ティベリウス・センプローニウス・グラックス(Tiberius Sempronius Gracchus)
生没 前163年〜前133年
私的評価
統率B
知謀C
武勇D
政治B
魅力A
古代ローマ史でも改革者にして民衆の擁護者としての扱いを受けているグラックス兄弟。共和政ローマがカルタゴやギリシアを下して我が世の春を謳歌していた時代、市民の間に広がる富の格差や退廃した風潮に警鐘を鳴らし、護民官として平民の先頭に立って改革を試みますが志半ばにして非業の死を迎えることになった二人です。兄のティベリウスが弟のガイウスよりも九つの年長、グラックス家は平民から貴族となった新興貴族の家柄ですが、母方の祖父はかのハンニバル戦争で名だたる奴隷軍団を率いて勇猛に戦った人物であり父は執政官や監察官を務めて凱旋式を挙行した元老院の有力者でした。この父が英雄スキピオ・アフリカヌスが弾劾された裁判で彼を擁護したこともあって、スキピオの娘コルネリアと結婚して生まれたのがグラックス兄弟です。
母コルネリアは後に寡婦となってからも息子の養育に専念して、エジプト王の求婚すら断ったと言われています。教養ある人でローマ史でも賢母の一人に数えられており、今は台座しか残されていないとはいえ「グラックス兄弟の母コルネリア」として彫像を贈られたほどの女性でした。ギリシア文化に傾倒するスキピオ家から嫁ぎ、自らサロンを主催したというコルネリアの影響下で育てられた兄弟は心身ともに美しい若者へと成長します。
† † †
兄のティベリウスは代々グラックス家の長男に与えられる、父や祖父と同じティベリウス・センプローニウス・グラックスの名を持ちます。青年の頃から世間の評判が高く、温和で落ち着いた性格をして演説には品格があり、質素な生活や食事を好んだと言われています。ローマで若者の公務とされていた祭司職を務めていた折、当時のローマ第一の有力者アッピウス・クラウディウスに気に入られると彼の娘クラウディアと婚約することになりました。帰宅したアッピウスが娘の婚約を決めてきたと告げると、何も聞いていなかった奥方は「なにもティベリウス・グラックスが相手でもあるまいに」と憤慨したというエピソードが残されています。
その後、若きティベリウスは財務官として公職に就くとスペインに出立、現地の反乱鎮圧に当たっていた将軍マンキヌスの指揮下に入りますが、かつて父が統治を行っていたこの地でティベリウスは反乱した現地人にまで慕われました。当時のローマ軍は弱体化が著しく、マンキヌスも将才ではなかったのか戦いはローマ軍の敗戦となりますが、勝利した人々はティベリウス・グラックスを使節によこせば話を聞いてやると言ったものです。結局反乱は鎮まらず、後に英雄スキピオが乗り出すことになりますがティベリウスが反乱住民にすら親しくされたことは彼が帰国してから問題視されたほどでした。ですがこの時期、ローマに反乱が起こり鎮定に赴いた軍団が敗北した事実はティベリウスを深く考え込ませます。ハンニバルを退けてカルタゴを下し、ギリシアを制圧したローマがなぜ属州反乱すら鎮圧できないのか。なぜこのようなことが起こったのか。
この時期のローマは地中海世界の覇者と呼ばれるにふさわしい、領土拡大による隆盛の最中にありました。元老院と市民が治める共和政ローマはこの時期に自分たちをインペリウムと呼び、これがローマが帝国を名乗る最初となっています。帝国とは他の国々や民族を治める国のことですから、皇帝がいなくてもローマは帝国であり周辺諸国でもローマを帝国と呼んでいました。
それ自体はけっこうなことでしたし、ローマは急速な発展を遂げますが発展は同時に富の格差を生み出します。豊かで広大な征服地を手に入れた大農場主が登場すると、狭いイタリア半島に暮らしている農民は対抗できずに土地を手放す者が現れました。かつてイタリアで生産されていた小麦は輸入小麦に太刀打ちできず、気の利いた農家はオリーブやブドウ畑に鞍替えしますが、放棄された土地は荒れ果てるか別の農場主に買い取られてしまいます。農場主のほとんどは元老院議員か騎士階級の有力者でした。
他国から戦闘機械とまで称された、ローマの軍団兵は彼ら農民兵によって占められています。国を守るために戦い、天才ハンニバルすら退けたローマ軍団兵の中核が少しずつ土地を手放して貧乏になっていきました。ローマでは金持ちほど多く軍役に就き、貧乏人はこれを免除されましたがその貧乏人が増えれば兵士になれる者が減り、そうなれば兵士の質が下がるしかありません。気がつけばローマ軍団は弱くなってスペインの反乱すら鎮圧できなくなっていました。その後スペインに赴いた英雄スキピオも市民兵には頼らず、方々の支援者を呼んで人を集めると独自の軍団を編成してこれを率いたほどです。この状況にティベリウスは正義感と危機感の双方にさらされたのでしょう、前134年に平民代表の護民官に立候補すると人々を前にして
「国を守るために、家を守るために、祖先の土地を守るために戦えと言う。だが君たちは守る土地を持っているか?土地どころか土くれさえも持っていない君たちなのに」
と演説して人々の熱狂を受けました。それは時勢を見定め、人々の苦境を理解した言葉ですが元老院はこの演説に警戒心を覚えます。ティベリウス・グラックスはローマに忍び寄る退廃と混迷を退けるには、中産層を健全化して貧乏人を救出するしか方法はないと確信していました。
その護民官ティベリウスが提案したのが農地法の成立です。それは国有地の所有面積に制限を設けるというもので、大地主が土地を持ちすぎている場合は国がそれを買い取り、低額で民衆に貸し出すというものでした。貧乏人が土地を借りて耕す場合には農業が軌道に乗るまでの支援も国が行います。
