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皇帝ティトゥス(Imperator Titus Flavius Vespasianus)



生没 39年12月30日〜81年9月13日
在位 79年 6月24日〜81年9月13日

私的評価  統率B 知謀C 武勇B 政治B 魅力A

 鋼鉄の巨人ティベリウスは民衆からも元老院議員からも嫌われており、彼の後を継いだ皇帝の多くは、就任に際して自分はアウグストゥスやクラウディウスの統治を倣うと宣言することが慣例でした。ですがティベリウスの功績自体は当時ですら苦々しくも正当に評価はされており、かの「公衆便所皇帝」ヴェスパシアヌスも自分はアウグストゥスとクラウディウス、そしてティベリウスを倣うと宣言しています。その彼が創設したフラヴィウス朝は二人の息子に引き継がれていくことになり、そしてティベリウスがアウグストゥスを継いだユリウス朝の第二代皇帝であったように、ヴェスパシアヌスを継いでフラヴィウス朝の第二代皇帝となったのが兄のティトゥスでした。
 ティトゥスは幼い頃から最前線で軍務に携わり、皇帝となった父に従い父が死んでからは皇帝としてその後を継いでいます。ティトゥスが登極したとき、元老院も市民もこれを歓迎しましたがネロが倒れて後の内乱を終結させてローマに平和と寛容をもたらした、ケチで親しみあるヴェスパシアヌスと共にティトゥスが長く統治に携わっていたことをローマの人々は知っていたのです。市民と元老院の歓呼に応える三十九歳のティトゥスは精励恪勤の人であり、公正無私の人であるとも思われており、実際に自らそうあろうとし続けた皇帝でした。当時の人々からも、後世の歴史家からもすこぶる高い評価を受けることになるティトゥスの治世はですが、わずか二年でその幕を下ろすことになります。

 気の毒なティトゥスの短い治世は立て続けに起こった災害によって彩られています。皇帝として承認されてわずか二ヶ月後、8月24日には後世有名になるポンペイを厚い火山灰の底に埋没させることになるヴェスヴィオ火山の噴火が起こりました。急報を受けたティトゥスは自ら現地に向かうと陣頭指揮をとり、元老院議員から特に執政官級の人々を集めて復興委員会を設けると、食事をする間も惜しいとばかり被災地の支援に当たりました。更にその翌年には首都ローマを襲う大火が発生し、未だヴェスヴィオの被災地周辺にいた皇帝は度重なる凶事に「私は滅びたのか」と思わずもらしますが、時を無駄にせずローマに戻ると今度は富裕な騎士階級から大勢の現場監督を募り私財をなげうって建築や復興に精励します。
 多事多難なティトゥスの治世は紀元81年になると、イタリア近郊に蔓延した大規模な疫病によって更に多数の犠牲をもたらします。それでも皇帝は自ら罹災した人々の救援に当たりますが、数々の災害に献身的な対処を続けていたティトゥスは突然、病に倒れます。原因は疫病ではなく度を越した疲労ではないかとさえ言われていますが、静養に向かった故郷リエーティの温泉、父が亡くなったと同じ邸宅に身を移したティトゥスは復帰の見込みがないことを悟ると、弟ドミティアヌスに看取られながら失意のうちに息を引き取りました。

 享年四十一歳。皇帝就任時の慣例となっていた、市民への賜金の分配すら行う暇もないままに没したティトゥスですが、人々に尽くしたティトゥスの死に市民も元老院も例外なく嘆き悲しみます。平和を再復したヴェスパシアヌスの息子であり、ローマのために人為を尽くした最良の皇帝が失われたことに、人々は率直な悲哀と失望を抱きました。ですが皮肉な史家は言います。誰だって治世が短ければ最良の統治ができるさ、と。ただ実際にはティトゥスの治世は決して短いものではありませんでしたし、多くの人が思うように彼が公正無私な人柄によってのみ人々に慕われていたのではなかったことはあまり知られてはいません。

