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皇帝ティベリウス(Imperator Tiberius Julius Caesar)



生没 前42年11月16日〜37年3月16日
在位  14年 9月17日〜37年3月16日

私的評価  統率A 知謀B 武勇A 政治A 魅力E

 ティベリウスは民衆からも元老院議員からも等しく嫌われた皇帝でした。それはSPQR「ローマ市民と元老院」と呼ばれるローマ人民のすべてから嫌われていたということで、彼が20年を超える長い治世の末に死去したとき、民衆も元老院も喝采の声を上げたと言われています。タキトゥスやスヴェトニウスといった後代の歴史家は、このティベリウスを悪辣な暴君として扱っています。ですが、同時にそのティベリウスの手によってローマが強大になったことを彼らは苦々しく認めてもいるのです。
 血生臭いまでの手腕によって元老院の権限を強化したスラ体制の崩壊後、常勝将軍ルクルスや名将ポンペイウスらを担ぎ上げようとした元老院議員の願いも虚しく、彼らが主導するローマ共和制は「ローマが生んだ唯一人の天才」ユリウス・カエサルの手によって崩壊し、唯一人の独裁官によって統治される新しいローマが生まれました。そのカエサルの構想を受け継いで初代皇帝となったアウグストゥスが築いた、ローマの礎を磐石なものにしたのが皇帝ティベリウスです。後の皇帝ネロの時代に到るまで、公共設備が整い数多くの優れた人材を排出した軍政のシステムはその殆どがティベリウスによって整えられたものであり、少なくとも事実を曲げてまで彼が無能な君主であったと強弁する者はいませんでした。

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 ティベリウスはアウグストゥスの後を継いだローマ第二代の皇帝であり、かのイエス・キリストが刑死したときのローマ皇帝としても知られています。皇帝になる以前のティベリウスの本名はティベリウス・クラウディウス・ネロ、同名の父と母リヴィアの間に生まれた、数百年前からの名門貴族クラウディウス家の出自でした。ティベリウスの父が有名な「アントニーとクレオパトラ」で知られる、アントニウスの派に与したことで彼の家は反体制派として扱われていましたが、母リヴィアが当時のオクタヴィアヌス、後の皇帝アウグストゥスに見初められたことでティベリウスの人生は大きな変転を迎えることになっていきます。

 若いティベリウスはアウグストゥスに迎えられると、義父の片腕である勇将アグリッパのもとで弟ドゥルーススと二人軍務に従事して各地を転戦し、多くの功績を挙げてローマの最前線を支えました。規律に厳しく、兵とともに歩き、芝草に直に座って天幕もなしに平然と夜を過ごしたと言われています。若年寄と渾名されるほど分別があり内気で神経質なティベリウスに比べ、アウグストゥスに好かれたのは快活な弟ドゥルーススだと言われていましたが、その弟はゲルマニア戦役中に落馬事故によって若くして落命してしまいます。ティベリウスは早馬を飛ばして駆けつけ、弟の臨終に立ち会うと徒歩で葬列に従いました。
 おそらくティベリウスや亡くなったドゥルーススはアウグストゥスの二人の孫、ガイウスとルキウスの後見人として期待されていたのでしょう。それまでティベリウスはアグリッパの娘で気立てのよい優しい娘と評判のヴィプサニアと幸福な家庭生活を送っており、ローマの上流階級で貞淑な妻を持った男はそれだけで稀有な幸福者だと揶揄されるほどでした。ですがアグリッパが逝去するとアウグストゥスはティベリウスをヴィプサニアと別れさせて、自分の娘でありアグリッパの妻でもあったユリアと再婚するように命じます。上流階級の政略結婚が常であった当時、皇帝の血族、ユリウス家に連なる者となったティベリウスはあるいは幸運な者と思われたかもしれませんが、むしろ彼の不幸な人生はここから始まりました。道徳と風俗の引き締めを図ったアウグストゥスの娘としては皮肉なことに、奔放で無軌道なユリアはローマ中に誰も知らぬ者はないほどの浮き名を流します。ティベリウスが軍政を離れてロードス島に隠棲すると、あの不逞な奥方が連れ合いでは無理もないと人々は囁きかわしました。
 やがてアウグストゥスの孫であるガイウスとルキウスが二人とも夭折すると、アウグストゥスはティベリウスをローマに呼び戻すことを決意します。ユリアは姦通罪に問われるとアウグストゥス自らの手によってティベリウスと離縁、とうにローマから追放されていました。アウグストゥスはティベリウスを養子として後継者に指名、この時からティベリウスはティベリウス・ユリウス・カエサルと名を改めます。ティベリウスを養子に迎えるにあたり、アウグストゥスはある一つの条件を出しました。それはアウグストゥスの姉オクタヴィアの子である、若者ゲルマニクスを養子に迎えること。これはアウグストゥスがティベリウスを、ゲルマニクスが成長するまでの中継ぎ皇帝として指名したことを意味しています。ですが、常勝不敗の人とも呼ばれたティベリウスの軍才を高く評価していたアウグストゥスは彼を「唯一無比のローマの守り手」と評してもいました。

