペイウスにも劣らず、その踏破地点はかのアレクサンダー大王を彷彿とさせる遠方にまで及んだのです。
 しかし戦場において無敵であり、属州を統治する才にも恵まれていたルクルスですが彼の部下は英雄ルクルスに決して心酔せず、それどころか自分たちを酷使する司令官に対して常に不満を抱いていました。世界の果てへは貴方一人が行けばよい。戦場では自ら先んじて最前線に立ち、敵を前に勇猛で正々堂々と振る舞い、陣営では兵士とともに地面に眠るルクルスはそれでも兵士たちに人気がなく、遂に従軍拒否を起こされると一度も負けることのないままに撤退、第二次ミトリダテス戦役に決着をつけることができずにポンペイウスと交替させられることになるのです。

 ルクルスは紛れもなく政戦両略に通じた第一級の司令官であり、ローマ史上でも彼に並ぶ人物は数えるほどしか存在しないでしょう。道理を弁え、労苦を厭わず、甘言に耳を貸すこともなく、危地には平静な勇気を持って立ち向かう。そんなルクルスに唯一の欠点があるとすれば、それは自己を頼むあまりに彼の部下が背負う労苦を何らの疑いもなく当然と信じていたことにあるかもしれません。ルクルスは部下に報奨を与えて戦利品を国庫に納める一方で、蒐集した美術品や工芸品、蔵書の数々を兵士には価値が分からぬと没収し、司令官の当然の権利でもあるとして自らのものとしていました。ルクルスのおかげで貴重な書物や彫刻の多くが破壊されることなく後世に残されたのは事実ですが、ルクルスに従って七年もの間、最前線での労苦を強いられていた兵士たちはローマを遠く離れた地で十倍を数える敵を相手に武器を振るい続けていたのです。
 自らの才腕に自信を持ち、しかもそれがまったくの事実であったためにルクルスは部下に対しても自分に任せていれば問題はない、という以上の演説をすることがありませんでした。本国ローマからの援助がないままに、ルクルスは自分が得た膨大な戦利品を七年間、軍団を維持するために用いざるを得なかったのですが、誇り高いルクルスはそのことすら部下に伝えようとはしなかったのです。やがてルクルスは略奪を重ねて私腹を肥やす人物という悪評を立てられると、それを払拭することができないままローマに召還されました。そして誰にも歓迎されぬ凱旋式を催した彼は元老院議員としての議席を残したまま、事実上政界から手を引くとこれ見よがしの豪奢な暮らしを営むようになったのです。恐らくは、ローマ人民と元老院への幻滅を胸に抱いて。

 ルクルスが心酔したスラは独裁官となったとき、共和制ローマの理念と制度を守るために血生臭いほど強硬な手段でローマを支配すると民衆派を弾圧、元老院の権限を強化しました。スラ第一の忠臣であり腹心でもあったルクルスはスラの死後復権した民衆派に圧倒されつつあった元老院の手によって、オリエント征の援助を断ち切られると志半ばにしてローマに呼び戻されています。名将ポンペイウスの台頭を快く思っていなかった元老院は自分たちが呼び戻したルクルスを共和制再建の旗手とすべく迎え入れようとしますが、ルクルスにはもはや元老院の権威を守るために政界に残るつもりはありませんでした。彼が「未開の蛮人に対するが如く」軽蔑していたのは、果たして豪奢な生活と湯水のように費やされる財貨に対してであったのでしょうか。ポンペイウスがルクルスの後を引き継いだ第三次ミトリダテス戦役はほとんどが戦後処理のみであり、名将が手腕を発揮する必要もなく諸侯は降伏して大規模な戦闘も行われていないのです。
 教養高く、当時の公用語であったギリシア語もラテン語も見事にこなし、私設の図書館や庭園を開放して東方の文化を残したルクルスのもとには多くのギリシア人や、文化的なローマ人が集うサロンが形成されましたが、十年ほどの安逸な暮らしを経た後で誰からも心酔されなかった男はひっそりとした最期を迎えます。世はすでに「ローマが生んだ唯一人の天才」ユリウス・カエサルが主導する三頭政治によって支配されており、ガリア戦役が民衆を熱狂させている中で元老院はその民衆が支持するカエサルに対して自分たちの無力さを痛感しているばかりでした。

 ルキウス・リキニウス・ルクルスは自分の死に際して一つだけ、敬愛するスラが眠るマルス広場の近くに葬ってくれるように遺言を残しました。元老院が大勢を占めている時代であればルクルスのささやかな願いは叶えられたかもしれませんが、スラの墓近くに葬ることで遺灰がどのような危険に晒されるか分からないという家人の希望によって、ルクルスは彼自身の家の墓所に葬られることになります。恐らくはルクルスの唯一つの純粋な願いであったスラへの思いも叶わず、そのスラが強化し、守ろうとした元老院主導によるローマ共和制は以後、帝政へと移行するローマの中で二度と権威を回復することはできなかったのです。
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