プブリウス・ヴァレリウス・プブリコラ(Publius Valerius Publicola)
生没 ???〜前503年
私的評価
統率C
知謀A
武勇B
政治B
魅力C
驕慢王タルクイニウス・スペルブスが追放されて、共和政が樹立された紀元前509年のローマ。その象徴であるルキウス・ユニウス・ブルートゥスを助けて王族の追放に協力し、ブルートゥスの死後は執政官として共和政初期のローマを支えた人物がプブリウス・ヴァレリウス・プブリコラという人物です。共和政設立から日を置かずに戦没したブルートゥスに代わって人々を主導し続け、王の復権を許さずに市民の権利を拡大して後に「人民の友」を意味するプブリコラの名で呼ばれるようになった、彼がいなければ芽吹いたばかりの共和政は枝葉を茂らせる前に空しく摘み取られていたかもしれません。共和政はブルートゥスによって生み出され、プブリコラがそれを育てたという声も存在します。
プブリウスの生まれたヴァレリウス家は古くローマ創建の時代にまで遡り、ラテン人とサビーニ人の争いを収めるのに活躍した人々であるとも言われています。それが伝説の色合いが濃い時代の出来事であったとはいえ、少なくともヴァレリウス家がローマ旧来の有力者の家門であったことは疑いようもありません。その中でも驕慢王タルクイニウスの時代、プブリウスは元老院の一員としてすぐれた弁舌でも豊かな資力でも人に知られる存在でした。弁舌により人を助け、資力により国を助けるのは古代ローマでは有力者が当然に行うべきこととされています。
もともと王政における元老院は王に対する勧告機関とされており、助言の権利しか持っていませんでしたが建国以来の有力者たちの声を簡単に無視できるものではありません。ですがラテン・サビーニ人が集まる元老院の中でエトルリア商人の援助を基盤に持つタルクイニウス王朝になってからはその限りではなく、特にタルクイニウス・スペルブスは元老院を顧みない統治を行うことによって驕慢王の名で呼ばれていました。旧家の有力家門で構成される元老院議員にとっては面白い筈もありませんが、後にブルートゥスにより「新たな者」としてコンスクリプティが受け入れられるようになるまで、エトルリア系の人々がトリブヌスとされて元老院から排されていたことは紛れもない事実です。一方で経済活動と社会基盤の充実、領土拡張による市場の拡大を図るタルクイニウス王朝がエトルリア商人の支持を受けていたのも当然だったでしょう。
王と元老院、両者が対立する状況を覆したのはルキウス・ユニウス・ブルートゥスでした。ブルートゥスは王族の一員であり騎兵隊長を務めていたことからも富裕で実力を持つ人物ですが、タルクイニウスの家門ではなく驕慢王やその息子たちからは軽視されている存在でした。彼を懐柔するために、元老院がブルートゥスに囁いた言葉はおそらく単純なものであったに違いありません。タルクイニウスの一族を追放してくれたら我々は君とその口添えがあった者を元老院に迎え入れる用意がある。そしてブルートゥスに手を貸してタルクイニウスの追放を主導したのがプブリウス・ヴァレリウスでした。
† † †
史書に知られる通り、ルクレティア事件を契機としてタルクイニウスの一族は追放されると王政が廃されて共和政の設立が宣言されますが、王の一族と支持者たちはローマを離れることになり、驕慢王自身はエトルリア系の周辺諸市を扇動してローマへの反攻を画策します。王の財産を市民に返還するには人手が必要だという名目で部下をローマに送り込み、特に親交が深かったアクィリウス家とヴィテリウス家の者を内通させて執政官の暗殺を企てます。ですが屋敷に集まる人々の多さに不審を抱き、陰謀を漏れ聞いたのがヴィンデクスという一人の奴隷でした。通報によって事の次第を知ったプブリウス・ヴァレリウスは証人を匿うと内通の証拠である手紙を押収してから人々を集めます。ブルートゥスの二人の息子を含む陰謀者たちは引き出され衆目の中で処断されると、ローマに残されていたタルクイニウスの屋敷は取り壊されて人々が略奪するままに任されました。これは陰謀に対する意趣返しではなく、略奪をさせることによってローマ市民とタルクイニウスの間を断つことが目的でした。
