皇帝ハドリアヌス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus)
生没 76年1月24日〜138年7月10日
在位117年8月11日〜138年7月10日
私的評価
統率A
知謀A
武勇B
政治A
魅力D
統治者の評価を行う基準は一様ではありませんが、その治世において統治を大過なからしめたことと彼の後継者が先人を継いでなお統治を大過なからしめたことである、とすれば帝政ローマでは初代皇帝アウグストゥスやフラヴィウス朝の開祖である「公衆便所皇帝」ヴェスパシアヌス、そして皇帝ハドリアヌスといった幾人かを数えることができるでしょう。そうした中でもハドリアヌスは五賢帝時代と称される幸福な時代の中核を支えた人物であり、国境整備と内治に専心してローマに平穏と繁栄をもたらしています。自らの足で広大な領土の各地を巡幸したハドリアヌスは先帝トラヤヌスにも劣らぬ多くの建築事業に携わり、今もブリテン島に残るハドリアンズ・ウォールや古代建築の最高傑作と評されるパンテオン、後にカステル・サンタンジェロとして用いられる皇帝廟など、ローマ人らしく実用性を重んじながらも斬新さや芸術性に富んだ建造物の数々を生み出しました。ネロやドミティアヌスと同じくギリシア文化に惹かれ、芸術や詩や狩猟を好みましたが耽溺して統治を忘れることもなく、個人としてもその知性は学者を論破することができて肉体は暴漢を素手で撃退することができたとされています。
当時においても後代においても優れた皇帝の一人として評されることになる、ですがそのハドリアヌスが没した時、元老院は満場一致して彼を弾劾すると記録抹殺刑に処そうとしており、慈悲深い後継帝アントニヌス・ピウスが哀願しなければハドリアヌスの名前は歴史から削り取られて彫像は打ち砕かれるところでした。賢帝にして弾劾される皇帝ハドリアヌス、その性格は史書にすら複雑で一貫せぬ人柄である、と書き記されることになります。
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本名はプブリウス・アエリウス・ハドリアヌス。出身はスペインはイタリカの町であるとも首都ローマであるとも言われていますが十歳の時に父親を失い、当時まだ皇帝になる前のトラヤヌスが少年の後見人となっています。幼少期をトラヤヌスの出身地スペインで過ごすことになるハドリアヌスは狩猟や芸術に熱中する放蕩ぶりに「ギリシアかぶれ」という軟弱極まりないあだ名を奉られる有り様で、十五歳になると首都に呼びつけられて判事職や陣営地に押し込まれてしまいました。ところが遊び人と思われていた若者は存外に有能で人々の信望も厚く、たちまち頭角を現すと新皇帝となったトラヤヌスの秘書官に選ばれます。この時、初めて元老院で演説をした折には強いスペイン訛りをさんざ莫迦にされていますが、奮起して次の演説には直してしまったという挿話からも彼の性格と精勤ぶりの双方を窺うことができるでしょう。いかにもギリシアかぶれらしいと揶揄された、あご下にたくわえた髭は首にある醜いあざを隠すためのものでした。
ダキア戦争では精鋭第一軍団の指揮官として戦場に赴き、国務官や執政官を歴任し、後のパルティア遠征では後方総司令官であるシリア属州総督にも選ばれたハドリアヌスが、皇帝の死の直前までトラヤヌスの後継者に指名されずにいた理由は現在でも明らかになっていません。皇帝には子がおらずハドリアヌスの対抗馬と目される人物も見当たらなかった一方で、年齢と経験を重んじるローマであればトラヤヌスと世代の近い重臣がその地位を継いで不思議がなかったのも事実です。結局トラヤヌスは死の間際まで自ら後継者を明らかにすることはなく、遠征途上の病床から皇妃プロティナを通じてハドリアヌスへの継承が伝えられただけでした。その後、皇帝臨終に立ち会った医師が謎の死を遂げたことからも皇妃のお気に入りであったハドリアヌスが情実により登位したのだという噂が流れましたが、人々の困惑を疑惑に変えたのが直後に起こる通称「四執政官事件」です。
