偉大なるポンペイウス(Gnaeus Ponpeius Magnus)
生没紀元前106年9月29日〜紀元前48年9月29日
私的評価
統率B
知謀B
武勇S
政治D
魅力D
古代地中海世界最強の人物は誰かという子供じみた質問に、その候補の一人であるカルタゴの将軍ハンニバルは彼自身でなければアレクサンダー大王と傭兵王ピュロスの名を挙げています。そして古代ローマ最強の人物であればアレクサンダーと同じ「偉大」の二つ名を冠したグナエウス・ポンペイウスを置いて他にありません。25歳、35歳、45歳で生涯三度の凱旋式を挙行、本来は40歳以上で軍団指揮権を与えられるローマで「この戦いはポンペイウスでなければ勝てぬ」として地中海世界全域の反乱鎮定や海賊討伐に奔走してそのすべてに完璧な勝利を収めています。彼の敗戦は生涯ただ一度、ユリウス・カエサルに敗れたファルサルスのみであり、歴史は彼を敗軍の将軍として語りますが百戦錬磨の軍団を率いるカエサルに対して戦場を離れて久しい兵士たちを率いて拮抗してみせた才腕は「偉大なる」ポンペイウスならではのものだったでしょう。
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首都ローマに近隣諸市が反旗を翻した「同盟市戦争」が勃発した当時、父に従い若干18歳で戦場に立ったのがポンペイウスの軍歴の始まりとされています。若く美しい青年ポンペイウスは混迷するローマで後の独裁官スラに従うべく参与するとシチリアやアフリカを転戦、そのすべてに勝利を収めてスラ自身から「偉大なる者」を意味するマグヌスの名と凱旋式挙行の権利を与えられました。後にスラが引退、死去するとヒスパニアで起きた反乱討伐の指揮を志願、未だ29歳の若者の申し出に元老院は渋る顔を見せますが特例として認められると現地司令官メテルスと共同の指揮に当たり、メテルスが反乱討伐に専心する間にポンペイウスは本国からの輸送路を構築してゲリラ戦を試みる相手を圧倒、自滅に追い込みます。鎮圧後の施政も公正なものでヒスパニアは後々まで彼の支持基盤となりました。
凱旋したポンペイウスはかのスパルタクスの乱を鎮定したクラッススとともに執政官選挙への出馬を表明、若すぎて何をしても先例無視になるポンペイウスは何の先例も気にすることがなく、紀元前67年には地中海全域の海賊征討のために「計二十個軍団による三年期限の総指揮権」というやはり前例のない大規模な軍事作戦の司令官に選ばれます。戦争の天才ポンペイウスの最高傑作ともいうべき作戦は壮大さと緻密さの双方を極めており、地中海を十三に区分したそれぞれに船団を配備するとポンペイウス自身は電撃的に各地に出没、最初に地中海西部の敵を撃破してそのまま袋の口を絞るように東へ進攻、半減した海賊を根拠地キリキアに追い詰めてわずか三ヶ月足らずで地中海全域の制圧に成功してしまいました。
「冬に準備した。春に動いた。夏までにすべてが終わった」
相手が対抗できない大軍を相手が対応できない高速で動かし、しかも敵を半分ずつに分断して順番に殲滅する。舞台を一つの戦場に限れば華麗な戦いを繰り広げる指揮官はいくらでも存在しますが、広域に渡る戦局を自ら演出して戦場でも自ら指揮を執ってみせた司令官となればポンペイウス以外に多くを数えることはできません。各地の騒乱を鎮定したポンペイウスは東方に派遣されると既に常勝将軍ルクルスに打ち破られていたポントスを掃討、時計回りにアルメニアからシリアへと南下して、後には頑強な抵抗を示したユダヤの「天然要塞」エルサレムをわずか三ヶ月で陥落させてしまいます。その後エジプト王家の騒乱を仲裁してから帰国、地中海の西から東までを一巡りしてローマに帰還する壮大な凱旋行はポンペイウスならではのものでしょう。
こうしてスラ幕下での勝利、ヒスパニア鎮定、海賊討伐と生涯三度の凱旋式を挙行することになるポンペイウスですが、戦争を終えた戦争の天才も元老院では政治経験の浅い議員の一人でしかなく、文句のつけようがない英雄が増長することを恐れた元老院は彼を冷遇で迎えます。その結果、特別扱いされることに慣れた特別なポンペイウスはカエサルの主導する平民派に懐柔されると世に言う三頭政治が設立、ポンペイウスは決して平民派ではありませんが彼に従軍した兵士への報奨を与えるために協力すると後は名誉職と若妻との安穏な生活に満足して隠棲します。三頭政治を主導するカエサルはガリア征討で躍進、もう一頭の重鎮クラッススは功を焦ると東方で戦死していました。