余談ですがその後、執政官に就任したプブリウス・ヴァレリウスにより密告者ヴィンデクスは奴隷の身分から解放されて市民権を得ることになり、以来奴隷を解放する行為はヴィンデクタと呼ばれるようになったといいます。また史料によればタルクイニウスが所有していた土地は膨大なもので、屋敷を取り壊す際に刈った麦の穂があまり多すぎてテヴェレ河に流すと中州に変わったほどだとされています。
ことが水泡に帰したことを知った驕慢王は手勢を集めるとローマに兵を進めます。このアンスウィアの戦いでルキウス・ブルートゥスは命を落とし、戦いを引き継いだプブリウスが勝利を収めて凱旋したとありますが実際には双方の被害はあまりに大きく痛み分けというのが実状だったようです。伝説によれば森の中を戦場にして行われた激戦は互いに混乱するばかりで多くの死者を生み出しますが、日が落ちて引き上げると双方の陣営地に奇妙な噂が流れます。「森のお告げによればエトルリア兵が一人だけ多く死ぬだろう」というその噂の出自は不明ですが、これを信じたというよりも損害に嫌気が差していたエトルリアの兵は夜明けを待たずして撤退を始めてしまいました。共和政の樹立に勢いを得て、王を復権させないために防衛戦争を試みるローマ人に対して扇動されただけのエトルリア人の士気が低かったことも無論でしょう。
いずれにせよ亡きブルートゥスの遺体を連れて帰国したプブリウス・ヴァレリウスは、ローマでは初めてとなる四頭立ての馬車を駆っての豪勢な凱旋式を挙行しました。それはプブリウスの虚栄心とヴァレリウス家の資力を示している一方で、執政官プブリウスはブルートゥスの葬儀も主催すると自ら弔辞を読み上げて故人を讃え、多くの栄誉を与えます。以後ローマでは偉人の葬儀に際して有力者による弔辞を行うことが慣例となりました。
こうしてローマはひとまずの危機を回避したように見えますが、実際には国内の混乱が収まった訳ではなくタルクイニウスとの戦いで受けた傷も浅かった訳ではありません。プブリウスは精力的にローマの立て直しを図りますが混乱の中で後任の執政官をすぐに定めなかったこともあり、今度は彼自身がタルクイニウスを継ぐ王位を狙っているのではないかという風聞が広がります。資産家である彼の屋敷が人々を見下ろすパラティウムの丘上に建っていることすら非難の対象となりましたが、これを聞いたプブリウスはその夜のうちに職人を集めると屋敷を土台に至るまで解体してしまい、自身は友人の家に移りました。
プブリウスらしい極端な行動ですがこれには人々も驚嘆し、謂れのない中傷を後悔しますがいずれにせよ後任執政官の件は捨て置く訳にいきません。ですが後任に任じられたのがかのルクレティアの父コラティヌスであり、老齢であった彼が就任数日で亡くなったことは様々な意味で共和政初期の人々の未成熟さを現していたでしょう。改めて選挙が行われ、新たな執政官にはホラティウスが選ばれます。人々の動向に鋭敏にならざるを得なかったプブリウスは護衛官であるリクトルが棒持するファスケースから斧頭を抜き取り、単なる棒の束にするとそれを振り上げずにぶら下げて歩くようにとまで言いつけていました。
こうした度を超した気遣いによって彼は「人民の友」プブリコラの名で呼ばれることになりますが、統治者としての彼は人気取りだけではなく時宜にそった様々な法を制定してもいます。その第一は死刑を宣告された市民が執政官に上告する権利を認めたもので、これにより市民は裁判なく殺されないというローマの原則が生まれました。他にも財務官を任命して国庫の管理に当たらせるなど幾つかの改革を行いますが、中には極端なものもあって王になろうとした者は死刑にするという法律などは後にグラックス兄弟が不遇の死を遂げ、ローマに混迷をもたらす原因ともなっています。
