皇帝カリグラ(Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus)
生没紀元12年8月31日〜紀元41年1月24日
在位紀元37年3月16日〜紀元41年1月24日
私的評価
統率C
知謀E
武勇C
政治E
魅力A
第三代ローマ皇帝ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。神君ユリウス・カエサルと同じ個人名を与えられた、英雄ゲルマニクスの息子は現代でもガイウス帝の呼び名よりも狂帝カリグラの通称で広く知られており、歴代皇帝の中でも有名な暗君もしくば暴君の一人として扱われている人物です。とはいえ後代明らかに誇張されたと思える記述を差し引いたとしても彼の浅慮で無軌道な統治は批判されて然るべきですが、当時の事情を鑑みれば支持はできずともやむを得ぬと思わせる面がなかったわけではありません。
人に嫌われる名君であった先帝ティベリウスは晩年になるとカプリ島の私邸に閉じこもることが多くなり、奸臣セイヤヌスの横暴を許すなど失策もままありましたが、帝政に万事批判的な歴史家タキトゥスさえ彼が成した統治の実績は認めざるを得ないと評したように全体を通してみればローマに平穏と繁栄をもたらしました。国境は安定して街道の治安は万全、財政も健全だからこそ人々はケチで陰気な皇帝のゴシップをおもしろおかしく語ることができたのです。アウグストゥス後のローマを支えたティベリウスの剛腕は彼が若い頃から最前線で戦いに明け暮れた実績と、後には行政官として多くの計画に携わった経験に基づいており、無意味な討議を繰り返すばかりの元老院よりもよほど徹底した現地現場主義の統治を実現させていました。
このティベリウスの後継者として当時期待されていたのがカリグラの父ゲルマニクスであり、皇帝は若い英雄を自分と同じように軍事にも行政にも広く携わらせようとしましたが東方視察に訪れた際に急死、ゲルマニクスと同世代で皇帝の実子であったドゥルーススも後にセイヤヌスの陰謀に巻き込まれて命を落としてしまいます。新たな後継者を探す必要に迫られたティベリウスが幼いガイウスを選んだのは、アウグストゥスがゲルマニクスを選んだときと同様ほとんど他に選択肢がなかったことによるでしょう。英雄ゲルマニクスの子はかつて子供用の軍装を着せられてカリグラ(小さな軍靴)の愛称で親しまれており、陣営から引き離そうとしただけで暴動が収まったほど兵士に慕われる存在でした。自分が人に嫌われる皇帝であることを自覚していたティベリウスの後継者は、やはりゲルマニクスの子である必要があったのです。
若い英雄ゲルマニクスが早逝すると皇帝はガイウスを国母リヴィアに預け、後にはカプリ島の自邸で養いますがこれは後継者候補の少年を母アグリッピナから引き離すことが理由だったかもしれません。夫の死が皇帝の陰謀によるものだと吹聴していた彼女はその後もたびたびティベリウスと衝突し、遂に反逆罪で告発されるとガイウスの兄弟ともども追放されています。父を失い母と引き離されたガイウスは穏当に育てられていましたが、史書には「この時期のカリグラほど立派な奴隷もいなければ見下げ果てた主人もいない」と書かれており英雄の息子が嫌われ者の皇帝に仕える姿は人に受け入れられ難かったようです。
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紀元33年に財務官に就任したガイウスは行政に多少携わる機会を得ると、35年にはティベリウスの孫ゲメルスと並ぶ皇位継承者に指名されますが、37年に皇帝が逝去するとゲメルスへの指名は取り消されてカリグラが単独の皇帝に就任します。皇帝の死は自然死であるという説と暗殺されたという説が残されており、スヴェトニウスに到ってはカリグラが自ら皇帝を殺したのだと主張していますが流石にこれは眉につばをつけたほうがよいでしょう。元老院にも市民にも圧倒的な支持を受けていたガイウスがあえて老齢の皇帝を殺害する理由はなく、何もせずとも彼が皇帝になることをすでに万人が認めていたのですから。
