皇帝ドミティアヌス(Imperator Titus Flavius Domitianus)
生没 51年10月24日〜96年9月18日
在位 81年 9月14日〜96年9月18日
私的評価
統率B
知謀B
武勇D
政治A
魅力D
不評を省みず、国に貢献することを志した「鋼鉄の巨人」ティベリウス。自分はあえてそのティベリウスに倣うと宣言したローマ皇帝がいました。早逝した兄ティトゥスの後を継いだ皇帝ドミティアヌスであり、ローマ史上でもネロやカラカラ、コンモドゥスに並ぶ暴君の一人として数えられている人物です。かのティベリウスの「小魚さん」を記したスヴェトニウスやディオン・カシウスの筆によればドミティアヌスは残忍非道で狡猾、慢心が強く言葉でも態度でも自制心を欠くとされています。趣味は鉄筆でハエを突き刺すことであり、兄が病に倒れたときは身体に雪をかぶせてその死期を早めたとも記されました。すべての人から恐れられ憎まれており、愛人と同性愛者を抱えて元老院議員の多くを殺した皇帝。死後にはローマで最も不名誉な刑罰とされる「記録抹殺刑」に処されている、これほど悪し様に罵られる暴君ドミティアヌスとはいったいどのような人物だったのでしょうか。
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ティトゥス・フラヴィウス・ドミティアヌスは兄より十二ほども年下で、ティトゥスが父に従って各地の属州や辺境を転戦していた頃、未だ幼いドミティアヌスは当時の首都長官であった伯父サビヌスがいるローマで育ちます。紀元69年、内乱の帰趨とヴェスパシアヌスの勝勢が定まるとローマではヴィテリウス派の兵士による暴動が発生、ヴェスパシアヌスの兄サビヌスは若いドミティアヌスを連れてカンピドリオの丘上に建つ主神ユピテルの神殿に逃れました。歴史家タキトゥス曰く「破滅から目を背けて宮殿に篭ると食べて寝る以外は何もしない動物」ヴィテリウスには暴動を止める意思も能力もなく、カンピドリオは炎上すると混乱の中でサビヌスが殺されますが、ドミティアヌスは難を逃れて一命を取りとめます。この時暴徒に追われた体験が後のドミティアヌスにどのような影響を与えたかは定かではありませんが、冷徹な猜疑心と貴族的な品格を備える彼の心底には殺された伯父と燃え落ちるユピテル神殿の姿が存在していたかもしれません。
田舎村夫然とした父や兄とは異なり、ドミティアヌスは長身で気品があり洗練された貴族的な容姿をしていました。幼なじみを妾にしたヴェスパシアヌスや、ベレニケとの悲恋を諦めたティトゥスとは違ってドミティアヌスは名将コルブロの娘であるドミティアを妻に迎えています。浮気性との噂こそあれ、市民に広く知られて元老院も認める高貴な血筋のドミティアが皇后となることを人々は好意的に受け入れていました。モラリストで神経質なところもありましたが、飛ぶハエを鉄筆で突き刺せるならばむしろ卓越した動体視力の持ち主でもあったでしょう。「心優しいへぼ詩人」ネロほど度を超してはいませんがギリシア芸術を愛好し、内乱から復興したローマには優れた文化が必要だと考えていたらしいふしもあります。典雅で美しい若者でしたが後年には頭髪の薄さを気にしていたらしく、イリアスの一節より自分の頭髪を指して言う、彼のユーモラスな述懐が残っています。
「ああ若き日の戦士よ、お前が老いていく様を気丈に耐えなさい。いつかはお前にも、死は訪れるものなのだから」
父ヴェスパシアヌスが皇帝に就いたのは六十歳、兄ティトゥスが三十歳の頃であり、当時十八歳であったドミティアヌスは父が逝去すれば次は兄と自分の番であると考えていたでしょう。それはまったくの事実でしたが、父を継いだティトゥスの治世がわずか二年で終わるとまでは誰も考えてはいませんでした。もしもティトゥスが短命で終わることなく、もう十年二十年と生きていればドミティアヌスも皇帝の共同統治者として経験と実績を重ねていたに違いありません。ディオン・カシウスが書いたように死にかけた兄に雪をかぶせずとも弟は皇帝になることができましたが、むしろティトゥスの早すぎる死は後年のドミティアヌスの評価を決定づける、その一因となりました。