カエサルの台頭によって国政の主導権を奪われた元老院でしたが首都では平民派と貴族派の過激分子による衝突が頻発する事態となっており、平民集会はこれを収拾することができません。元老院は治安を回復するために前例のない「同僚なき執政官」への就任をポンペイウスに要請、一方でガリア制圧を完了したカエサルには総督職の任期延長を認めず、執政官選挙に出るなら慣例に従い非武装で首都に赴いて立候補をするようにと通達します。当然の要求にも聞こえますが首都に兵を連れて入ることは法で禁止されており、話し合いに応じたところを非常事態宣言を理由に殺害されたグラックス兄弟の先例もあってカエサルにすれば呑める条件ではありません。交渉が不発に終わるとカエサルは首都侵攻を決断、元老院は「首都の治安を回復するための元老院最終勧告」を宣言するとポンペイウスに出馬を要請してローマを二分する内戦へと突入します。
ガリアの英雄を戦争の天才が迎え撃つ、ですがカエサルが率いる軍団は十年近くも司令官と寝食を共にした百戦錬磨の戦士であり、ポンペイウスの兵は十年以上も戦場を離れた過去の英雄たちでした。戦いの前に訓練の必要あり、そう唱えたポンペイウスはイタリアを後にギリシアでの戦力再編を図りながら自派の将軍をヒスパニアとアフリカに派遣、イタリア半島を西と東と南の三方から囲むカエサル包囲網を構築します。ポンペイウスを追えば背後を突かれるカエサルは「ならば将なき兵を討ってから兵なき将を討つ」と転進、アフリカでは敗北しますがヒスパニアは制圧してポンペイウスの勢力を東南二面に抑えることに成功しました。ここでカエサルはアフリカ奪還に固執せずギリシアへ渡航、遂に両者が直接対決する舞台が整います。人間を正当に評価するカエサルが「兵なき将」と語る、たとえ弱兵でもそれを率いるのはあのポンペイウスでした。
ギリシア西岸デュラキウムに拠点を構えたポンペイウスをカエサルが攻囲する戦いは補給と物資に劣るカエサル軍に対して海上を制圧したポンペイウスが優位な陣取りを進めます。壮大さと緻密さを備える戦争の天才はカエサルの塁壁の一部が弱いことを見てとると突破を画策、弱所を突かれたことを察知したカエサルも味方を救うために即応しますがそれすらも予測したポンペイウスはすかさず複数の陣地に同時進攻、これに海上からの攻撃も加えてカエサル一人では対応できない状況を作ります。恐慌をきたしたカエサル軍は潰走、あまり真に迫っていたので罠を恐れたポンペイウスが追撃を断念したほどでした。
こうして初戦はポンペイウスが完勝しますが、カエサルとはもともと不敗の英雄ではなく敗戦の後に挽回する堅忍不抜こそが真骨頂の将軍です。ポンペイウスは自分の庭にカエサルを誘い込んだ有利を知っており、持久戦で消耗させるべきと考えますが彼に帯同する元老院議員らが勝利に気をよくすると即時決戦を主張、慎重策など自分たちに命令できる時間を延ばしたい司令官の怠慢でしかないとの声すら挙がりました。この無責任な主張に激怒する者もいましたが、カエサルが長期戦に備えた穀物購入や別働隊襲撃の動きを見せたこともあってポンペイウスは敵が蠢動する前に出陣、捕捉することを決意します。決戦前夜、乏しい食料を兵士と司令官が分け合う敵に比べて、ポンペイウスの陣営では誰がカエサルの官職を引き継ぐかで言い争いが始まっていました。
古代ローマ最大の決戦となるファルサルスの戦いはエニペウス川を左に置くカエサルの正面にポンペイウスが対峙、戦争の天才が企図したのは「偉大なる」アレクサンダーが得意とした速攻による半包囲作戦です。左翼騎兵が前進すると同時に中央右翼は待機、ポンペイウスが頼む騎兵は敵の騎兵を蹴散らすと主力に突入しますが「突入されてもその場を動くな」という常軌を逸した命令を受けていたカエサル兵が踏みとどまると、逆に衝突を恐れた馬が逃げ出してしまい左翼が混乱します。こうなれば正面からは敵の重装歩兵、左からは騎兵突撃にも耐える敵の精鋭が襲いかかって川に追い込まれることになり、数を頼みに乱戦に持ち込んでも兵士の質で及ばないことを知っているポンペイウスは生まれて初めての退却を決意します。ポンペイウスは一時エジプトに逃れてから北アフリカの軍勢と合流するつもりでいましたが勝者に媚びるエジプト王家は恩人を受け入れるふりをして殺害、ローマを二分した英雄は卑小な暗殺の刃にかかりカエサルはポンペイウスの死に涙を流しました。生涯ただ一度の敗北を経験した戦争の天才は戦場の勝利を捨てて戦局での挽回を図ろうとしましたが、小物の策謀を見抜くことはできませんでした。
歴史でも物語でもカエサルに敗れた人物として知られているポンペイウスですが、後に歴史家プルタルコスは彼をアレクサンダー大王にも並ぶと評した上で、もしもカエサルとポンペイウスが手を結べばパルティアどころかインドでもその先までも行けただろうと述べています。「不敗の将軍たちがかつて抱いた友情はどこにいったのか」批判とも慨嘆ともつかぬ言葉をプルタルコスは書き添えずにはいられませんでした。
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