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皇帝ネルヴァ(Marcus Cocceius Nerva)



生没 35年11月 8日〜98年1月27日
在位 96年 9月18日〜98年1月27日

私的評価  統率D 知謀C 武勇C 政治D 魅力B

 歴史家エドワード・ギボンが評して曰く「人類が最も幸福であった時代」と伝えられる、五人の皇帝がローマを統治した一時代のことを指して後に五賢帝時代と称しています。共和政が崩壊して帝政に移行したローマで、初代皇帝アウグストゥスに始まったユリウス=クラウディウス朝は「心やさしいへぼ詩人」ネロの代で終わり、わずか一年の間に三人の皇帝が入れ替わっては消えていった紀元69年の内乱を経て「公衆便所皇帝」ヴェスパシアヌスへと引き継がれていました。そして皇帝ヴェスパシアヌスからティトゥスへ、ティトゥスからドミティアヌスへと移譲されたフラヴィウス朝の皇帝位は父親からその息子たちへと引き継がれていましたが、その後に訪れる五賢帝時代を特色づけた要素の一つとして皇帝が後継者に自分の子を選ばず、養子縁組によって次期皇帝を指名したという事情が存在しています。
 五賢帝最後の一人であるマルクス・アントニヌスの後を実子の「剣闘士皇帝」コンモドゥスが継ぐと、それ以降ローマは往時の隆盛を二度と取り戻すことが叶わなかったこともあって当時や後代の人々が血統に依らない後継者指名の制度を高く評価する原因ともなりました。その五賢帝時代の最初を飾るのが皇帝ネルヴァ、老齢によりわずか16ヶ月の統治であったにも関わらず賢帝の一人に数え上げられることになる人物です。

 皇帝ドミティアヌスが暗殺された、その報告は元老院議員にとって青天の霹靂だったでしょうが彼らは驚き当惑すると同時に大いに歓迎して将来に期待もしていました。気難しく生真面目で、厳格なモラリストであるドミティアヌスは自ら監察官も兼ねて風紀の取り締まりや綱紀粛正を好み、元老院議員の多くが処断されていた事情は確かにあったでしょう。ですが彼らにとってより深刻な動機となっていたのはドミティアヌスがティベリウスに倣う独断的な統治を行いながら、完璧とは言えずとも相応の力量と実績を見せていたことに主因があり蔑ろにされた元老院が面白く感じた道理はありません。
 いずれにせよ革命でもクーデターでもない、唐突な皇帝の退場によっておよそ27年間続いたフラヴィウス朝は三代で終わりを遂げることになります。ドミティアヌスには子がなく、それは元老院にとって自分たちの意に適った後継者を指名することで自分たちの権威を取り戻す好機が訪れたことを意味していました。彼らの中には百年来の悲願である共和政ローマの復興、すなわち貴族支配の復活を志す者もいたようですがさすがに現実味としては薄いと言わざるをえず、暗殺直後に政体を変ればそれは自分たちが暗殺の片棒を担ぐと宣言するようなものでもありましたからドミティアヌスに好意的な近衛軍団兵が駐屯するローマでは自殺行為にも等しいでしょう。ネロ暗殺後の内乱を覚えている者は議員の中にも多くいました。

 こうして白羽の矢を立てられたネルヴァは皇帝に選ばれた時すでに61歳、古代人の寿命は文明的な世界であれば現代とさして変わるところはなく、ローマでも80歳から90歳まで生きることもありましたしヴェスパシアヌスが即位したのも60歳の時でしたから決して老齢に過ぎるという年齢ではありません。ですが当時から持病持ちで健康にすぐれなかったネルヴァは今に遺されている彫像を見てもいかにも線の細い頼りなげな老人めいていて、実際に彼の統治はわずか16ヶ月の後に病で閉じられることになります。ではその16ヶ月の間に病弱なネルヴァが特筆すべき業績を挙げたかといえばあまりそのようなこともなく、彼の唯一の功績は後継者トラヤヌスを選んだ一事のみと酷評されることすらありました。薄命の老人ネルヴァ、であればなぜ彼の治世が五賢帝時代の始まりと評されることになったのか、その彼の統治は一体どのようなものであったというのでしょうか。

