マルクス・フリウス・カミルス(Marcus Furius Camillus)
生没紀元前446年〜紀元前365年
私的評価
統率B
知謀B
武勇B
政治A
魅力C
共和政ローマは紛れもない軍事国家でしたが彼らにも言い分がなかった訳ではありません。驕慢王タルクイニウスを放逐したローマは強国キュージの英雄ポルセンナに攻められると叩きのめされた挙げ句辛うじて講和を許されていましたが、タルクイニウスの復位こそならなかったもののラテン連盟なる代物に組み入れられると好き放題に不平等条約を結ばされていました。隣接する都市や部族が難癖をつけては弱体化したローマを窺う状況で、軍事国家にならなければ彼らはとうてい生き延びることができなかったでしょう。幸いポルセンナはタルクイニウス時代に侵された領土に色をつけて返還してもらえば文句はなく、他の都市や部族には将器と呼べる人物がおらず平和主義者を自称するエトルリア人は兵士を金で雇うだけでしたし、勇猛さを自認する山岳部族はおこぼれを狙う盗賊まがいの連中でしたから互いに手を結んでローマを滅ぼそうと考える様子もありません。
四面楚歌のローマは自ら武器を手に戦場に赴いて、四面を一つ一つ防ぐことができましたが彼らを率いた人物がマルクス・フリウス・カミルス。五度の独裁官に就任、四度の凱旋式を挙行してロムルスに次ぐ第二の建国者と讃えられ、近隣には無敵のカミルスと恐れられた人物です。偉大な将軍としての功績を残している一方で、冬になっても軍団を解散せずに兵士を使い倒し、功績に嫉妬した市民に告発されて国外への亡命を余儀なくされたりといわゆるカリスマに恵まれていない人物に思われていますがむしろカミルスの求心力がなければローマは分裂と衰退を避けることができなかったでしょう。
† † †
遅々たる歩みを経て王政時代の勢いを取り戻していたローマはかつての屈辱を晴らすべく、かつ目の前の不平等条約を打ち破るべくエトルリア諸市への侵攻を始めます。世は流れてポルセンナもタルクイニウスも過去の人となっていましたがそんなことは彼らの知ったことではありません。大都市ウエイに軍勢が送られると攻略戦は七年も続き、金も物資も豊富なウエイは頑迷に抵抗しますが互いにどこ吹く風のエトルリア人は同胞を助けようなどと考えもしません。膠着する戦況にローマが送り込んだのが周辺部族との戦いで武勇を示していたカミルスで、太股に槍が刺さっても怯まず戦い続けたという人物です。
勇敢で厳格なカミルスは天才的な指揮官ではありませんが、視野が広く目の前の戦場に固執することがありませんでした。赴任した早々に周辺都市を抑え、アルバヌスの湖水も塞いでまずはウエイの補給を断つことから手をつけます。更に包囲した軍団が冬に引き上げては意味がありませんから、兵士には軍役を続けさせるかわりに給料を払うことを思いつきました。もともと軍役はローマ市民の義務で、無償で行うのが当たり前でしたから兵士はカミルスの措置に感謝します。それでもウエイ攻略には三年の月日を要し、掘り進んだ坑道が女神ユノーの神殿に到達してようやく陥落させることができました。ローマに運ばれた女神像が微笑みを浮かべたと伝えられていますがユノーは主神ユピテルの妻となり、ウエイ市民にはローマ人の妻に等しい待遇が与えられます。
勝利した兵士は当時の慣例である都市の略奪に熱中しますが、この美しい町をいっそ首都にしたいと考えた彼らは略奪はしても破壊はそれほど行おうとはしなかったようです。カミルスは兵士を酷使した日々を思い返し、この勝利に報いがあるならそれはローマでなく私に落として欲しいと祈りますが振り返った途端、つまづいて転んだ彼はこう叫びました。
「なんとありがたいことだ。大きな幸運に小さな罰が与えられた」
こうして十年に及んだ攻略戦が終わり、戦利品の十分の一を神殿に納めたカミルスは凱旋式を執り行いますが、主神ユピテルに許された白馬を駆って登場したから人々は驚きかつ呆れます。ユピテルの妻を迎えた将軍の洒落た冗談かもしれませんが、いずれにせよカミルスが率いるローマは失われた力を少しずつ取り戻していく一方で新しい問題を抱えることにもなっていきました。