単純な人気取りではないがどこか極端さと浅慮も窺える、プブリウスの統治は彼のノーブリス・オブリージェのみではなく虚栄心に支えられていたことも事実でしょう。後に王政時代から着工していたユピテル神殿の奉献式が行われることになりますが、外征の途にあってローマを離れていたプブリコラを置いてホラティウスが主催することが決まると、プブリコラは自分が式を執り行えないものかとせこい策謀を試みたりもしています。この時、式の最中にホラティウスの息子が死んだという誤報を送っていますがホラティウスは動じる色も見せず式典を続けたものでした。
アンスウィアの戦いで逃亡した驕慢王はその後、強国キュージの名高い王ポルセンナを頼ります。キュージはエトルリア諸市の中でも指導的な立場にあり、タルクイニウスに扇動されたポルセンナはローマに軍勢を進めることを決意しました。統治者としても将軍としても偉大とされるポルセンナの軍は燎原の火の勢いで迫るとたちまち市壁を囲いますが、このときローマでは押し寄せる敵を前にして多くの人々が奮戦し、中でもテヴェレ河にかかる橋を守るために単身で敵の前に立ったという「片目のホラティウス」や、王の暗殺を試みて果たせず自ら右腕を焼いたという「左手のムキウス」らの武勇伝が語られています。迎撃の指揮を採ったプブリコラも城外に家畜を放ってそれを追いかけたエトルリア兵を五千人も殺したと伝えられていますが、このような武勇伝が存在している時点でこの戦いが敗北に終わっていたことは想像に難くありません。実際にはローマは降伏して広大な領土と人質を差し出すことで両者の間に講和が結ばれました。
人質の中にはプブリコラの娘であるヴァレリアもいましたが、勇猛な彼女は馬を奪い敵陣から逃げ出すとローマに戻ったとされています。人質が約束を違えたことをプブリコラは怒り、娘をキュージに突き出しますが感心したポルセンナは彼女にその馬を与えてローマには彼女の騎馬像が建てられました。無論、これも武勇伝の一つでしかなくプブリコラが娘と領土を差し出して負けた事実は隠しようもありません。とはいえこれで領土奪還の目的を果たしたポルセンナは驕慢王に再起の機会を認めず、ローマは小国にこそ成り下がったものの共和政は守られてタルクイニスは復帰の望みを絶たれることになったのです。
勢力を大幅に失ったローマではその後も執政官をたびたび歴任するプブリコラを中心に再建が進められます。エトルリア諸市との間には講和が成立していましたが、南のサビーニ族はこの機会にローマを窺う様子を見せており情勢は予断を許しません。プブリコラはサビーニ族の中でも反戦派の有力者であるアッピウス・クラウススという人物を迎え入れると、一時的とはいえ相手の勢力を削ぐことに成功します。ちなみにクラウススは後にクラウディウスと名を改めて、長く続くローマの名門となりました。その後結局サビーニ族との軋轢は戦乱に発展しますが弟マルクスや同僚執政官らの活躍もあってこれに勝利、国境を安んじたプブリコラは凱旋式を挙行すると翌紀元前503年に息を引き取りました。人民の友プブリコラの家に財産はほとんど残されておらず、ブルートゥスの時と同様にその死は人々に惜しまれて国葬に付されることが決まります。
プブリウス・ヴァレリウス・プブリコラは統治者として必ずしも理想的な手腕を有していた人物とは言い難いですが、その決断は機を見るに敏で時宜に適っており、彼の即断が無ければ設立したばかりの共和政は上手く機能しえなかったかもしれません。もとは王政に対する反抗から生まれた共和政はブルートゥスの理想が掲げられてはいても、残すべき古い遺産も生み出すべき新しい伝統も不確かなままで一里塚を示すためにはむしろ拙速こそが求められていた、そのことをあるいはプブリコラは理解していたのでしょうか。いずれにせよ王の追放と共和政の樹立は単なる政治抗争に思わせながらも、その裏に潜んでいたラテン・サビーニ人とエトルリア人による民族闘争の亀裂を埋めることに成功します。かつてラテン人とサビーニ人の争いを収めたヴァレリウスの家は、またも民族の融合に貢献したことになる訳です。
>他の記録を見る