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 本名はティトゥス・フラヴィウス・ヴェスパシアヌス。長男として父ヴェスパシアヌスの家名を継ぎ、弟は母方であるドミティアヌスの家名を継いでいました。ティトゥスが生まれた当時、世は狂帝カリグラが治める時代で父は一介の騎士階級からようやく元老院議員に名を連ねたばかりであり、必要な資格資産を人に借りたという彼の家はごく貧しいものでした。暴政のあげく短命に終わったカリグラを継いだ「どもりの歴史家」クラウディウスの秘書官ナルキッソスに父が気に入られたこともあって、幼いティトゥスは皇帝の息子であるブリタンニクスの学友として教育を受ける機会を得ます。記憶力が抜群で学問に通じるだけではなく武芸や騎馬もこなし、詩や音楽が好きで自ら唄うことを好みました。速記が得意で人の筆跡を真似るのが上手く、後に自ら「私なら文書偽造の達人になれるよ」と吹聴したこともあるといいます。暖かい人柄で誰からも愛されていました。

 ですが父の考えによって若いティトゥスは安逸なローマを離れると、ゲルマニア最前線での軍団生活を送ることになります。古くからローマでは軍役を果たすことが市民の義務であり名誉でもあると考えられており、保護されるべき人々のために武器を取ることは文明に属す者の誇りとさえされていました。ちなみにこの思想は現代の西欧社会にも受け継がれており、金銭ではなく身を賭して最前線に赴くことが文明人の貢献であると考えられる事情は変わっていません。その後は父に従ってブリタンニアの戦線へ、そして北アフリカやユダヤの属州へと赴くことになりました。ティトゥスは真面目で勇敢な若者であり、父と離れても従っても任務に精勤します。小柄だが頑丈な体躯をしており、質朴な父ヴェスパシアヌスに外見まで似た田舎村夫然とした顔立ちをしていました。当時、ユダヤ一帯で起きた大規模な反乱を鎮定するためにネロに抜擢されたヴェスパシアヌスに従いますが、やがて弾劾されたネロが自死を遂げると世はガルバ、オトー、ヴィテリウスと続く内乱の時代へと突入します。
 新興の騎士階級であった父ヴェスパシアヌスは当初、自分が皇帝位を望むことになるなど夢にも思わずユダヤ最前線で待機していましたが、次々と皇帝が替わる中で動物ヴィテリウスが擁立されると彼を支持するライン軍団に反発したドナウ軍団兵の不満が爆発、ヴェスパシアヌスを皇帝に推挙しました。ヴィテリウスがごく簡単に排除されると一年に渡った内乱は終結し、以来ヴェスパシアヌスは皇帝として、ティトゥスはその父の後継者として扱われることになります。

 父がローマに向かっている間、ユダヤ戦役を引き継いだティトゥスはエルサレムの攻防戦を行い激戦の末これを陥落させると、今に残る有名なティトゥスの凱旋門を建立します。そのため現代に至ってもユダヤ人によるティトゥスの評価は悪くなっていますが、彼自身は残虐で過激な騒乱を起こしたエルサレムを討伐しただけであって、特にユダヤ人に偏見や敵意を持っていた訳ではありません。広大な地中海全域に広がるユダヤ人を排斥することもなく、高名なユダヤ人で当時エジプト長官として軍政に長く携わっていたユリウス・アレクサンドロスに心酔していましたし、反乱部隊の投降者であるフラヴィウス・ヨセフスとは長い友誼を結んでいます。何よりユダヤの王女ベレニケをティトゥスは心から愛し、終生その思いを貫きました。
 ティトゥスはそれまで二度結婚しており一度目の妻テルトゥラとは死別、二度目の妻フルニラとは離縁していましたが、これは古代では特に珍しい例ではありません。ですがいずれにせよティトゥスのベレニケへの思いが叶うことはありませんでした。オリエントの王女との色恋沙汰に、クレオパトラによるアントニウスの内乱を思い出したローマ市民がこぞって反対したのです。ヴェスパシアヌスの時代は内乱が終結したばかりの時期でもあり、それを想起させる記憶を市民は恐れざるを得ませんでした。競技場で市民の前に顔を出すティトゥスとベレニケの両者に人々は容赦のない罵声を浴びせると、皇帝の息子はユダヤの王女を送り返して以後二度と会おうとはしませんでしたが、代わりに他の女性に目を向けることもしなくなったのです。ローマ皇帝は市民と元老院に認められた者でなければならず、ティトゥスはいずれその立場を継ぐ皇帝の息子でした。