 次代の皇帝として指名されたティベリウスは、自らに与えられた役割を正確に理解していました。それはカエサルが構想し、アウグストゥスが打ち立てた新しいローマをより磐石にすることです。ティベリウスは単にアウグストゥスの軍政を継承するに留まらず、無意味な出征と出費を重ねて軍団壊滅の憂き目までを見ていたゲルマニア遠征を中断、蛮族相手の防衛線をライン川まで後退させることを決意します。かつて最前線にあり続けた皇帝は、アウグストゥス以上に戦争の事情に通じており無謀な戦争を不要と考えていました。ティベリウスはそのゲルマニア遠征に携わっていたゲルマニクスを呼び戻すと東方パルティアに派遣しますが、彼が現地で風土病にかかって急逝すると民衆はこれをゲルマニクスが大功を立てることを皇帝が妬んだ挙げ句に毒殺したのだと噂します。ゲルマニクスの妻で、後に皇帝ネロを産む小アグリッピナの母でもある大アグリッピナはこの噂を信じただけでなく、ゲルマニクスと同様に自分もティベリウスに殺されるとふれまわるとティベリウスの屋敷を訪れて私を殺すつもりだろうと詰め寄ったほどでした。無論、ティベリウスは姪の妄言をうるさそうに退けるだけで真面目に取り合いもしませんでしたが、浅慮なところはあっても勇敢で誰からも好かれた英雄ゲルマニクスの早逝が惜しまれたことは確かでした。
 早くに後継者候補を失いながらも、皇帝として公務に専念するティベリウスは財政を健全化するために多くの引き締め政策を行いました。「羊を殺して肉を食べるのではなく、毛を刈ることを考えよ」と言って無闇な増税こそ行いませんでしたが、皇帝主催の競技会や娯楽は完全に撤廃して人気取り政策には見向きもせずに民衆の不評を買っています。新しい建築や造営にもほとんど手を付けず、一方で道路や水道の補修といった地味な仕事を大規模に行っていることはティベリウスの統治に対する考え方であったと同時に、騒々しい娯楽に対して皇帝個人が反感を抱いていたことの現れでもあったでしょう。厳正と公正がティベリウスの治世を貫く方針であり、ライン、ドナウ前線で起きた兵士のストライキを受けても給与の値上げには厳として応じませんでしたが、先延ばしされることがあった満期除隊の実施はそれが兵力の不足に繋がったとしても厳格に執り行うように改めています。
 こうしてアウグストゥスから受け継いだ広大なローマを養うべく、ティベリウスは元老院に協力を求めますが、共和制末期に頽廃して久しい元老院がすでにその能力を持たないことを皇帝は痛感せざるを得ませんでした。就任を祝って元老院があげた政策は七月はユリウスの月、八月はアウグストゥスの月であるから九月をティベリウスの月とするべきでしょうかというもので、ティベリウスは曰く、十三代目の皇帝が即位できれば良いねと皮肉を述べています。ローマが洪水に見舞われた際もここはまずシュビラの予言書を照覧しましょうと進言する元老院を端目に皇帝はテヴェレ河の護岸工事と川底の浚渫を命じ、またある時、議員たちが論議に紛糾する様子に耳を傾けたティベリウスは、彼らが任地に赴くときに妻を同伴すべきか否かで長い論戦を繰り広げていることを知りました。それでいてティベリウスがこのような話題よりももっと国事にかかわる問題を討議して欲しい、と蛮族討伐の司令官の人選を委ねると皆が口をつぐみ立候補をする者もなく、それはティベリウスに一任しますと告げる有り様だったのです。

