皇帝クラウディウス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus)
生没紀元前10年8月1日〜紀元54年10月13日
私的評価
統率D
知謀A
武勇C
政治B
魅力D
男根くんまたは女性器さんと呼ばれたカシウスがカリグラを刺し殺して後、さしたる期待もされないまま皇帝に就任したにも関わらず賢明な治世をローマにもたらしたのが皇帝クラウディウスです。皇帝になる以前に軍務や政務に携わった経験などまるでなく、エトルリア史やカルタゴ史などを著述してせいぜい二流の歴史家と思われていたこの人物が、いくつかの私的な欠点こそありましたがアウグストゥスに次ぐと評される賢明な統治を実現してみせると後の皇帝が就任する際に「私はアウグストゥスとクラウディウスの統治に倣う」と宣言するようになるほどでした。
ところがこの歴史家皇帝クラウディウスが、当時においても後世においても肝心の歴史家に軽んじられている事情は気の毒としか言いようがありません。なにしろ現代において彼がどのように扱われているかといえば、かの皇帝ネロを即位させるために妻のアグリッピナに毒キノコ料理を食わされて死んだ皇帝、という有り様なのですから。
† † †
帝政ローマで皇帝とは軍の最高司令官を兼ねていましたから、カリグラが死んで放置すれば元老院がこれさいわいとばかり共和政復帰宣言をしないとも限りません。そうした混乱の中、暗殺を決行した近衛軍団が後継者を探す必要に迫られると目をつけたのがティベリウス・クラウディウス・ネロ、英雄ゲルマニクスの弟で初代皇帝アウグストゥスの姉オクタヴィアの孫でありカリグラにとっては叔父にあたる人物でした。
カーテンの陰でふるえているところを見つけられたクラウディウスは当時51歳、かつてカリグラが皇帝に就任したときに共同執政官に指名されたことがあり、元老院の議席も名目だけは持っていましたがこの年齢になるまでカリグラ以上に軍務にも政務にも携わったことがありません。なにしろ生来病弱で、小児マヒの影響かどもりでびっこだったというクラウディウスは門外漢どころか員数外の息子として扱われると、彼の母親が人をバカにするときに「私の哀れなクラウディウスよりも哀れなやつ」と言ったというから相当なものでした。ふつう美化される彫像を見ても新皇帝は明らかにひ弱でぶさいくで、カリグラが彼を共同執政官にしたのもさらし者にするためだったと言われているほどです。
「私が皆にうすのろだと思われていることは知っている、だが私はうすのろのふりをしていたのだ」
近衛軍団に担ぎ出されて元老院に登壇したクラウディウスはそう前置きすると、唾を飛ばしながらの聞き苦しい話しかたではありましたが思いのほか明晰で理の通った演説を披露して議員たちを驚かせました。ですが喝采を受けた皇帝が今度はなんの脈絡もなく毒蛇に咬まれたときの対処法を説明しはじめたから皆を不安にさせたのも確かです。ローマで必修の弁論術など習ったはずもないクラウディウスは調子に乗っても動揺しても演説がめちゃくちゃになるのが常でした。
新皇帝が最初にしたのは国家反逆罪で元老院議員を罰しないという宣言と、カリグラを暗殺したカシウスを呼んで暴君誅殺の功を讃えると同時に皇帝を害した罪を問うたことです。いわば元老院を害せず皇帝も害されないという原則を示したというわけで、ティベリウス末期の粛清もカリグラ暗殺も正当化しないという宣言であり、流血の連鎖を断ち切る意思を最初の施政方針に掲げたクラウディウスのセンスは非凡なものではあったでしょう。
クラウディウスは先帝の治下わずか4年で破綻した財政の再建に取り組みますが、幸いなことにティベリウス時代の軍団も行政組織もそのまま残っていましたから皇帝は正しい舵取りをすることだけに専念できました。乱脈だが精力的ではあったカリグラの施策を全廃するのではなく水道や大競技場など有用なものは残し、質実剛健すぎて祭りのひとつもないティベリウスの施政とも違って自ら着手した干拓事業で派手な海戦ショーを主催、沈めた船を基礎工事の資材に使うようなこともしています。寛大なところを見せようとして、ショーに駆り出した罪人を恩赦したら真面目に戦わなくなったというエピソードもありますが、こうした素人くささも市民に親しみやすい愛嬌と受け取れなくはありません。結果、財政を建て直したという一時だけで彼が過去どころか現代の多くの為政者に勝るといえばたいていの人が納得するでしょう。