元老院は程度の差こそあれこれに反発しましたが、彼らが指摘したのは土地の分配よりも支援のために金を配るのは行きすぎた援助であるという点です。現状を変える必要はあるだろう、だがその金は誰がどこから出すのだという元老院の主張はもっともでしたが目的が貧民や中産層の救済にあることを思えばティベリウスも退く訳にはいきません。護民官であるティベリウスは元老院とは別に政策決定権を持つ平民集会での可決を狙っていましたから、元老院はもう一人の護民官オクタヴィウスを懐柔すると拒否権を発動させて審議を阻みます。その真意は不明ですが、同僚で友人でもあるオクタヴィウスの反対にティベリウスは衝撃を受けました。それでもティベリウスは彼らしく品格を保ったまま声も荒げずこれを諭そうと試みますが、友人の説得を受けてもオクタヴィウスの意思は変わらず拒否権を取り下げようとはしません。
護民官の任期はわずか一年であり、焦りを感じたティベリウスは強行突破を決意します。それはオクタヴィウスの護民官解任決議を提出することで、民衆を擁護することを忘れた護民官は護民官にふさわしくないというものでした。投票が行われてオクタヴィウスは解任、反対者がいなくなったティベリウスの手でようやく農地法は成立します。元老院を通さずとも平民集会で可決された法案も法として成立することは紀元前287年に制定されたホルテンシウス法によって認められており、更にティベリウスは旧ペルガモン王家からの遺贈金を充当することで財源の確保にも成功しました。ですがティベリウスのこれらの行為によって元老院の反発も決定的なものとなったのです。
ティベリウスは自ら農地法の実施責任者に就任しますが、いずれにせよ護民官の任期は終わりが近づいていました。このままでは翌年には農地法を廃案にする決議が可決されるかもしれず、ティベリウスは異例の護民官再選を目論見ます。ローマでは財務官や執政官といった官職を歴任することは法で禁止されていましたが、護民官にはそれがなくその後は元老院に入ることが慣例となっていました。ティベリウスの立候補は異例というだけで違法ではありません。
護民官選挙当日のローマは大混乱に陥ります。平民集会で行われる護民官選挙に元老院は手を出すことができず、殺気立つ様相で集まった議員たちは選挙の様子を注視していました。平民集会でも全員がティベリウス派ではなく、元老院の権威を重んじる者もいれば今では解任されたオクタヴィウスに同情してティベリウスの強引な手法に疑問を持つ者もおり、投票所のあるカピトリーノの丘に続く道は人があふれて歩くこともできません。この混乱の中で暴動が起きたことは必然だったのかもしれませんが、知らせが元老院に伝わるときにどんな誤解が生じたのか、報告された内容はティベリウス・センプローニウス・グラックスが市民に王冠を要求しているというものになっていました。
元老院は騒然となり激高した強硬派スキピオ・ナシカと彼に従う人々が手に手に棍棒を持って立ち上がるとカピトリーノを襲撃、まず事実を確認すべきだという穏健派の声も空しくティベリウスとその支持者300人は襲いかかるトーガと棍棒の群れに撲殺されて、死体はティベリス川に放り込まれてしまったのです。平民を擁護する象徴として、肉体の不可侵を認められている護民官が現職中に殺されたという事実は人々に衝撃を与えました。ナシカは追放されて農地法はそのまま生き残りますが、その後ティベリウスの改革は一定の成果を上げながらもただ一人の推進者を失ったことによりやがて有名無実と化していきます。
その不条理な結末もあって、ティベリウス・グラックスに寄せられる同情的な声が多いことは事実です。ですが同時代や後世の史家の中にはティベリウスを単なる扇動者として弾劾する声も少なくありません。彼の志は疑いなく人々のため、ローマのためにありましたがローマの主権者はSPQRの文字が示しているとおり元老院議員とローマ市民の両者です。元老院を蔑ろにして彼らの権利を奪う法を成立する、しかもそれを元老院が手を出せない平民集会で可決したのですから反発を受けたのは当然だったでしょう。元老院がオクタヴィウスを懐柔したことは別に卑怯でもなんでもなく、彼らにはそれしか方法がなかったのです。
おそらくティベリウスは気が付いてはいませんでした。元老院の反発、それを決定的にしたのはティベリウス・グラックスが元老院議員の土地を奪おうとしたからではなく、ペルガモン王家の遺贈金を使おうとしたからでもなく、彼が平民集会を主導して同僚の護民官を放逐し、自ら護民官を再任しようとしたことそのものであったことを。未だ元老院議員でもないティベリウスがその気になればただ一人でローマを動かすことができる、その先例を彼は作りました。平民を擁護することは社会正義に適った思想かもしれませんが、平民だけが他者を顧みずに自由に振舞えるのならばそれは独裁となんら変わるところはありません。スキピオ・ナシカたちを逆上させた最後のキーワードはティベリウスが王冠を求めているという言葉であり、元老院の懸念は「このままでは彼は王になることすらできるではないか」という恐怖だったのです。
わずかな期間とはいえ農地法の効果は現れており、この時期を境にしてローマの中産層は増加の兆候を示します。ティベリウスの正義感と使命感は疑う余地もなく、その政策も時流に沿ったものでしたが彼の手法を認めることができなければティベリウス・グラックスは扇動者と呼ばれるしかありません。ですが目的が手段を正当化すると信じる声に従えば彼はやはり改革者であり民衆の擁護者にふさわしい人物だったとも言えるでしょう。確かなことは彼の最期は確かに不条理な非業の死であって、ティベリウス・グラックスが死後も惜しまれるに値する人物であったということです。
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