 元老院に信を置けなくなったティベリウスは騎士階級を中心に強力な行政官と組織を設けて自らの助けにすると、やがて風光明媚なカプリ島に別邸を建て、そこに引きこもりながらローマの統治を行うようになります。もとより家庭の安逸は失われて久しく、自ら構築した行政組織と、駅伝と郵便を駆使した通信網は皇帝が首都にいなくても広大な領土を統治することを充分に可能としていました。身分や出身を問わぬ積極的な登用を行い、地方や属州から優秀な人材を集めて、後に「ティベリウス門下生」とまで呼ばれる彼らの手によってその後50年以上もローマは安定と平穏を享受することになります。首都の治安強化のために近衛軍団の権限を強化したことは後のローマの禍根となりますが、それを除けばティベリウスに失政らしい失政は見あたりません。
 一部の歴史家はカプリ島に隠棲したティベリウスが屋敷中を卑猥な絵や彫刻で飾り、庭に少年少女を解き放って性的快楽に始終耽っていたと伝えますがこれは当時と後世の創作でしょう。スヴェトニウスの「皇帝伝」によれば、ティベリウスは広い浴槽に身を沈めると「私の小魚たち」と呼ばせた少年少女に股の間を泳がせては舌を使わせたと懇切丁寧に書き記していますが、今もカプリ島に残る美しい別邸跡からはそうした記録や痕跡はまるで見つかっていません。このカプリ島でティベリウスは完璧な統治を行い、災害対策や法案の提出、裁判の判決など皇帝としての日課も責務も滞ることは唯の一度としてありませんでした。首都にいずしてローマを統治してみせたのですから、面目を失った首都の民衆や元老院がティベリウスを非難したのも当然でしょう。共和派の元老院議員であったスヴェトニウスやタキトゥスは自らの著作でティベリウスを手ひどくやっつけています。

 ティベリウスはお世辞や追従を嫌い、自分に対する悪口雑言をむしろ歓迎して「自由な国家においては言論も精神も自由であるべきだ」と古代世界において宣言したローマ皇帝です。皇帝はローマの主権者である市民と元老院から統治を委託された者である、という建て前を彼ほど本気で信じた者はいなかったのではないでしょうか。そのティベリウスが自らを評して言った言葉が伝えられています。

「私を後世がどのように裁くか、不評も省みず国に貢献したと認められるであろうか。もしも認められるのであれば、それこそが私にとって私自身のために建てられる神殿である」

 ローマに尽くす、完全無欠の公人であったティベリウスですが、私人としての彼を伝える記録はごくわずかしか存在していません。長身で均整が取れた体躯に肩幅は広く、胸板は厚く、力は強く一本の指でリンゴに穴をあけることができたと言われています。見かけに違わず俊敏で、若い頃にはオリンピアの戦車競技に出場して優勝したことさえありました。酒が好きで、葡萄酒を清浄な水で割って飲むことが通例であったローマでティベリウスは水で割らずにがぶがぶと飲み「呑兵衛」とか「熱燗くん」と渾名されたと言われています。車や輿に乗ることを嫌い、どれほど峻険な坂でも自らの足で歩くことを好みました。学問を広く嗜み、ラテン語とギリシア語で演説を行うだけでなく詩文も書き、得意の天文学では本職の学者も及ばなかったとされています。
 カプリ島に隠棲した際にティベリウスは身の回りの世話を行う者を除き、身辺には天文や文学に通じた十人ほどの親しい友人たちを伴いましたがその中に女性は一人もいませんでした。ティベリウスはヴィプサニアへの思慕を生涯捨てることがなく、離別後に一度彼女を見かけたときもあわてて目を伏せただけで、以後彼女のもとに近寄らぬように自らを律しています。そしてユリアが追放された後になっても、ティベリウスは後妻を迎えることも側妾を置くこともありませんでした。自らを公人であることに縛りつけ、20年以上も唯一人でローマを支え続けた鋼鉄の巨人が美しい地中海を見晴るかすカプリ島の館に一人あるとき、誰の姿を心に思い浮かべていたのか。それをティベリウスが人に語ることは遂になかったのです。

 広大なローマのために。多くの人間を軽蔑しながら、同時に少数の人々を愛することを止めることができなかった人物。おそらく皇帝ティベリウスとはそのような人間だったのでしょう。
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