ルキウス・ユニウス・ブルートゥス(Lucius Iunius Brutus)
生没 ???〜前509年
私的評価
統率B
知謀C
武勇C
政治D
魅力A
ブルートゥスといえば「ブルートゥス、お前もか」の台詞で知られる、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」で独裁官カエサルを暗殺した青年マルクス・ブルートゥスが有名ですが、そのブルートゥスが自らの模範と掲げ、共和政を信奉する人々の象徴とされてきたのが古代ローマで王を打倒したルキウス・ブルートゥスという人物でした。後に共和政が崩壊して帝政の時代になって以降も、多くの知識人や元老院議員たちはローマの礎を建国者ロムルスよりもむしろこのルキウス・ブルートゥスにこそ求め、在りし日のローマをブルートゥスに始まる共和政ローマの姿に重ねています。
帝政時代の政治家にして歴史家スヴェトニウスは「カエサルは執政官を追放して王になった。ブルートゥスは王を追放して執政官になった」と記し、プルタルコスは「建国者ロムルスの偉業もブルートゥスの偉大さには及ばない」と述べています。もはやローマで何びとも王になることは許されぬ、そう宣言したブルートゥスの言葉は共和政のみならず帝政になっても金科玉条として受け継がれ、皇帝が統治するローマでさえ国の主権はSPQRであり皇帝は元老院と市民に選ばれた第一人者に過ぎません。歴史家リヴィウスが評する「自由の闘士にして自由の監視者」ブルートゥス、その思想は以後数百年に渡るローマの原則となりました。
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建国者ロムルスが打ち立てたローマの王政は当時七代目の王であるタルクイニウスの時代を迎えていましたが、驕慢王スペルブスと渾名される彼は先王セルヴィウスを暗殺して独断的な統治を行っていました。とはいえ王は決して無能な人物ではなく、彼の出自であるエトルリア商人の支持を背景にした積極的な経済活動と精力的な領土拡大によりローマを発展させていましたが、元老院を顧みない姿勢と競争者を粛正する手腕が人々に忌避されていたことも事実です。
ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは驕慢王の姉妹であるタルクイニアの息子でしたから、王の甥でありれっきとした王族の一人でもありましたが、それだけに王や息子たちから身を守る必要に迫られていたようです。ブルートゥスとは「愚かな者」を意味しており、伝えによれば彼の兄弟はすでに危険因子として粛正されていましたが、愚鈍を装うことで驕慢王の手を逃れていたことが後の家名の由来になりました。ユニウスとは女神ユノーに連なる者という氏族の名を示しており、おそらくルキウスはタルクイニウス家の女がラテン・サビーニ人の旧家に嫁いで生まれた子なのでしょう。
後には信頼を得てトリブヌス・ケレルムと呼ばれる騎兵隊長を務めていましたが、この役職についていること自体ブルートゥスが王族に連なる有力者であったことを示しています。ケレルムを指揮する者、騎兵隊長とは軍団に馬を提供できる富裕な人物でなければ務めることができませんでした。
ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは王族であってもタルクイニウスの氏族名を継いではおらず、王を継ぐには遠い場所にいたことが彼の身を守る一助にもなっていたでしょうが、ルキウス自身には相応の野心があったようです。伝説ではタルクイニウスの二人の息子に従い、デルフォイの神殿に赴いていた彼は「母に最初に口づけをした者が国を治める」という神託を授かります。これを聞いて二人の王子はとたんに争いローマへの道を急ぎましたが、ルキウスはこっそり身を屈めると大地に口をつけたと言われています。大地こそは人の母である、というのがブルートゥスの言でした。