軍事と行政の専門家が集まるローマ指導層の中であくまで素人だった皇帝は、山のような仕事を片づけるため彼の家に仕えていた解放奴隷に政務を取り仕切らせました。一介の執事が官房長官を任されるようなものですが、抜擢されたナルキッススやパラスは有能な人物でしたからどもりの皇帝を相手にするよりよほど仕事が楽でした。中途に終わっていたカリグラのブリタンニア遠征を再開すると聞いて人々は年寄りの冷や水だと笑いますが、実際に皇帝自ら渡航すると現地に橋頭堡を築き原住民に打撃を与えて堂々と凱旋を果たしてしまい、彼も英雄ゲルマニクスの弟であったのかと皆が皇帝の偉業を讃えます。
と、ここまでの事績を見るにアウグストゥス以来の賢帝と呼ばれるにふさわしいクラウディウスですが惜しむらくは彼には彼を擁護する者にも無視できない欠点がありました。それは彼が不恰好で威厳がないという実に些細なことでしたが、軍務や政務であれば皇帝の権威が使える彼も家に戻れば不恰好で威厳がないおじさんに戻ってしまうということでもあります。
クラウディウスは生涯に妻を四度迎えていますが、これは当時取り立てて珍しい例ではありません。珍しいのは男性社会のローマで彼が明らかに女の尻に敷かれていたということで、しかもそれは一般的にいう嫁が怖いというものではなく幼いころから病弱で、母の世話になっていたクラウディウスはまさしく「ママには逆らえない」レベルで女を恐れており、この性格のせいで彼は明らかに妻にナメられていました。
破廉恥女として知られる三番目の妻メッサリナは男として物足りなすぎる皇帝を後目にして、放蕩のあげく愛人シリウスと本当に結婚してしまいます。受けたシリウスも相当なものですが帝位への反逆行為以外のなにものでもなく、メッサリナは新郎ともども処断されますが狼狽したクラウディウスは「私の首はまだつながっているか」と周囲に呟くほどでした。そして迎えた四番目の妻アグリッピナは皇帝カリグラの妹で、つまりアウグストゥスの直系であり夫をナメているという点ではメッサリナすら彼女の足元にも及びません。自らにアウグスタの尊称を与えさせた「女皇帝」は息子のネロを皇帝にすべく暗躍すると毒キノコ料理で夫を殺害、首がつながっているか確認する間もなくクラウディウスは気の毒な生涯を終えてしまいます。
政治においては功績を残した、軍事においても実績を残した、だが家庭においては威厳を保てなかった。クラウディウスの治世を簡潔にたどればそのようになるのでしょうが、歴史家皇帝たる彼を語る上で決して忘れてはならない事績は「ローマが人類に残した教訓」と呼ばれる彼の演説にこそあるでしょう。それはユリウス・カエサルが平定したガリアの人々を属州民ではなく正式なローマ人として受け入れるという宣言でした。
「ユリウスがアルバ・ロンガから移住して、ポルキウスがエトルリアの出身であるように元老院は優れた人をイタリア全土から受け入れた。やがて国境が広がると属州からも人々を迎え入れて抜擢された者たちがローマを強くしていった。スパルタやアテネは戦争に勝っても敗者を受け入れず短い繁栄しか享受できなかったが、ローマは彼らとは逆の方法を選択した。戦った敵をその日のうちに受け入れるどころか、彼らが我々を指導したことすらある。そしてそれらはごく最近のことではなく、昔から何度も繰り返されていることなのだ。我々は確かにガリアと矛を交えたが、彼らとの友好も平和も揺らいでいない。我々がガリアに門戸を開くことも、いずれは私が挙げたと同じ歴史の先例として挙げられることになるだろう」
この格調高い演説は皇帝クラウディウスの言葉として碑文に残されており、出自も身分も勝者と敗者の区別もなくローマのために志を等しくする者がローマ人であるとの宣言をいかにも歴史家らしい論調で示し、自分たちの決定もそうした歴史に残る記録になるのだという呼びかけです。この演説がなければ現在のヨーロッパは存在せず、西欧文化は形を変えていたに違いありません。そう思えばたとえどもりでびっこでも、ぶさいくで不格好でも、ママに逆らえないマザコンのおじさんであったとしても、歴史家たちはむしろ堂々と彼の時代をして歴史学の勝利とうたうべきである、それが歴史家皇帝クラウディウスの事績なのです。
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