先帝トラヤヌスには特に重用されていた四人の重臣がいました。公的な伝えを信じるのであれば皇帝の死に乗じて彼らが首都で企てていた政変が発覚、それを阻止するべく未だ東方にいたハドリアヌスは親衛隊長アシアヌスに対処を命じます。ところがアシアヌスは彼らを逮捕するのではなく独断で処断、殺害してしまいました。アシアヌスはトラヤヌスと共に若いハドリアヌスの後見人をしていた人物であり、元老院は四人の殺害を皇帝が命じたのだと固く信じます。
ローマでは共和政初期の時代から市民の財産と生命の保護、つまり裁判なく決してこれらが奪われないことを国家の原則としていました。それが平然と破られた暴挙に皇帝はアシアヌスを更迭すると、以後は元老院議員を決して粛清しないという誓いを立てましたが白々しく聞こえる言葉に耳を傾ける者は誰もいません。情実によって就任して重臣を粛清したギリシアかぶれの若者、多くの人が新皇帝をネロやドミティアヌスの再来ではないかと恐れました。平和外交と経済発展を重視したネロが放蕩者であったことは事実ですし、国境線の強化と綱紀の粛正に専心したドミティアヌスが狭量であったことも事実です。彼らと同じギリシアかぶれのハドリアヌスが、まさしく彼らと同様に国境線の強化や経済発展を重視してローマに繁栄をもたらす名君になるなどと都合よく考えることがどうしてできるでしょうか。
反乱が続発していた東方パルティアの征服地を引き払ったハドリアヌスは帰還すると皇帝就任の祭りを行った後で首都の整備に専心、数年をかけて行政と伝令の体制を再構築し、準備が整ったと考えるや各地の巡幸へと乗り出しました。ハドリアヌスが初めて首都に来た時と同様、存外に有能で精力的であった皇帝の働きぶりに人々は感心したかもしれませんが、ハドリアヌスの精勤と行動力は無責任に皇帝を評する彼らの予想をはるかに超えていたのです。
首都を後にした皇帝はゲルマン侵入に備えるライン川の軍団基地や海峡を越えたブリテン島、野盗が襲来する酷暑の北アフリカ沿岸地帯やギリシア人とユダヤ人の対立を抱える中東周辺など不安定な国境地帯を中心に、首都に戻る素振りも見せず属州から属州へと渡り歩きます。徒歩と船舶が主な交通機関であったこの時代、実に治世の半分を超える歳月をハドリアヌスはこの視察巡幸に費やしており、皇帝になる以前に足を踏み入れた地を合わせるとおよそローマで彼が赴かぬ場所はないという程でした。
皇帝の随員は技術者や学者を中心としたごく少数で、物々しい軍団や派手な車駕の姿もありません。街道や橋を見れば整備や増改築を指示し、軍団の駐屯地に赴けば自ら訓練にも参加して兵士たちの弛まぬ努力を称賛しつつ、古びた武具や放置された資材を見れば叱責して改善させました。エジプトでは高名なムセイオンの学会に参加、憧れのギリシアではエレウシスの秘儀を体験したりアフリカでは念願のライオン狩りを行ったりとハドリアヌスらしい放埓ぶりも発揮してはいますが、精勤する皇帝の姿は兵士や属州民の目に好もしく映ったことでしょう。後にユダヤ人への強硬姿勢で暴動を発生させた例もあり、これについてはギリシアびいきの皇帝が仲の悪いユダヤ商人を弾圧したのだという声もありますが、おそらくはトラヤヌスの東方制圧時から反乱の温床であったイスラエルに我慢がならなかったという事情が大きいでしょう。事実、イスラエルは陥落するとユダヤ人は当地への立ち入りを禁じられてディアスポラと呼ばれる離散の時代を迎えますが、ハドリアヌスは彼らをイスラエルから追放しただけでローマで暮らすことも商売をすることも特に禁じはしませんでした。
いずれにせよ精力的な統治でローマに平和と繁栄をもたらした皇帝ハドリアヌスですが、個人としては人々に眉をひそめさせる事由がなかった訳ではありません。古代人の中でも近代的な人物であったと評される複雑な性格は時に厳格で時に寛大、時に残酷で時に慈悲深く、一貫して一貫していなかったと酷評される程でした。君主たるもの清濁を併せ飲むべしとは古来より聞かれる言葉ですが、清には大らかで濁には厳しい皇帝が当人は有能かつ精力的であるとすればそれが賢帝だとしても周囲の人間にとってたまったものではないでしょう。しかも皇帝にはギリシアかぶれという典雅ですが偏った好みまでありました。