† † †

 首都ローマに近いフラミニア街道沿いの都市ナルニアに生まれたネルヴァ。その家系は古く共和政時代にまでさかのぼるという由緒ある貴族の家柄で、父や祖父にも執政官を排出した名家と伝えられています。本名はマルクス・コッケイウス・ネルヴァ、詩作が得意な洗練された文化人で、元老院議員としては皇帝ネロからドミティアヌスの時代まで長く重用されていたこともありネロに代わって詩を書いていたとかドミティアヌスの男色相手だったという噂もありましたが信憑性としては怪しいものでしょう。ネロ時代に陰謀事件を阻止した功績を称揚されており、属州総督こそ務めていないものの二度の執政官に就任した経歴もあって、ごくまっとうな名家の元老院議員という以上でも以下でもないというのがネルヴァに対する妥当な評価でした。穏当かつ温厚な人物で、元老院の有力者であると同時にドミティアヌスにも重用されていた、野心がなく有益でも無害でもない文化人ネルヴァの登位は人々を刺激することを畏れた当時の元老院の事情を思えば無難な選択肢といえたのではないでしょうか。
 皇帝としてのネルヴァの統治がどのようなものであったか、それは端的に表現すれば彼自身が就任の演説で宣言したとおり「ドミティアヌスのような統治はしない」というただそれだけのものでした。市井から若い人材を多く登用していたドミティアヌスとは異なりネルヴァは同僚執政官に当時80歳のルフスを選び、補欠執政官には65歳のアントニヌスや73歳のスプリンナといった老人たちを次々と起用します。元老院が提出した、前皇帝に記録抹殺刑を科すという議決を認めて多くの肖像や記録が破壊されたことはもちろん、旧ドミティアヌス派の人々が惨殺されることも元老院の決議に従い容認しました。一方で自らは元老院議員を処罰しないとも宣言し、厳格なドミティアヌス治世下で追放されていた人々の帰還を認めるとそれまで影を潜めていた属州統治の不正が横行する原因ともなっています。属州民はローマ市民ではなく、確かにネルヴァの施政はSPQR、ローマ市民に不快を覚えさせることはありませんでしたし元老院には好評をもって迎えられたのです。

 無論、ネルヴァは心から無為な統治者であろうとしていた訳でもなく貧民への土地の給付や減税措置、道路や水道の補修事業やアリメンタと呼ばれる子供の育英基金制度に着手するなど幾つかの政策を実現してもいます。とはいえ人気取りくさいそれらの政策が時宜にかなったものであるかは別問題で、後にトラヤヌスが皇帝になるとアリメンタを除くネルヴァの事業はほとんどが廃止されてドミティアヌス時代の施政に戻されてしまいました。新規建造物の着工もせず彼の名を冠した公共建造物といえばドミティアヌスが建てたものに自分の名前をつけたネルヴァ広場とネルヴァ倉庫が遺されているだけであり、「宮殿」と呼ばれて悪名高かったドミティアヌスの機能的な官邸もネルヴァはそのまま引き継いでいます。

 ドミティアヌスはその厳格さが市民に煙たがられて元老院議員には嫌われていた皇帝ですが、若くして皇帝に就任して以来軍務経験など無かったにもかかわらず足しげく前線に通い、ゲルマニア防壁の構築や兵士の待遇改善にも努めていたので兵士たちには好かれていました。蛮族に弱腰を見せた失態こそあれ、若い皇帝が風光明媚な元老院属州には目も向けずに極寒のライン川やドナウ川流域を往来していた事情を彼らは知っています。その後を継いだ老帝ネルヴァが前線どころか属州すら治めたこともない貴族の文化人であったことはまだしも、反ドミティアヌスの統治を公言して先帝の暗殺犯すら放置していた事実が彼らの不満と反発を増幅してやがて抑えることができなくなったのは当然のことだったでしょう。
 遂に激発した近衛軍団が宮殿に押しかけるとドミティアヌス殺害犯の引渡しを要求、高潔なネルヴァはこれを拒んだとも伝えられていますが事実はといえば犯人たちは捕えられて首謀者の一人であるペトロニウスは首を、パルテニウスは陰部を切り落とされてネルヴァは彼らを処刑した近衛軍団に感謝するという決議を表明します。一度は自ら皇帝位を退く意思を見せたようですが、ネルヴァに好意を寄せる元老院はそれを否決、元老院の意に従うことを言明するネルヴァは辞意を取り下げます。もちろん議員たちが誰もネルヴァの代わりをやりたがらなかった、という事情もあったかもしれません。