就任初日にそのドミティアヌスが言います、自分はティベリウスを統治の模範にすると。不評を省みずにローマに尽くす、ティベリウスに彼が望む皇帝の姿を見たことは確かでしょう。ですが神君アウグストゥスを継いだティベリウスが人に嫌われてもローマを磐石にすることを望んだように「偽善者ティトゥス」の後を継ぐドミティアヌスもまた、自分が兄のように慕われることのないことに気がついていたのではないでしょうか。父と兄の双方の役割を果たさねばならぬ皇帝には自分に代わって不評を受け入れてくれる存在はなく、また彼ほど熱心にティベリウスの回想録を読んだ者もいません。
ドミティアヌスは実力主義の皇帝で、彼を嫌う後世の歴史家でも人事の才は抜群であったと評しています。優れた人材を集めて顧問会を作り、スペインの地方出身であった後の皇帝トライアヌスを最前線のゲルマニア総司令官に抜擢もしました。優れた行政組織を設けて皇帝を補佐する、それはまさしくティベリウスが得意とした手法ですがドミティアヌスは思わぬ難題にも行き当たります。彼が模範とするティベリウスは、幼い頃よりアウグストゥスや勇将アグリッパのもとで実務を行った「唯一無比のローマの守り手」としての実績で人々を押さえつけることができました。父はブリタニア遠征やユダヤ戦役を遂行し、兄もその父から引き継いだエルサレム攻略を完成させている、そうした統治の経験や戦場の体験による、他者に示す実績がドミティアヌスにはないのです。にも関わらずドミティアヌスは兄のように自分を偽善で飾ることはできませんでした。
その彼が考案したのは自分を「主君」と呼ばせて正真正銘の玉座に座ることで、誰の目にも権威を明らかにする方法です。神ですら絶対的な存在でないローマでは帝政下でも本質的には独裁を嫌い、タキトゥスやスヴェトニウスといった共和派の元老院議員がただ一人の皇帝による統治を批判していたのは確かです。ですが彼らがドミティアヌスを批判したのはティベリウス以来の統治方法を貫いた故ではなく、皇帝の言行が独裁を感じさせたかそうでないかの違いだけでしかありません。また不評を省みずにローマに尽くす、ティベリウスの統治を宣言したドミティアヌスは彼本来の性格もあって風俗の引き締めも好みました。かつて大カトーも就いた監察官に終身の任期で就任すると法を厳格に執り扱い、裁判にも頻繁に足を向けています。姦通の罪を犯したヴェスタの巫女頭を古式に従って生き埋めにしたときは厳しすぎるという声も挙がりましたが、ドミティアヌスの治下で未成年者の売春や姦通、同性愛は激減しました。弁護士クインティリアヌスに命じて現代に残る教育論大全を書かせたのもドミティアヌスですが、教条的で風紀に厳しい皇帝が憎まれずとも人に煙たがられるのは仕方のないことだったでしょう。
厳格な統治を志す皇帝は特に属州総督の不正を人民が訴えた裁判には足しげく通っています。属州総督は元老院議員でもありましたから、彼が元老院に嫌われたのは無論でした。後にドミティアヌスの後を継ぐ、五賢帝の一人とされる老齢のネルヴァはドミティアヌスの監視制度を廃止しましたが、途端に属州での不正や風俗の頽廃が横行して賢帝トライアヌスによってすぐにこれらの制度は復活されることになります。そして元老院議員には嫌われたドミティアヌスですが、市民には厳格さを煙たがられても決して憎まれてはいません。この面では兄と同様に気前のよい皇帝は数多くの公共事業を行い、父が着工し兄が落成した有名なコロッセウム、フラヴィウス円形劇場ではローマ初となる夜間興行を開催、女性剣闘士も登場させています。
一方で皇帝にはゴシップという弱点もあり、先の皇后ドミティアを迎えるとき元老院議員アエリウスに嫁いでいた彼女を無理矢理離婚させていました。市民に批判されただけで生涯の恋すら諦めた兄と比べるべきものではありませんが、人に厳格さを要求したドミティアヌスが当人は好色だとの評判を立てられたのは気の毒であっても自業自得だったでしょうか。他にも多くの別邸を建て、ことにパラティーノの丘に広大な宮殿ドムス・アウグスタを建設したことも批判の対象とされています。皇宮と訳すしかない、それはですが私邸の一角に広大な行政府と来賓をもてなす設備が併設された、皇帝府と呼ぶべき代物でした。事実、ネロが望んだ自然公園はとうに解体されていましたが、ドムス・アウグスタは彼の後継者によって後々まで用いられています。至高の皇帝トライアヌスをはじめとして、後の五賢帝の多くはドミティアヌスの政策や建造物をそのまま引き継ぎました。