寵童アンティノーの存在はその「ギリシアかぶれのハドリアヌス」を論じる際に必ず苦笑とともに語られるもので、先帝トラヤヌスは彫像を愛でるのと同じ理由で美しい若者を帯同させることを好んでいましたが、ハドリアヌスは愛人としてこの美しい少年を溺愛していました。妻は首都に残してもアンティノーは欠かさず随行させた程であり、少年がナイル川で不慮の死を遂げた時には皇帝はたおやめのように泣き崩れると、当地にアンティノポリスという町を築き亡き少年の彫像を幾つも彫らせた程でした。ハドリアヌスが愛人に溺れて統治を忘れたことはなく、アンティノーが国政を容喙することも決してありませんでしたが皇帝の同性愛が質実剛健を重んじるローマ人にどのように思われていたかは考えるまでもありません。
晩年になり、各地の巡幸を終えてようやく首都に腰を落ち着けた皇帝は郊外に広壮な別邸を設けると多くの彫刻や美術品で飾らせました。公共建造物すら自ら設計したハドリアヌスらしく、建物や庭園はギリシアやエジプトを模した美しいものでしたが、老年には未だ早い皇帝の体力がこの時期から急速に衰えると数年もせずに自らの足で歩くことすらできなくなってしまいます。杖をつきながら、後には輿で運ばれながら後継者を選ぶ必要に迫られた皇帝は若く美しいルキウス・アエリウスを指名しましたが、聡明でも生来病弱だった彼が酷寒のドナウ流域視察で体調を崩して急逝してしまうと落胆した皇帝は代わりに元老院の有力者で篤実な人柄で知られるアントニヌスを選び、更に後の哲人皇帝になる少年マルクス・アウレリウスを養孫に迎えます。
やるべきことをすべて終えたと考えた皇帝ですが、ようやく顧みた自らの境遇にはおそらく愕然としたことでしょう。皇帝の責務を退き晩年を過ごす筈であった広壮な別邸、愛すべき記憶を思い起こさせる庭園をハドリアヌスの肉体はもはや歩くことを許しません。ローマ人は公益に身を費やすことが美徳であると同時に私的な時を大いに楽しむことも由としており、公務に精勤しながらも芸術や狩猟も嗜んだハドリアヌスが自らの生涯を悔やむことはなかったでしょう。ですが為すべきことを為したならば無為に人生を永らえるよりも静かに生を終えるのが良いというのも彼らの哲学であり、たとえ後継者を定めたとしても身を引くことは許されず、無為に生き続けねばならぬ境遇は皇帝の気をくさすに充分なものでした。皇帝は勝手に自殺することも自分を殺させることも許されない、かつて詩人フロルスは皇帝にはなりたくないものだと歌い、ハドリアヌスは詩人にはなりたくないものだと返歌したものですが晩年の彼であればどう答えたことでしょうか。
こうして好きに生きることも好きに死ぬこともできなくなったハドリアヌスは、もともと気難しい性格が更に気難しくなっていきます。かつては有能で精力的であった動けぬ皇帝は人々の無為や無能に我慢することができず、些細な事柄に非寛容になり激発すると処断の命を下すことすらありました。皇帝に寄り添うアントニヌスが人々の心情を察して間をとりなし、処断をすべて保留にしたために実際に犠牲になった者はあまりいなかったようですが、このハドリアヌスに接した元老院議員が悪感情を募らせたとしても無理はありません。哲人皇帝マルクス・アウレリウスが後の述懐で義父アントニヌスを称える言葉を残しているのに対して、ハドリアヌスへの言及を避けているのも少年が見た当時の姿によるものではないでしょうか。ハドリアヌス死後の弾劾と記録抹殺刑の決議はやむを得ぬことであったと、おそらくハドリアヌス自身も苦笑しながら認めるにやぶさかではない筈です。
当人にはようやくであったろう、死を迎えるに際して皇帝は辞世の言葉を彼らしく詩に遺しています。さまよう魂よ、すばらしい小さき塊、かりそめの肉体を離れたお前はどこへ赴こうとしているのか…それはパンテオンや広壮な別邸にも勝る、ハドリアヌスらしさを最も体現した彼の作品だったのかもしれません。ギリシア文化に心酔したネロやドミティアヌスと同じように、ハドリアヌスも死後は弾劾の席に立たされた皇帝の一人として歴史には描かれていますが、生前の功績こそ認められながら愚帝として扱われた両者とは異なり、ハドリアヌスの賢帝としての評価は彼が弾劾された当時ですらほとんど揺らぐことがありませんでした。ですがそれすらもこの皇帝は、かりそめの肉体に与えられた評価でしかないと意に介さなかったことでしょう。
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