 結局のところ、ネルヴァは穏当であっても情勢に流されて祭り上げられただけの気弱な文化人に過ぎなかったのでしょう。誰の意にも従う便利な老人が誰にも相応の好感を持って扱われたのは当然のことで、その点でネルヴァは確かに孤独な皇帝ティベリウスやドミティアヌスとは対極の位置に存在する人間でした。ネルヴァの掲げた政策の多くは彼の独創というよりも、単にドミティアヌスの厳格さに辟易していた反ドミティアヌス派の要求を反映しただけのものでしかありません。元老院の意に従うネルヴァが市民や貧民の意に従う人気取りの政策を提出し、近衛軍団兵の意に従う決議を表明したことはおそらく彼の中で矛盾はしていませんでした。ただ彼らの要求そのものが互いに矛盾する常識に老人は耳を塞ぎ目を背けていただけであり、だからこそティベリウスやドミティアヌスが被らざるを得なかった悪評にネルヴァは無縁でいることができたのでしょう。
 老病で実子のないネルヴァは早くから後継者を指名する必要に迫られていましたが、最前線の高地ゲルマニア司令官としてドミティアヌスが抜擢していたトラヤヌスを養子に迎えることを宣言します。後にこれがネルヴァの最大の功績と評されることになりますが、彼自身の言動や当時、近衛軍団だけではなく前線の兵士たちにも不穏な動きが見られるようになっていた事情を考えればこれすらもトラヤヌスの擁立を望む人々の意に従った好々爺の選択ではなかったでしょうか。

「私は皇帝として何もしていない。だが身の安全を図って一私人に戻ろうとはしなかった」

 今に残されているネルヴァの述懐ですが、市民や元老院と軍団の狭間でただ従順であるだけだった皇帝が彼の後ろ盾となっている皇帝位を捨てればその身の安全が図れたかどうか甚だ怪しいものでしょう。軍団兵から絶大な信頼を得られているトラヤヌスを後継者に指名したことによって不安定だった政情もなんとか鎮まりますが、もともと老病であった皇帝は年が明けると間もなく卒中の発作を起こして急死、トラヤヌスは自分が養子に指名されたことも、養父となった皇帝の死も、自分の皇帝就任の知らせも酷寒のゲルマニアで聞かされることになります。
 人々に嫌われた皇帝の後を継いだ、誰からも好かれた好々爺はこうして62歳の生涯を終えると死後に神格化されて歴史に燦然と輝く五賢帝時代の最初の一人として数え上げられることになりました。特筆すべき業績は何も挙げていない、誰でも治世が短ければ賢帝でいることができると揶揄された皇帝ティトゥスの例もありますが、後に最良の皇帝、至高の皇帝と評されることになる後継者トラヤヌスを讃える演説の中で小プリニウスが老人ネルヴァを擁護して曰く、支配者の資質は彼が選んだ後継者によっても決まると伝えている一方で、ネルヴァは良い選択をしたがトラヤヌスであれば彼に選ばれずとも皇帝になっていたであろうとも述べているのです。

 フラヴィウス朝三代の皇帝が磐石に築き上げたローマの礎石を引き継いでエドワード・ギボンが評する「人類が最も幸福であった時代」に受け渡したネルヴァのごく短い治世、それが誰の功績であったのか。今も現存するネルヴァ広場の存在こそ、まさしく五賢帝最初の一人である老人ネルヴァを象徴しているのではないでしょうか。
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