ローマに向かったガイウスを待っていたのは人々の熱狂的な歓呼の声でした。未だ二十四歳、多少の行政経験だけで軍務に就いたことすらない若者が支持された理由は先帝ティベリウスがそれだけ嫌われていたことの証明でしょう。史書に曰く、日が昇るところから沈むところまですべての世界の人々から愛されたという英雄の息子は、平和で豊かではあっても窮屈だった老人の時代が終わり精神な若者の時代が訪れることを人々に期待させたのです。新帝ガイウスは三ヶ月におよぶ盛大な祝典を開催、ティベリウスの緊縮財政下で中断されていた剣闘士競技が再開されて兵士には皇帝就任を祝う賜金が支給、災害の被災者には免税措置が施されて、護民官選挙の権利を平民集会に戻すといった改革も行われますが新帝の施策や行動はほとんどが民衆寄りで皇帝が人々の支持に敏感だった様子が窺えなくもありません。中でも象徴的なのが母や兄弟が追放された地を訪れたガイウスが遺骨をローマに持ち帰るとアウグストゥス廟に安置させたことであり、新帝はティベリウスの孫ではなくゲルマニクスとアグリッピナの息子であることを示したことでした。就任から半年後、若く気前のよい皇帝が急病で倒れたときは人々は昇ったばかりの日が落ちる恐怖にとらわれて快癒を切願、皇帝が回復するならば自分の命を捧げると誓う者が現れる始末で、やがて容態が落ち着くと心からの祝いの声がローマ全土を覆いました。
この皇帝ガイウス・ゲルマニクスの統治が豹変した理由を歴史家は様々な理由で語ります。統治後の急病が原因とする説、遺伝性の分裂症だとする説、皇帝の地位が彼を変えたのだとする説、もとから暗愚だったが国庫が潤沢なうちは気がつかなかったのだとする説、中には魔法の薬を飲まされたのだという突飛なものまで存在しますが彼らの中で最も客観的な描写で知られるタキトゥスの著作が散逸し、残されているのが皇帝に直接迫害されたユダヤ人フィロンの筆や皇帝暗殺の嫌疑で処刑されかかったセネカによる記述、醜聞好きなスヴェトニウスやディオン・カシウスらの記述という有り様では公正な評価に迫ることなど到底できそうにはありません。失われた記録の中には皇帝ガイウスの事績を賛美するものもあったらしく、カリグラが本当に狂人であったのかは意見が分かれるところですが少なくとも短い統治期間において彼が批判あるいは非難に値する言行を残したことは確かでした。
皇帝が病から回復すれば身命を捧げると誓った人に約束を守りなさいと言って崖から突き落とした、バイアエの湾上に長大な浮き橋をつくるとアレクサンダー大王の衣装を着て馬で駆け抜けた、宴席に呼び出した配下の妻を寝取るとこと細かに房事の内容を説明した、競技場で行われる公開処刑に足しげく通って「あの禿げ頭からあの禿げ頭までを殺しなさい」と言った、妹らと近親相姦にふけり宮殿を売春宿にした、突然神様の衣装を着て元老院に現れると愛馬インキタトゥスを執政官に任命したなど、狂帝カリグラの所業にまつわる記述は枚挙に暇がありません。ですが「君たちの仕事なら私の愛馬にも務まる」という皇帝の徹底した元老院軽視の姿勢と、記録を残したのがその元老院議員である事情は差し引く必要があるでしょう。帝政以降の元老院とは失われた権威への郷愁はあってもそれを取り戻す気概はなく、任地に妻を連れて行くべきかどうかで延々と議論するような人々でした。
とはいえ皇帝の無軌道な統治ぶりも否定しようがなく就任からわずか一年後、際限のない浪費がたたったローマは財政破綻の危機を迎えます。極端な支出で枯渇した国庫を潤すに極端な方法しか考えつかないカリグラは裁判や結婚への課税、兵士からの戦利品の徴収、剣闘士の助命を競売にかけるなど様々な手を考えますがその程度で解決するならそもそも財政破綻に陥る筈がありません。さしたる効果もなくカリグラ自身がローマを駆けまわり、市民にお金を貸してくれるように頼んでまわったという記録すら存在します。一方で皇帝は様々な建築事業にも携わっており、現代でもバチカンのオベリスクとして知られる巨大な石柱が据えられた大競技場をはじめとして多くの水道や港、神殿といった公共施設を残していますが、先述したバイアエ湾を渡る見世物用の浮き橋やネミ湖の水上宮殿ともいうべき巨大な遊覧船など、浪費としか言いようがないものも多くこれが破綻の原因の一部を担ったことは確かでしょう。カリグラは統治者として無為ではありませんが疑いなく節度がありませんでした。