その後ローマに戻ったブルートゥスは騎兵隊長として各地を転戦すると、周辺諸市の制圧に明け暮れます。おそらくは驕慢王や王子たちの近くにいることで粛正される危険を避けたかったであろうこと、自ら従える軍団を手に入れておきたかったであろうことが理由でしょうが、ルキウス自身の性格がそもそも武を重んじる戦士らしいものでした。こうして戦場に身を置いて日々を過ごしていたブルートゥスですが、彼に好機をもたらしたのが後の世に知られる「ルクレティア事件」です。
ことの発端はアルデアという近隣都市の攻略にあたっていた驕慢王の息子セクストゥス・タルクイニウスと遠縁の親族であるルキウス・タルクイニウス・コラティヌスという二人の若者が言い争ったことにあります。立てこもるアルデア市民を相手に戦が長引いていた中で、二人は互いの妻が夫のいない間にいかがわしい振る舞いに及んでいるに違いない、と罵り合いを始めました。意地もあり不安にもなった彼らは夜半に馬を駆るとこっそりと家に戻りますが、果たしてセクストゥスの妻が男友達を集めて饗宴にふけっていたのに比べてコラティヌスの妻ルクレティアは静かに繕い物をしていました。コラティヌスは勝ち誇りましたがセクストゥスは収まらず、あろうことかルクレティアを陵辱してしまうと心ならずも姦婦とされた彼女は自らの胸を短剣で突き命を絶ってしまいます。
あまりに不名誉な王族の醜聞、これを知って動いたのがルキウス・ブルートゥスでした。ブルートゥスは悲憤するコラティヌスとその父親を慰めるとルクレティアの亡骸を連れてローマに赴き、騎兵隊長の権限で平民集会を召集すると中央広場に集まった人々を前にして驕慢王タルクイニウスやその息子たちの横暴を訴えました。暗殺によってその地位を得た、横暴なタルクイニウスとその一族をローマから追放せよと扇動します。急報を受けた驕慢王が前線からローマに駆け付けたときは既に遅く、タルクイニウス追放の決議が承認されて城門は固く閉ざされていました。
こうしてルキウス・ブルートゥスによる政変は成功しましたがその背景には彼の扇動に人々が同調したことはもちろん、驕慢王の独断的な統治に反発を強めていた元老院の協力を得ることができた事情が大きいでしょう。その筆頭が後にプブリコラの呼び名で有名になるプブリウス・ヴァレリウスですが、ローマ建国時に遡るといわれるヴァレリウス家が当時の有力な元老院階級であったろうことは無論です。
タルクイニウスを追放したローマでは以後は王に替えて任期一年、定員二名の執政官が統治を行うことを決定します。ちなみにこの役職は設立された当初プラエトル(後の法務官)と呼ばれていましたが、後にコンスルとして定められるとすべての権限が委譲されています。初代執政官にはブルートゥスと、妻を失った不幸なルキウス・コラティヌスが就任しました。また、このときブルートゥスは元老院の定数をそれまでの百人から三百人に増員していますがおそらくは旧来のラテン・サビーニ系の人々で構成されている元老院に、ブルートゥスを支持する新興エトルリア系の有力者を加えるための措置だったのでしょう。旧家の支持を受けていたとはいえ、ブルートゥス自身は王族の一員であったことを忘れる訳にはいきません。そしてこれ以後、元老院での挨拶はパートレス・コンスクリプティ「父たちと新たな者たちよ」と呼ばれるのが慣例となります。
こうして二百五十年にも及んだローマの王政は崩壊して共和政が始まりますが、その内実を見れば王族によるクーデターでしかありませんでした。二人の新執政官が就任して間もなく、ブルートゥスは彼の支持者たちを従えてコラティヌスを訪れると重々しく宣告します。ローマは王から解放されたが人々は完全に安心した訳ではない。ルキウス・タルクイニウス・コラティヌスよ、王を追放した善良なる君には最後の仕事が残っている。それはローマからタルクイニウスの名を消し去ることだと。不幸なコラティヌスはローマから放逐されてしまい、後任にプブリウス・ヴァレリウスが就任するとブルートゥスの政変は完成します。