 ヴェスパシアヌスが皇帝となったとき、ティトゥスは父とほぼ等しい権限を与えられています。皇帝としての二年間の治世しか評価されないことが多いティトゥスですが、実際には帝位を継ぐまでの10年ほどの間、ヴェスパシアヌスと共にローマを統治して内乱後の復興に尽力していました。皇帝の呼び名である「第一人者」の呼称は父のものであり、軍団を率いる司令官としては父の次席として扱われていますが同格の執政官や監察官には就任しており、元老院決議への拒否権と肉体不可侵権とを持つ護民官特権も与えられています。温厚な人格者と思われているティトゥスですがその当時は父の影として振る舞い、冷酷ではなくとも冷徹な振る舞いが人々に恐れられ嫌われてすらいました。内乱時代にヴィテリウスに擁立された近衛軍団の兵士を入れ替えるために、降格人事であるにも関わらず長官の地位に就いたこともありましたし、旧ヴィテリウス派の議員を含めてかなり辛辣な方法で不平分子たちを処断、粛正しています。その中には執政官級の者もいました。
 ですが皇帝となって以後のティトゥスはそうした振る舞いを見せることなく、人が変わったかのように温厚で寛容な人柄を示します。健全で民衆に親しいヴェスパシアヌスを継いだ、そのティトゥスが示したのは「庶民皇帝」の姿でした。請願や会見に訪れる人々に対しては「どんな人も私と会って落胆すべきではない」と公言していましたし、人に何も与えなかった日は一日を無駄に過ごしたと嘆くほどでした。平穏な治世が続きローマの経済力が好転していた事情があったとはいえ、前皇帝時代の恩典は通常、皇帝が替わる際には引き継がれないのが慣例でしたがティトゥスはそのすべてを追認しています。災害対策に追われていたにも関わらず首都ローマに有名なコロッセウム、フラヴィウス円形劇場を落成させるとこれに接したティトゥス浴場と呼ばれる公共施設も設けて盛大な剣闘士試合や模擬海戦を主催、本国だけではなく属州にも目を配って街道網や水道の修復工事も行いました。元老院に対しても皇帝法に守られながらも、父と同様に元老院を弾劾しないと宣言するだけではなく、他者を死に追いやるくらいならば自分が死ぬほうがましだと誓い、偽善的なほどの「ティトゥスの善行」は人々の熱狂的な支持を受けています。

 常識と現実を知るヴェスパシアヌスの治世で、長く父の影として務めていたティトゥスは自らの行為が人に与える印象と影響とを若い頃から知っていたのでしょう。古代ローマ以前、ギリシアにおいて偽善は政治に必要な徳性であるとさえ考えられており、ティトゥスの示した善行が例え偽善であったとしてもそれは疑いなく人々が望む皇帝の姿だったのです。かつて神君アウグストゥスが共和制を懐かしむ人々に彼らが望む姿を示しながらローマ帝政を創設したように、皇帝法で明快な権威と権力を定めたヴェスパシアヌスやティトゥスも親しみある庶民皇帝の姿を捨てていません。
 反乱を図った議員に説得と翻意を促し、市民とともに浴場で身体を洗い、剣闘士試合では観客の一人として熱狂してみせたティトゥスは短命だからこそ良き皇帝であったのではなく、完璧な偽善によってローマを平和と安寧に導くことができたからこそ良き皇帝だったのです。それを望む人々に良き皇帝の姿を示し続けたティトゥス・フラヴィウス・ヴェスパシアヌスがわずか二年の統治の後、病に倒れて故郷のリエーティにあるとき自らの死を悟って失望とともに漏らした言葉が残されています。

「なぜ私が死ななければならないのか。私はただ一つのことを除けば、悔やむほどの悪行は何もしなかったというのに」

 その一つとは何であったか、ティトゥスは最後まで語ることなく息を引き取りました。最も良き皇帝であろうとしたことを除けば、何一つ悪行をなさなかった皇帝ティトゥスの統治は確かにごく短期間で終わっています。ですがヴェスパシアヌスにティトゥス、ドミティアヌスと続くフラヴィウス朝を経て史上有名なローマ五賢帝による繁栄の時代が訪れる、黄金時代の基盤を造り上げた功績の一つは紛れもなく「偽善者ティトゥス」のものなのです。
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