皇帝の極端な手法は明らかに統治の経験がないことによるバランス感覚の欠如が原因でしたが、軍務や外交においても素人同然の事情は変わらず同盟国マウレタニアを併合するために王を突然処刑したり、思い立って敢行したブリタンニア遠征では準備不足のままドーバー海峡に軍勢を集めますが渡ることすらできず兵士に貝殻を拾わせただけで引き上げたりもしています。自ら生きながら神と称したのも多民族多宗教国家としてのローマを理解していなかったからこそであり、アウグストゥスが自らを知性の神アポロンになぞらえたのを知ると自分は主神ユピテルその人であると、半裸で雷を模した杖を手に人々の前に現れました。共和政末期の内乱を終えたローマでアウグストゥスが戦いの神ではなくアポロンを選んだ事情などカリグラが考えるはずもなく、公文書にはユピテルと署名して神像の首を自分のものにすげ替え、教義上自分たちの神様しか崇拝しないユダヤ人をユピテルであるカリグラを崇拝しない者だとして冷遇するとその後の政情不安の種を産み落としています。
カリグラ暗殺の挙に及んだのは近衛軍団を率いるカシウス・カエレアという人物であり、かつてユリウス・カエサルを暗殺したカシウス・ロンギヌスに自らを重ねたのかもしれませんが、あるいは日頃から女々しい性格をしていたという彼が皇帝から「男根くん」や「女性器さん」という猥雑な名で呼ばれていたことが原因だったかもしれません。決行の日、数名の将校を従えたカシウスは皇帝に襲いかかると手に手に三十回もの刃を突き立て、カリグラの妻カエソニアも探し出して刺し殺すと幼い皇女の頭を壁に打ちつけました。
暗殺に成功したカシウスは軍団の指揮権を元老院に返還すべく画策しますが、これは共和政復帰を志したというよりも暗殺の大義名分として他にあり得ず、帝政が存続すれば皇帝暗殺が罪に問われることが明らかなためだったでしょう。ですがカシウスに先んじた近衛軍団兵はカリグラの叔父で英雄ゲルマニクスの弟であるクラウディウスを見つけて匿うと、皇帝ガイウスの死を嘆き暗殺者を法に従って処罰することを求めます。元老院は近衛軍団の要求を退けることができず、クラウディウスが後継者に指名されることが可決すると暗殺者たちは処断、ローマは共和政に復帰する機会を逃して一人の皇帝が主導する帝政として続いていくことになりました。皇帝ガイウス、カリグラの治世はわずか4年で終わると多少の事績も成したとはいえ財政は破綻して外交では騒乱の種を残し、近衛軍団と元老院が対立する二重構造もむしろ彼の死後の混乱によって助長されることになります。狂気の皇帝カリグラが祖母アントニアを前にして、
「頭と胴体のつりあいが悪いから死になさい」
そう語ったとするエピソードの真偽はともかくとして、そのようなエピソードが残されていること自体が覆し難い彼の評価を示していますがその短い治世を通じて彼が市民には支持され続けたこと、そして兵士や近衛軍団は皇帝が暗殺されても共和政ではなく帝政が望まれたことを忘れるわけにはいきません。それは誰からも嫌われた皇帝ティベリウスであっても、狂帝カリグラであっても元老院が治める共和政ローマよりはましだと人々に思われていたということでした。
もしも英雄ゲルマニクスに時間があれば、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスは偉大な父を助ける存在として父に従い最前線における軍務と行政、そして帝政ローマを主導する第一人者としての統治の経験を積むことができたのでしょうか。アウグストゥスの血と統治の実績、アグリッパの軍功と行政経験のすべてを備える人物をユリウス=クラウディウス朝はついに得ることができませんでした。それを思えば狂帝カリグラとは、何の経験もない若者にあまりに高すぎる理想が求められたが故の結果だったのかもしれません。彼は狂人だったのではなく、ただ能力と分別に欠けるだけの凡人であったかもしれないのです。
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