この時期、カミルスは度々独裁官に就任していますがこれは元老院と平民集会が対立して執政官選挙を行うことができずにいたためでした。戦乱が続き貧窮する家が生まれても給料や保証を与えることができますが、領土が拡大して裕福な家が現れることを止めることはできません。裕福な元老院と貧乏な平民集会の格差が広がり対立が尖鋭化する中で、元老院を主導する二人の執政官の一方は平民にすべきだという声が上がります。これだけを聞くとまっとうな主張に思えますが、平民には元老院の意向が及ばない平民集会があるのですからとても平等とはいえません。実験的に六人の軍事護民官なる人々が選ばれて合議制で国を運営している有り様でしたが、都市設備が整ったウエイに首都を移そうと彼らが提案するとカミルスは激しく反対します。ローマの神々を捨てればローマ人でなくなるとはカミルスらしい主張ですが、この状況を放置すればローマとウエイが分裂することは火を見るよりも明らかでした。ウエイの勝将カミルスがウエイの処遇に反対をするのですから、不承不承でも従わない訳にはいきません。
対立がくすぶる中でカミルスはファレリの包囲戦を率いることになります。内紛の芽を外征で摘むためだと揶揄する声にも理があって、戦時中は護民官の権限が制限されるとはローマ法で定められていました。ファレリの住民もローマの事情は知っていたようで、積極性に欠ける包囲には緊張感が薄く城壁の外では子供たちが遊んでいるほどでした。ところがファレリで教師をしている男が一人、陣営を訪れるとあの子供たちを人質にすれば町は簡単に陥ちるではありませんかとカミルスに持ちかけます。今も昔も教師が子供をどう思っているか、考えさせてくれる話ではあるでしょう。
もちろんこんな話を受ければ人々の軽蔑と反発は決定的なものになります。男を捕らえたカミルスは当の子供たちに鞭や棒を持たせて追い立てさせますが、ファレリにとっても不名誉な醜聞ですからいっそこれを機に講和して矛を収めてはどうかという話になりました。カミルスにすれば持ちかけられた講和は名誉であり断る理由はありません。ところが兵士にすれば戦勝による略奪品が手に入らないから面白い話ではなく、給料はもらえたがボーナスが出ないとは身勝手でも正直な感想でした。これに目をつけた平民集会の強硬派がカミルスを告発します。ウエイの戦利品をカミルスの家で見たというのが告発の内容で、そんなことは当たり前ですが問題は平民集会の告発に元老院議員は手が出せないという制度そのものにありました。カミルスの友人も罰金の支払いには協力できるが不名誉な罪状をかわす票を集めることは難しいと匙を投げます。ローマには自主的に亡命した者は罪を問われないという不文律があり、妻子と別れたカミルスは単身ローマを去るしかありませんでした。平民の勝利、多数派の勝利と喝采する声が上がりますが民主主義と数の暴力を取り違える輩は昔から絶えることがありません。
ところがこの時期、イタリア半島ではアルプスを越えたケルト人が南下を続けている真っ最中でした。勇猛な王ブレンヌスが率いる、巨体に毛皮を着てウホウホいう白人の祖先たちはすでにエトルリア諸市のあちこちを襲い被害を及ぼしています。クルシウムという都市から要請を受けたローマはファビウスという人物を送りますが、ケルト人との交渉が決裂するとファビウスはその足でクルシウムに合流して出撃、手痛い敗北を喫しました。調停の使者が戦場に立つとは不公平ではないかと抗議するブレンヌスに、相手が蛮人でもその主張はもっともだと元老院はファビウスを更迭しようとしますが平民集会は平民派の彼を軍事独裁官に選出してしまいます。怒ったブレンヌスは侵攻の矛先をローマに変更、迎え撃つ軍団を率いるのは六人の軍事護民官でした。船頭多くしてケルト人の相手にもならず、急襲されると左翼は全滅して右翼は半壊、残りもウエイに逃げてしまいます。
怒り狂うケルト人は目と鼻の先、永遠の都ローマの陥落を前に人々はカピトリウムの丘に立て篭った、と史書にはありますが神殿が二つ三つ並ぶ広さしかないカピトリウムに大勢が逃げ込めた筈もありません。実際には元老院議員とその家族、ウェスタの巫女と呼ばれる祭祀団が篭城しただけで平民は文句を言うこともできず早々にローマを捨てて逃げていました。三日後にブレンヌスが到着したとき、あまり人がいないので計略かと疑ったというほどです。