ですが共和政の実現は確かに権力の分散と元老院の復権を実現しましたが、それは大きな副作用を伴わずにもいられませんでした。建国者ロムルス以降、ローマは多部族多民族の同化政策、整備された法律と宗教的寛容、階級制と規律ある軍団、活発な経済活動と社会基盤を手に入れていました。その中でもタルクイニウス家に代表されるエトルリア商人の尽力によって支えられていたのが経済活動と社会基盤の整備事業ですが、驕慢王の追放によって彼らの多くが故国エトルリアへと去ってしまいます。しかも悪いことにブルートゥス自身が演説で「戦士であるべきローマ人が驕慢王の手で職人や石工に追いやられてしまった」と述べていたように、武門に偏るあまり経済活動を軽んじる性格をしていました。
この状況に危機感を抱いたのが若者たちであり、特に近隣のエトルリア諸市と親交の深い有力者たちの息子であったことに不思議はないでしょう。彼らは追放された驕慢王の復帰を願い、タルクイニウスと内通をしていましたがその中にはブルートゥスの二人の息子であるティトゥスとティベリウスの兄弟も加わっていました。性急な陰謀は結局露見してしまうと若者たちは中央広場に引き出されて、倒れるまで鞭打たれてから首をはねられます。息子たちの処刑に立ち会ったブルートゥスは表情ひとつ変えず、自分の子が国を裏切り、父を裏切り、執政官を裏切り、元老院と人民を裏切り、そして神々を裏切ったことを糾弾します。無言の若者たちを一瞥したブルートゥスは刑吏に目を向けると「後は貴方たちの仕事だ」と厳格に告げたとされています。家父長権の強いローマならずとも、もはやこの状態で親子の情愛を示すことができないことは誰もが理解をしていたことでしょう。
ですが息子たちの処断を終えたとしても共和政の問題は世に明るみにされただけで何一つ解決した訳ではありません。追放された驕慢王タルクイニウスはエトルリア諸市にローマへの侵攻を呼び掛け、周辺諸市ももはや王がいないローマに屈服する必要を認めず兵を起こします。武を重んじたルキウス・ブルートゥスにしてみれば、タルクイニウスを追放したことによって王が制圧した周辺諸市に矛を向けられる事態をどのように感じていたでしょうか。
軍勢を率いて南下するタルクイニウスに執政官ブルートゥスも自ら馬を駆って戦場に赴かざるを得ず、王の長男アルンス・タルクイニウスと対峙しましたが当時の風習でもあった指揮官同士による一騎打ちの末に相打ちとなって果てました。戦闘自体はこれを引き継いだプブリウス・ヴァレリウスの手で辛うじて勝利すると疲弊した双方が軍を引き、棺に収められたブルートゥスの亡骸も凱旋して哀惜の声の中で国葬に付されます。王政が打倒されて共和政が打ち立てられた紀元前509年、初代執政官に就任したその年がルキウス・ユニウス・ブルートゥスの没年となりました。
ブルートゥスによる王政の廃止と共和政の設立はその内実は王族によるクーデターに他ならず、その手段も決して廉潔で公正なものであったとは言えません。王政の遺産を継承した彼らはそれを活かす前に彼らが追放した人々の反攻を招き、執政官の死と引き替えにこれを退けた後も周辺諸市の侵攻に長く悩まされることになります。おそらくブルートゥス自身は彼が成し遂げた事績に決して満足することはできず、息子に背かれて戦場に散った自分の選択を心中悔やんですらいたのではないでしょうか。
それでもルキウス・ユニウス・ブルートゥスによる共和政の設立が実現しなければローマは依然として王政のままであり、それは例えばマケドニアやパルティアのような強大な王国になることはできても「父たちと新たな者たち」による文明としてのローマを生み出すことはできなかったでしょう。建国者ロムルスの時代にラテン人とサビーニ人は融合されていましたが、タルクイニウスの王朝ではエトルリア人はトリブヌスと呼ばれて元老院から除外されており、それが驕慢王の統治を生み出す遠因ともなっていたのですから。あえてプルタルコスの言葉を借りるとすれば、それでもブルートゥスの偉大さはロムルスと並ぶローマの建国者にふさわしいものであったのだと言えるのです。
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