そして元老院には嫌われ、市民には煙たがられていたドミティアヌスですが軍団兵には慕われています。軍務経験もない、貴族然とした若い皇帝がそれまで据え置かれていた兵士の年給を上げたこともありますが、ドミティアヌスは長大なゲルマニア防壁を建設するとラインとドナウ両河川流域の防衛力の強化に着手しました。最も困難な最前線を足しげく訪れ、それを助ける防衛施設の建築を志して完成させた、兵士の給与どころか命を重んじたドミティアヌスが慕われたのは当然でしょう。ですが若い皇帝は軍務に関する識見はあっても優秀な指揮官とはいえず、ダキア蛮族を撃退できないまま弱腰の交渉をしたことが不興を買っています。また歴史家タキトゥスが敬愛する岳父アグリコラを、遠征中のブリタニアから呼び戻したことも批判の原因となりました。アグリコラは勇将でしたが独断が多く、ゲルマニア防壁の建設とダキア防衛の強化に専念するには他の前線に兵を送る余裕がなかったことは確かですが、これがタキトゥスによってドミティアヌスが手ひどく扱われる遠因ともなります。元老院に嫌われ、市民に煙たがられ、兵士には愛されていた。聖人君子ではなく偽善者にもなれないドミティアヌスがそれでもなぜ暴君とまで呼ばれなければいけなかったのか、それには明確な理由があります。それは皇帝が元老院に対する断罪権を用いたことでした。
ヴェスパシアヌスが皇帝法を定めて以来、元老院は皇帝を弾劾する権利を失っていましたが、逆に終身監察官となったドミティアヌスは元老院議員を断罪できる権利を手に入れていました。相手の剣を奪った以上は自らの剣も抜いてはならない。それを理解していた父はこの歳で皇帝になどなるからこんな苦労もする、と愚痴や不平を言っても元老院議員に自らは手をかけず、反抗者に対するのも近衛騎士団長であった当時のティトゥスに任せています。ですがドミティアヌスは後年、皇帝暗殺未遂事件の首謀者である反動派の議員を自ら粛清しました。仮に叛意が事実でも、ただ一人の武器を持つフラヴィウス朝の皇帝は元老院議員を断罪してはいけなかったのです。成文化されていても用いてはいけない法がある、偽善者になれなかったドミティアヌスはその現実に気が付くことができませんでした。行政を確立し、風俗の健全化に勤め、公共奉仕に勤しみ、兵士の待遇を改善した。そのドミティアヌス唯一の失策が元老院議員に手をかけたことであり、それによって皇帝の記録は暴君の記憶として残されます。市民や兵士は歴史を語らず、ローマの歴史を書き綴ったのは元老院議員でした。
史書は語ります。自らを神の如く扱い、人々を締め付けることを好み、淫蕩な生活をして豪華な宮殿を建てた暴君ドミティアヌスの姿を。ブリタニアは中途で放棄されてダキアの蛮族とは屈辱的な講和を結んだ、それが元老院議員である歴史家タキトゥスらがドミティアヌスに下した評価であり、そこにはただひとつの虚偽も記されてはいません。皇帝は死後に「記録抹殺刑」に処されると多くの碑文や文献も消されてしまい、彼のわずかな記録は、彼を記録抹殺刑に処した当人が記した言葉にしか残されてはいないのです。当時、ドミティアヌスが慨嘆して漏らした言葉がありました。
「皇帝とは哀れなものだな。暗殺されねば陰謀があったことすら信じてもらえないのだから」
その言葉の通り彼は暗殺によって四十五年ほどの生涯を終えることになりますが、暗殺の原因は親族の私怨によるものであり市民の反乱でも元老院によるクーデターでもありません。ですが突然皇帝が殺されたことを知った元老院は狂喜してドミティアヌスを弾劾すると、公式記録は消されて彼の建造物は後を継いだ皇帝ネルヴァの名で竣工、元老院による歴史だけが残されました。
それがローマ史上に残る暴君ドミティアヌスの正体です。偽善者にも鋼鉄の巨人にもなることができなかった、生真面目なモラリストの功績が歴史家たちに認められるようになるのは二千年後の現代になってからでした。
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