こうして建国から363年が過ぎた紀元前390年、ローマはケルト人に劫略されます。逃げ遅れた者は皆殺しにされて家財は略奪か破壊されるに任され、不名誉な占領は七ヶ月間にも及びました。それでもカピトリウムに立て篭った人々の抵抗は執拗でブレンヌスもこれを打ち破ることはできず、しばらくするとケルトの陣営では食料が不足して疫病が流行り出します。何しろ石造りの大都市ローマには畑も森もなく、死体や汚物を投げ込んだ水道はとっくに使い物にならず、大河テヴェレは下水汚水が流れ込む悪臭ふんぷんたる川でしたから弱り果てた蛮族がごろごろ死んでいきました。
とうとう双方嫌気が差してこの辺で手を打とうという話になります。一千リブラ、三百キログラム超の金塊と引き換えに講和が結ばれますが、いざ引き渡しの時にケルト人が秤をごまかしたのでローマが抗議すると、ブレンヌスは聞く耳を持たず重りの上に剣を乗せて敗者はだまりなさいと恫喝しました。屈辱を受け入れたローマが最初に行ったのはカミルスを呼び戻すことであり、伝説では亡命先のアルデアで伝えを聞いたカミルスは若者たちを集めると、ウエイに逃げた兵と合流して引き上げるケルト人の背後から襲いかかります。油断していた蛮族を思うままに殺しまくり、取り戻した黄金の替わりに天秤を突き返して言いました。
「祖国は黄金ではなく、鉄の剣で取り戻すものだ」
実際には都合よく亡命先のカミルスが帰還できた筈もなく、蛮族は黄金を手に悠々とアルプスを戻ったことでしょう。ブレンヌスが立ち去って、生き残った元老院はケルト人を撃退するためではなくローマを再建するためにカミルスを呼び戻しました。変わり果てたローマは廃墟そのものといった様子で、いっそウエイに移ろうかという声もありましたが元老院は負けて国を捨てれば恥の上塗りだと拒絶します。とはいえウエイもローマ市民を快く受け入れると宣言していたので移住した人はいたようですが、残った人々は辛うじて一枚岩になると瓦礫のローマを二十年かけて再建します。カミルスは自ら陣頭に立ってローマを立て直しながらこれを機に攻め込んでくる近隣諸市や部族を退けました。ケルト人の戦いを参考にして、それまで三列横隊だった戦術をコホルスと呼ばれる小隊単位に編成して柔軟な動きができるように改良し、そのケルト人が再び来襲すると敵の剣が届かぬ長槍と、刃を滑らせる兜を作らせて堂々と撃退します。幾度かの敗戦もありましたが、必ず奮起して再戦を挑むと奪われた町を奪還してみせました。ケルト人の侵攻はローマだけではなくラテン連盟諸市にも壊滅的な被害を与えていましたが、彼らはカミルスを得ることができず急速に立ち直るローマの後塵を拝しやがて屈服していくことになります。かつてポルセンナに敗れたローマが勢いを取り戻していったように、ケルトに敗れたローマは新しいローマ連合を設立してその指導者となることができました。
このカミルスの手腕を見れば彼が有能な将軍だったと考えるのは当然でしょう。ですがそれよりも驚嘆すべきなのは分裂するローマを彼だけが抑えることができたという事実と、ケルト襲来前もその後もこれだけ戦争を続けながら、独裁官カミルスの下でローマの国力は増し続けたという事実です。彼が考案した政策の中には独身女性に持参金を持たせて独身男に娶らせるというものもあり、現代ならとんでもない発案ですが戦災寡婦を救済して人工減少を防ぐためにここまで考えるカミルスだからこそローマを強くすることができました。戦場で強いだけではなく、硬軟織りまぜる術も知っており叛乱を企図するトゥスクルムの町を電撃的に訪問して未然に抑えたこともあります。紛れもない軍事国家である共和政ローマで、第二の建国者と讃えられたカミルスは誰よりも優れた政治家だからこそ誰よりも優れた軍団を従えることができたのでしょう。
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